プロポ

【プロポ3】名前のない居場所:人間関係の遠景

 

 名前のない居場所。社会のさまざまの属性や組織に所属して生きている僕たちは、そのような属性や組織を自分たちの居場所だと信じています。それらの居場所では、もしかしたら自分のあるべき姿や役割が決まっているのかもしれません。それはとても良いことで、だからこその居場所です。しかし僕たちにはそれとは異なる、どんな形の自分でいても良いけれど自分の居場所だといえる、そんな空間や関係も必要な気がしています。まず最初に僕の個人的な名前のない居場所の話を、少し。

 仕事からの帰路、駅までの道のりは、大きなけやきの並木通りを歩いたものです。午後7時頃にその道を歩くと、週に2日くらいの頻度で、異国的なゆったりとしたメロディが聞こえてきます。彼女の歌声が聞こえると私はちょっと嬉しくなって、彼女がいる側に道を渡って声をかけます。そこにいるのは4-50代にみえるロシア人の女性(仮にここではターニャさんとしましょう)。小さなピアニカのような楽器(息を吹きこむ代わりにアコーディオンのような蛇腹の簡易的な部品を動かすことで空気を送る)を膝に置いて、しっとりと良く響く声で歌っています。よく聞くとその歌が伝える言葉は「ハレーハレークリシュナクリシュナ」。インドを中心に信仰されるヒンドゥー教文化圏で唱えられるマントラ(真言)です。ターニャさんは日本でクリシュナを広める団体に所属していて、その活動の一環としていろいろな街角で歌っているのです(実は別の駅で歌うターニャさんにばったりあったこともあります)。異文化の思想に興味があった僕は、彼女から日本語に訳されたクリシュナの物語やヒンドゥー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギーター』の本をいただき、いろいろな話をするようになりました。それから見かけるたびにお互いに声をかけ、数分だけ立ち話をして帰るという不思議な関係が続きました。お互いにそれ以上距離を詰めようとはせず、心地よい距離のままで。そのようにしてターニャさんと話していると、たまに先客としてターニャさんと話している人がいてそこに混ぜてもらったり、反対に僕が話している後ろで通りすがりにターニャさんにひと声かけていく人があったり、ということが起きます。帰路でターニャさんの声が聞こえると嬉しいし、聞こえなくても寂しくない。ただそこに自分が居てもいい、関係してもいい空間が散発的に現れるのです。こんな交流がしばらく続いて、僕の頭にじんわり浮かんできたのが「名前のない居場所」という言葉。これが僕の名前のない居場所の話です。

 学校にいけば僕たちはどこかのクラスの一員であり、部活動の部員かもしれません。制服を着ていれば学生としての存在します。会社で働いていれば、自分の職務のほかに、ある人から見れば先輩で、ある人から見れば後輩。ある人から見れば労働力で、ある人から見れば責任者。習い事をしていれば生徒に戻ることもあって、家に帰れば親であったり、子であったり、姉であったり、弟であったり。僕たちはみんなそれぞれの居場所で、異なるペルソナ(仮面・顔)を持っています。そして自分ひとりのときの自分は、また別にいる。
 僕のイメージですが、ひとりのときの自分は無形というか、アメーバかスライムのように自由といえば自由で、とりとめがないといえばとりとめがない形をしています。しかし上に挙げたような居場所に収まるときには、それに合わせてグリュリュっと形になって出かけていく。そして無形が本当の自分とか、特定のペルソナが本当の自分とかいうことはなく、すべて合わせた総体として存在するのが自分なんです。

 「名前のない居場所」という言葉に至ってから良く思うことは、僕たちにはもっと無形のままで他者と関係する機会があってもいいのではないかということです。「友達」という関係が僕はすごく好きで、これは割と無形に近いというか仕事やその他の活動のための組織と異なり「こうでなければならない」という制約がないのが魅力です。しかし友達同士にも関係が長くなればなるほど「この友達との自分」「あの友達との自分」というモードが徐々に各関係のために最適化されていき、自分では制御できない無意識レベルでついに型に収まっていくものだと思います(これはむしろ良いことかもしれませんが)。そして「友達」と「名前のない居場所」の最も大きな違いは(これは「名前のない居場所」に僕が与えた定義とも関係するのですが)、「友達」が集まるのに「目的」があり、「名前のない居場所」には「目的」がないという点です。

