ネタバレするので
これから観る人は読まないほうが‥。
タクシードライバ―
名作中の名作として映画史に刻まれた作品。
Contents
『タクシードライバー』の概要
監督:マーティン・スコセッシ
主演:ロバート・デ・ニーロ
そして助演に当時13歳で鮮烈な印象を残した少女
ジョディ・フォスター
・・・
そうそうたるメンバーです。
これで面白くなかったら拍子抜けがすぎるというもの。
が、その期待に応える作品をつくるというのは生半可なことではないですよね。
というのもまあ、スコセッシ、デ・ニーロ、ジョディのその後の伝説化を良く知る我々の世代だから言えるのことであって、各氏ともこの映画をでさらに飛躍し、現在のような名監督、名優に近づいていったのかなあと。
あらすじ。
舞台はベトナム戦争後のアメリカ。
主人公トラヴィスは戦争のトラウマからか不眠症に陥っており、夜中でも働けるタクシードライバーの仕事をはじめます。仕事仲間は仲良くしていますが、トラヴィスはどこか彼らとはなれ合わないような距離を置いているようだ。実は自分はもっと特別な人間だと思っているようなのです。それで現状、自分がこんなやつらの一員でいていいのか、いやそんなはずがないと心の中で彼らを見下しているのです。
トラヴィスはタクシーを流している途中、2人の女性に目を止めます。ひとりが大統領選にでる候補者パランタインを応援して広報活動をしている美女ベッツィー。もうひとりが街で娼婦をする若い少女アイリス。
トラヴィスが最初に行動を起こした相手はベッツィーでした。自信満々で広報センターに入っていき、不敵に純朴な目つきで彼女を見つめ、愛を語り、連れ出します。最初は怪しげながらもミステリアスな雰囲気のトラヴィスに少し惹かれたようにも見えたベッツィーでしたが、トラヴィスが彼女をポルノ映画に連れて行ったことをきっかけに、さっさとヤリたいだけだと見透かされて振られます。
何者かでありたい、特別でありたいと思う心と、鬱屈した現実。そしてベッツィーという表舞台で晴れやかに生きる美しい人間から見捨てられてた今。不眠症というストレスにも悩まされ、トラヴィスの精神状態は錯綜していきます。そして彼が特別であるためにたてた計画が、大統領候補パランタインの殺害。
武器を仕入れ、それを隠して身に着ける装具を自前で作成、さらにそれを素早く使いこなして殺害計画を実行するべく体を鍛え、何度も銃を構える練習をします。鏡に映った自分に語り掛けるトラヴィス。作戦実行の時です。
モヒカンに刈り上げた様相でパランタインの演説にきたトラヴィス。もちろん隠した銃を身に着けています。演説を終えて車に乗り込もういうパランタインに近づき、まさに銃を取り出そうとした瞬間、SPに行動を怪しまれ、追跡されます。踵を返して逃げさるトラヴィス。計画は失敗。
そんな彼が次に目を付けた相手が街の娼婦アイリス。彼女はまだ12歳ですが、大人の男さえも虜にする美貌。金でアイリスとの時間を買い、彼女と部屋で二人きりになるトラヴィス。当然アイリスはサービスしようとします。しかし、トラヴィスは「そういうことがしたくてきたんじゃない」とアイリスを見つめ、こんな仕事はしてはいけない、家に帰れと諭します。後日二人は店の外でも会い、トラヴィスはさらにアイリスへの説得を続けます。しかしアイリスは、斡旋屋のスポーツという男には愛されていると感じており、それに満足もしているといいます。トラヴィスは繰り返し、そんなものは愛ではない、利用されているだけだと伝えますが、アイリスは動かない。
物語も終盤。トラヴィスが最後に実行した次なる作戦は、アイリスの救出。それはアイリスを囲う娼婦界隈の男どもの殺害を伴うものでした。パランタイン殺害計画のために準備した武器一式を再び手に取るトラヴィス。
スポーツの元へいき、まずは彼を銃撃します。そしてトラヴィスはそのままアイリスがいる建物へ。娼婦のサービスルームを管理している男の手を打ちぬき、さらにとどめを刺して先へ進もうとしますが、トラヴィス自身も後ろから追ってきたスポーツに銃撃され負傷します。他の関係者も乱入し、血を血で洗う銃撃戦に。
