中国史というのはすなわち皇帝史です。
中国では古代から現代にいたるまで
皇帝という強権が、その力を増大する流れで歴史が進んでいます。
もしかしたら現在、中華人民共和国で
習近平国家主席がふるっている力も
形は異なれど皇帝権に近いものなのかもしれません。
皇帝制が中国という地域に興亡してきた無数の国家に共通のDNAなのです。
それくらい中国史において
皇帝は中心のなかの中心です。
この記事では
中国史上、栄えては衰えていった数多の皇帝の中から
試験に出る皇帝をすべてピックアップしました。
もちろん試験の作問者しだいでは
この記事で扱うレベルをこえた難易度の皇帝を
気まぐれに出すかも知れませんが…
少なくともここに載っている皇帝を押さえておけば
どんな試験でも困ることはないよ、という一覧にしたつもりです。
是非勉強する際に参考にしてみて下さいね。
広く知られている名前が複数ある皇帝については
僕の独断でより知られている気がする方を表題に、
そうでもないほうを括弧書きにしました。
例えば、唐の初代皇帝、李淵は廟号・諡号 (死後送られる名前)が高祖であり
どちらの名称も知られています。
それぞれの皇帝の業績などについては
帝国書院の資料集『最新世界史図説タペストリー』(十七訂版)を参照しています。
とてもよくできた資料集なのでオススメ。
中国史全体の流れについては
↓↓こちら↓↓の記事でまとめてます。
こちらの概観図で全体を俯瞰し、
この記事の皇帝一覧で中国史の縦軸をビシッと通しましょう。
その後で周辺の知識を引っ付けていくようにすると
学習が進めやすいはずです。
ちなみにこの記事と同じ企画の「イスラーム版」はこっちです。是非。
Contents
秦の皇帝
始皇帝
最初に皇帝の名を称したので始皇帝です。厳しい支配体制のせいで反乱を招き、陳勝・呉広の乱で秦はすぐに滅亡。重要事項は以下の通り。
- 阿房宮の造営
- 郡県制の全国実施
- 半両銭・度量衡・文字(篆書)の統一
- 儒家の弾圧(焚書・坑儒)
- 南海郡・桂林郡・象郡の設置
前漢
劉邦(高祖)
前202年に垓下の戦いで項羽を破り前漢を建国。匈奴に敗北して以降北方民族に苦しめられ、妻の呂后以降外戚が台頭するという、前漢が背負った内外の癌は初代劉邦の時期にすでに・・・。
- 垓下の戦い(項羽に勝つ)
- 白登山の戦い(冒頓単于に敗れる)
- 郡国制の実施
景帝
劉邦の息子。呉楚七国の乱が起きたときの皇帝。これを鎮圧したことで、前漢は中央集権的な国家へのシフトしていきました。
- 呉楚七国の乱
武帝
中央集権化が確立した前漢最盛期の皇帝。内外でいろいろやったのでとにかく覚えることが多い。全盛期なので偉大な皇帝と思われがちですが、全盛期ということは後は衰退していくということで、衰退の種は全盛期にすでにまかれている・・・というのは歴史あるある。
- 儒学の官学化(董仲舒による五経博士の設置)
- 郷挙里選の実施
- 塩・鉄・酒の専売
- 五銖銭の鋳造
- 均輸法・平準法
- 張騫を大月氏へ
- 衛青・霍去病を匈奴へ
- 李広利を大宛(フェルガナ)へ
- 敦煌郡など河西4郡設置
- 南越を滅ぼし、南海郡など南海9郡設置
- 衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など朝鮮4郡設置
新
王莽
讖緯説という未来予言説を駆使して王朝を乗っ取り新を建国するも、周の時代を理想とする復古主義というちょっと無理でしょもうってことをやってしまいました。おかげで1代限りで滅亡し、漢が復興します。
- 赤眉の乱
後漢
劉秀(光武帝)
赤眉の乱からでた劉氏による漢復興の立役者。後漢の時代には覚えるべき事項がわりとありますが、何故かどれも皇帝と結びつけては出題されません。劉秀の時期に起きたことで覚えておくべきなのは以下。
- 徴姉妹の反乱