 「名前のない居場所」とは何だろうと考えた時にまず浮かんだのは「目的がない」という特徴です。目的を作らなくても会えるという素敵な友人関係もあります。しかしそこには「友達に会いたい」とか「暇つぶしがしたい」とか「誰かと一緒にいたい」などの気持ちを満たす目的が必ずあります。一方で、「名前のない居場所」というのは、ただ会っている状態なんです。済ませる用事も、満たしたい気持ちもなく、ただ会っているという状態。これには常にある種の偶然性が伴うかもしれません。ここで次に浮かんでくる言葉が「共同体・コミュニティ」。もしかしたら名前のない居場所というのは、犬の散歩でよく会う奥さんたちの立ち話とか、行きつけのお店の常連さん同士の雑談とか、毎朝行くコンビニでお客さんと店員さんが交わす挨拶とか、そういう関係なのではないかと思います。

 僕の持論なのですが、人間関係にはさまざまな距離の種類があって、個人が取りうる理想的な世界との関係は、距離が極めて近い親密な関係だけ充実している状態でもなく、職場や学校などの中距離的な関係だけをうまく取りなしている状態でもなく、近・中・遠距離のすべての関係をバランスよく持っているという状態なんです。近・中・遠距離のそれぞれに同じくらいの量の関係があって、それぞれが好ましい状態にある。世の中には近・中距離の人間関係に関する言説やノウハウは溢れていて、それは近・中距離の人間関係の重要性が一般に認められているということでしょう。しかし、僕がここで書いている「名前のない居場所」というのはおそらく「遠距離」と呼んで差し支えないスコープに収まる種類の人間関係なんです。

 「名前のない居場所」を作ってみようと意識するようになると、遠距離の人間関係を大切にできます。個人営業のカフェやバーなどに入ると、ここが自分の名前のない居場所になるのかもしれないという考えが浮かんできます。そのせいか、お店の人に顔を覚えてもらえて、行くたびに自然と雑談をするような関係ができたりもしました。「名前のない居場所」という空間の特徴は、そこにいる人間同士になんの利害関係もないということです。お互いに別に嫌われても困らないし、逆に無理して話したり関係を繋ぐ努力をするのもおかしいような関係。それでもなんとなく心地よい関係。それも大切な人間関係のひと種類だと思います。

 話をまとめるのに、日本庭園の「借景式」という技術の話を引いてみます。岡本太郎さんの『日本の伝統』という著作に書いてあって知ったのですが、借景式というのは美しい日本庭園を造る際の「庭の外に見える自然の眺めを、庭園景観の構成要素のひとつとして組み込む技術」だそうです。塀を境界とする内側の人工美と、外側の自然美の調和が重んじられ、「借景なければ名園とはいえない」とまで考えられた、と記載されています。良い名前のない居場所を持つというのは、庭園の外にある景色の美しさに気付くことに似ていると思います。自分の敷地である庭の手入れにこだわるのもとても大切なことで、それ自体素晴らしいことです。それでも、視界に入るすべての景色の調和を総体とする全体美を追求した日本の庭師のような価値観は魅力的に思えます。僕はこの意味で、近・中・遠距離のすべての関係をバランスよく持っているという状態が理想的だと書きました。とすると、「名前のない居場所」というのは「人間関係の遠景」ということもできます。休日に山登りをしたり海辺に出かけたりすると、都会人の日常にはない遠景にお目にかかります。遠景をぼけーっと眺める無形の自分。そんな自分のままでいられる、薄くも大切な人間関係。それが「名前のない居場所」なんだと思います。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。