ようやくアイリスの部屋へたどり着いたトラヴィス、他の男を全員撃ち殺し、アイリスのそばで力尽きます。アイリスは悲鳴を上げ、トラヴィスを見る眼は救いのヒーローを見上げるそれとは程遠く…。
騒ぎを聞きつけ突入してきた警官は、ソファで今にも力尽きそうなトラヴィスは見つけます。すでに銃は弾切れ。狂気の表情を浮かべたトラヴィスは、指を銃の形にして自分のこめかみにあてプシュー、プシューと死んでみせました。
その後なんとか一命をとりとめたトラヴィスは、療養後、タクシードライバーに仕事に復帰します。狂気の犯罪者になったはずのトラヴィスですが、騒動についてのお咎めはなし。それは世間が、トラヴィスを娼婦の世界に巻き込まれた美しい少女を救った英雄として祭り上げたからでした。
ある日トラヴィスはベッツィーをタクシーに乗せます。彼女から肯定的な言葉をもらったトラヴィスは、ベッツィーを降ろして再び夜の街を走り始めます。
僕の解釈
社会への影響
この映画の影響力を最もわかりやすく伝えるものは
ジョディ・フォスターへのストーカー事件とレーガン大統領襲撃事件でしょう。
2つの事件は、映画『タクシードライバー』に強い影響をうけたあるひとりの男によって引き起こされました。
彼はまずタクシードライバーに出演したジョディ・フォスターに一目惚れ。勝手に運命の女性と解釈し、執拗なストーカー行為に及んだそうです。彼女の大学に侵入し接触をはかり、電話番号を調べて実際に電話。ジョディ・フォスターと直接話すところまで迫ったそうです。しかし、もちろん相手にされず、鬱屈した彼はレーガン大統領の暗殺に踏み切ります。しかしレーガン大統領は命拾い。犯人の男も精神疾患のため責任能力がないと判断されました。
まさにタクシードライバーのトラヴィスの人生をなぞるような事件です。
ベトナム戦争と当時のアメリカ
もう少し時代背景を踏まえると、この時期のアメリカ映画を語るうえで無視できないのが「ベトナム戦争」です。
この戦争は1975年に終結しましたが、タクシードライバーが公開したのが1976年です。
さらにトラヴィスは、戦争後の不眠症に悩まされているという設定。
タクシードライバーとベトナム戦争には何か関係があると考えるのが自然でしょう。
そこでまず当時のアメリカについて考えてみます。
ベトナム戦争は不名誉な戦争でした。
第1次世界大戦で独り勝ちしたアメリカはそれ以来、恐慌などを経験しつつも、世界一の超大国としてふるまってきました。そもそもヨーロッパで腐敗したキリスト教に反対し、宗教改革を推し進めてきたプロテスタントの集団が移動して作ったのが13植民地です。さらに植民地側は本国イギリスの重税に反旗を翻して独立。南北戦争でも、本音では経済利益のためですが、建前では奴隷解放という思想を掲げました。第1次大戦でヨーロッパが荒廃したとき、ほぼ無傷だったアメリカは戦間期のヨーロッパ各国の資金繰りを助けてさらに繁栄。さらに戦間期の世界恐慌の際に、植民地を「持たざる国」だったイタリア・ドイツ・日本が状況打開のためにファシズム国家となり暴走します。この段階で世界はファシズム国家・自由主義国家・共産主義国家の三つ巴ですが、まずは自由主義と共産主義が手を取ってファシズムを駆逐。これは暴走するファシズムを食い止めて、世界の民主化を実現するという正義で正当化されました。大戦が終わると残った二陣営、自由主義(資本主義)と共産主義の冷戦が戦いますが、ここでもアメリカの立ち位置は、人々の自由を奪う共産主義を打倒しなければならないという「正義」です。
簡単に言えば、アメリカはひたすら自分たちの求める正義を押し通すのに成功してきた国であり、それが天命とも考えてきたのです。
インディアンの抹殺・フィリピンの征服・原爆の投下も、天命のための正義として黙認されてきました。(もちろん評価を改める議論もありますし、インディアン虐殺を負の歴史として教えることも、反核運動も、アメリカ国内で起こっているので、アメリカ面の皮の厚いジャイアン国家だと言っているわけではないですが…まあ全体感として、ね。)
このアメリカ流の正義が初めて揺らいだのが、ベトナム戦争です。