- 倭の奴国の使者に漢委奴国王の印を授ける
魏・蜀・呉
曾丕(文帝)<魏>
三国の魏のトップ。皇帝と言うのかわかりませんが、一応流れ的に飛ばすわけにはいかないかんじだったので載せておきます。
- 九品官人法
- 屯田制(曹操のとき)
劉備<蜀>
蜀のトップ。
孫権<呉>
呉のトップ。
まあこのへんは三国志好きなみなさん、頑張ってください。
西晋
司馬炎(武帝)
豪族が割拠する時代から続いた中国の分裂を収集し、中国を統一しました。
- 占田・課田法
東晋
司馬睿(元帝)
八王の乱、永嘉の乱という混乱の中で滅亡した西晋から逃れ、東晋として王朝をつなぎ留めました。
北魏
拓跋珪
北魏を建国。北朝から隋・唐まで続く鮮卑系の拓跋国家のはじまりです。
太武帝
華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせました。
- 華北統一
- 仏教弾圧→この反動で死後に雲崗石窟寺院が造営
- 道教の国教化
孝文帝
太武帝といい勝負ですが、おそらく北魏の皇帝ではこの人が一番大事。北方民族だった北魏の支配層はここから漢民族に同化していきます。
- 漢化政策
- 三長制
- 洛陽に遷都
- 均田制
西魏・東魏・北斉・北周
宇文泰<西魏>
この4王朝のことが細かく聞かれることはなかなかありませんが、唯一西魏で府兵制が創始されたということだけは大事。宇文泰は建国者であり、府兵制の創始者。
- 府兵制
劉宋・斉・梁・陳
劉裕<劉宋>
南朝の最初の宋の始祖。後から出てくる有名な宋の区別して南朝の宋を劉宋といったりします。劉裕が建国者で劉氏の王朝だからです。
他の3国の皇帝は知らなくて大丈夫でしょう。
隋
文帝(楊堅)
久しぶりの中国の統一王朝の建国者。短命に終わった王朝ですが、隋でつくられたベースがあってこその唐の繁栄だったといえるでしょう。
- 陳を滅ぼし中国統一
- 突厥を支配
- 均田制・租庸調制・府兵制
- 科挙の実施
- 日本から遣隋使
煬帝(楊広)
何かと悪い皇帝だと叩かれやすい煬帝ですが、大運河建設などはのちの発展に寄与しました。
- 大運河の建設
- 3度の高句麗遠征失敗
- 小野妹子らと会見
唐
高祖(李淵)
唐は北魏以来の鮮卑系王朝で最強かつ最後。その建国者が高祖、李淵。
太宗(李世民)
玄武門の変という兄弟殺しのクーデターで即位したトンデモ皇帝にも関わらず、「貞観の治」と呼ばれる安定した時代を築き上げた名君です。
- 玄武門の変
- 律令国家体制の確立
- 均田制・租庸調制・府兵制を継続(が、女性への給田停止)
- 「貞観の治」
- 玄奘がインドへ
- 東突厥を服属させ、天可汗の称号を得る
- 日本から遣唐使の開始
高宗
もともと父である太宗の妻だった則天武后を妻に取るという…。だが唐の最大領土を現出させた皇帝でもある。中宗と睿宗は息子です。
- 唐の最大領土
- 羈縻政策・都護府・冊封体制の整備
- 西突厥を服属化
- 新羅と結んで百済と高句麗を滅ぼす
- 白村江の戦い
- 義浄がインドへ
- 安東都護府、安南都護府の設置
則天武后(周)
息子である中宗と睿宗を廃し女帝となりました。国号を周とし、則天文字の制定などの改革を行いました。中国史上唯一の女帝なので後述の韋后のクーデターと合わせて 「武韋の禍」といわれる。悪い女のイメージでしたが、近年は再評価されているとか。
中宗
母である則天武后に廃され王朝を一時乗っ取られるも、周の崩壊後、再び唐の皇帝として復位。が、今度は妻の韋后に毒殺されるというなんとも悲しい皇帝です。女性に運がなかったようです。
睿宗
異母兄・中宗と共に則天武后に廃された皇帝。則天武后の周が滅び、中宗を毒殺した韋后も殺されると、睿宗が再び帝位につきます。武韋の禍の中を耐え抜き、貞観の治と比類する安定期を担った玄宗に譲位したのだからよく頑張りました。