共産主義との戦いという英雄的なお題目のもと戦地に送られたアメリカの若者たちですが、今回の戦争は正義という一言では正当化できませんでした。
メディアが発達したからです。
ベトナム戦争は、史上初めてテレビで放送された戦争だと言われています。
戦地の生々しい悲劇や破壊を観たアメリカ市民は、いったい何のために私たちの家族はこんな地獄に送られたのだろう、と疑問を抱き始めます。そして一体なんの咎で、ベトナム人たちにナパーム弾を撃ち込んでいるのだろう。。。
ベトナム側の執拗な抵抗と、アメリカ国内の反戦運動の高まり。
第2次大戦で使われたすべての爆弾数に匹敵する数を、小国ベトナムに打ち込んだ戦争でした。しかし、最後には、あのアメリカがすごすごと撤退するしかなくなったのです。
ベトナム戦争敗北はアメリカが自信を喪失した瞬間でした。
自分たちの追ってきた正義が、むしろ悪そのものだったのかもしれない。それに命がけで加担してきた兵士たちは、もはや英雄と呼べるのだろうか。そんな不安がアメリカを包んだのだと思います。
極東からはさっきボコボコにしたばかりの日本が、はやくも高度経済成長ののろしをあげています。
自分たちは間違っていたのかもしれない。英雄ではないのかもしれない。
本当に大切なものはなんなのだろう。
ヒッピー文化などが弾けた理由も、このあたりの国民心理に求めることができるのでしょう。
当時のアメリカとトラヴィス
上記のようなアメリカ全体の心理状態は、タクシードライバーの主人公・トラヴィスの心理状態と重なる部分があります。
戦争から帰ってきてからというもの、不眠症に悩まされているのは、何か釈然としないところがあるから。祖国のために命を張ってきたのに誰にもほめそやされず、いまこの手にあるのは無職でうだつのあがらない自分だけ。
正しくない戦争に従軍したことには気が付いているものの、自分が被っている不眠症という被害や、それゆえに定職につけず周囲から目を置いてもらえない自分を思い、トラヴィスは認知的不協和に陥っている、と読むことができます。しかも女の子に相手にされず、ポルノ映画に通う日々。なんとか手に言えるはずだった「特別な自分」を取り戻そうとしたのかもしれません。
このような不安・不満・成功への希求が形になった行動が、ベッツィーへのアプローチです。しかしこれが失敗すると、彼女が応援するパランタイン殺害計画へ。しかしこれも失敗。
次に娼婦の少女アイリスを救出すべく説得にでます。しかしうまくいかないので、スポーツをはじめとする性ビジネスの輩を一網打尽にします。
このベッツィーとアイリスを巡るふたつの流れ。
共通するのは、まずお目当ての女性に近づき、それがうまくいかなかったら、彼女たちの居場所を破壊するという手順です。
これが僕にはどうもアメリカ的な発想に見えるのです。
日本をボコって、中国とロシアを囲い込む対共産主義の防波堤に。
予めボコっておいたドイツも対ロシアの西の前線にします。
さらにトルーマンドクトリンというのを出しまして、トルコ・ギリシア方面にも蓋をする。
インドにはイギリスがいるし、東南アジアにはフランスがいる。よしよし。
と思っていたらインドシナ戦争でフランスがベトナムに負けてしまい、共産主義者であるホーチミンおじさんがぐんぐん勢力を伸ばしているのです。
穴が開いた反共包囲網、アメリカは即座にパッチをかけに行きます。
擁立したのはベトナム共和国。通称南ベトナム、サイゴンを首都とするアメリカの傀儡政権です。
しかしアメリカの傀儡支配を嫌がったベトナム人はどんどんホーチミンおじさんのいる北のベトナム民主共和国への流出。さらに流出民は北で南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と呼ばれるゲリラ部隊と化して、南ベトナムに猛攻をしかけてきます。
溜まらぬアメリカ、ベトコンの出どころ叩こうとして北ベトナムを爆撃(北爆)します。こうして始まったのがベトナム戦争です。
まず自分の主義を押し通すためにアメリカの傀儡政権を作った。ダメだったから爆撃した。
まさにこれは
ベッツィーに近づいた。ダメだったからパランタイン殺そうとした。
アイリスを説得した。ダメだったからスポーツたち殺した。
というトラヴィスの行動と重なるように思えるのです。
映画の幕引きはアメリカの普遍の性質か
トラヴィスのファーストトライはベッツィー。
それに失敗したのでパランタイン殺害をもくろみますが、これも失敗。
これがアメリカ史でいうところのベトナム戦争だとしましょう。
つまりこれで力や破壊行為によって自分を押し通すことに失敗しているということです。
しかし、そんな反社会的な自分のことは棚に上げて、アイリスを囲いこむスポーツたちには義憤を感じるトラヴィスなのです。
再び正義の実行にかかるも、アイリスの説得には失敗。そこで今度は作戦を実行・成功させます。そしてトラヴィスはメディアによって英雄として祭り上げられる。
この映画はベトナム戦争直後の作品ではありますが
実際のその後のアメリカ史を考えると、アメリカは、イラク・アフガニスタン・IS・イランなど、遠くの国にちょっかいを出して破壊行為を繰り返していますが、「悪の枢軸を駆逐する」とか「テロとの戦い」とか単純でわかりやすい善悪二元論を駆使した正義を語り、実際には利権を追うだけの利己的な行動です。スーパーパワーをもとに世界の警察を自認し、私刑的な破壊を繰り返しています。
トラヴィスは自己都合の正義にかこつけた破壊行動に失敗するも、最終的にはアイリス救出によって、自分を押し通し、願った英雄的な存在なってしまいます。
この幕引きは、これがアメリカの普遍的な性質だということを予言的に示した筋書きなのかもしれません。
実際に、映画の中ではたまたま銃を持ち合わせたトラヴィスがコンビニ強盗に入った黒人を射殺するシーンがあります。そのときの白人店主の反応が実に象徴的。黒人の命のことは命と思っていないような安堵した反応です。ここでも善悪の二元的な象徴が示され、悪を武力により破壊することは歓迎される姿勢だというメッセージとしてトラヴィスに受け取られます。
もともと本気で誰かを殺すつもりなどなく、気分的に力を感じるために買った銃が、正義を行使する道具としてトラヴィスに認識されるのはこのシーンだと思います。
また、映画の中でもっとも印象的なシーンである、トラヴィスが鏡に映った自分に語り掛けるシーン。悦に浸った表情で相手を脅す練習をするトラヴィス(デニーロの名演!)。このナルシシズムも実にアメリカ的です。
自分が客観的な正義を行使していると信じて疑わない姿勢、アメリカの国家体質を揶揄したものととらえると、とても興味深いです。
このような劇中にちりばめられているシーンにも、トラヴィスの精神状態、さらにアメリカの国家体質を説明する役割としてうまく機能するところが多いです。
そう思うと、あながちこの考察もでたらめではないのではないのではないでしょうか。
まとめ
なんだかアメリカをこき下ろす記事みたいになってしまいました…(笑)
アメリカは全然嫌いじゃないですよ。友達も多いし、皆とても良い人たちです。
しかし国家としてのアメリカはとても褒められたものではないのは事実。
まあそれを言ったら大英帝国もひどいし、日本だってよい国とは言えない歴史を多く抱えています。
そして忘れてはいけないのは、このタクシードライバーという映画もあくまでアメリカという国からでてきたものであるということ。
アメリカの自由の気質はアメリカ批判さえも包みこむ懐の深さをもっているのかな。
映画や音楽、ITをはじめとする新しい産業など、イノベーションの気概を持ち、世界をリードし作り替える素晴らしい役割を担っているというのも間違いありません。
だから決してアメリカが国として悪いわけではないけれど、「アメリカ人自身がアメリカの問題点として感じている性質を芸術的に切り取り提示した作品」としても観ることができるタクシードライバーという映画はなかなか興味深いね、という話でした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
これからも映画批評は続けていきたいと思っていますので、どうぞよろしく。