玄宗
唐は長期王朝なのでよく初唐・盛唐・晩唐などとわけていわれますが、盛唐といったらこの玄宗皇帝です。「開元の治」と呼ばれる安定期を築きました。妻はかの有名な絶世の美女・楊貴妃。ただし治世の後半は楊貴妃におぼれまくったのもあって安史の乱などの争乱を招き、あまり良い皇帝ではなかったかも…
- 「開元の治」
- 募兵制実施
- 安史の乱
- タラス河畔の戦い
徳宗
宰相陽炎の建議で両税法が制定されたときの皇帝です。安史の乱で戸数が激減したことが背景にあったようです。均田制・租庸調制・府兵制という唐を支えてきた制度が完全に瓦解した時代です。
- 両税法
武宗
三武一宗の法難と呼ばれる中国史の4大仏教弾圧のうちのひとつを断行した皇帝。
五代
朱全忠<後梁>
唐末の黄巣の乱を主導した黄巣の部下であり、唐を滅ぼした張本人です。開封を都とする後梁を創始し、のちに五代十国と呼ばれる時代に華北に興亡した五代の幕開けを担いました。
李存勗 <後唐>
後梁に続いて華北に興った後唐をたてました。突厥出身のトルコ系です。ここから後漢まで3王朝にわたりトルコ系王朝が続きます。が、そもそも北魏以来ずっと中国を支配してきたのは鮮卑系の王朝ですから、中国史と言っても半分くらいは(もっとかな?)漢民族からしたら異民族の歴史ですね。
五代の中で後唐だけ都が洛陽です。これは覚えておいた方がいいかも。
ちなみに残りは全部、開封。ちなみにそのあとの宋も開封。
石敬瑭 <後晋>
突厥出身トルコ系。この人の時期に燕雲十六州という現在の北京や大同あたりの地域を、後に遼となる契丹人に割譲しています。
これが後に北宋と遼、金などの北方民族との関係の大きな火種になっていきます。
劉知遠 <後漢>
突厥出身トルコ系。特筆すべきことはないような気がします。ハイレベル。
郭威 <後周>
この人は漢人。マイナーなのでほとんど出ないと思いますが、せっかくなので。
北宋
趙匡胤(太祖)
後周の武将であった趙匡胤が北宋を建国。君主独裁制を強化しました。
- 文治主義
- 科挙に殿試を追加
- 広州に市舶司を設置
太宗
十国の最後である北漢(十国では唯一華北にあった王朝)を滅ぼして、唐の滅亡以来約70年ぶりに中国を再統一しました。
神宗
王安石の新法の時代の皇帝。王安石を宰相に起用しました。結局、司馬光を中心とする旧法党の力が強く、次の哲宗という皇帝の時期に、新法は廃止されます。
既得権益にメスを入れる政策は、とても正しいんですが、いつの時代も結局はつぶされてしまいますね。
徽宗
政治的には残念でしたが文化人として一流で、風流天子と称されました。院体画と呼ばれる写実的な画風を奨励し、『桃鳩図』という名作を残しました。
上皇となった後に靖康の変が起き、欽宗と共に金に拉致されました。
欽宗
北宋最後の皇帝。靖康の変で、徽宗とともに金に拉致されてしまいます。
- 靖康の変
南宋
高宗
華南の臨安(現在の杭州)に逃れ、宋をつなぎとめた皇帝。北方民族の興隆に対して、主戦派の岳飛と和平派の秦檜が対立しますが、現実的な和平派に軍配があがり、金と紹興の和約を結びました。
これには宋は名実ともに金の臣下にくだりました。
- 紹興の和約
元
フビライ
チンギス、オゴタイ、グユク、モンケと続いたモンゴル帝国のハン位の系譜にのる人物ですが、元の皇帝としては初代。
- 高麗を冊封
- 大都(現在の北京)に遷都
- ハイドゥの乱
- 国号、元の創始
- マルコポーロが大都に訪問
- 南宋を滅ぼす(崖山の戦い)
- 元寇(文永・弘安の役)
- ミャンマーのパガン朝に侵攻
明
洪武帝(朱元璋・太祖)
モンゴル人による征服王朝・元から中国を漢民族の手に取り戻し、南京を都に明を建国。華南から中国を統一したのは歴史上でも明だけです。
洪武帝自身は貧農から成りあがったツワモノで、そのコンプレックスからか人間不信ですぐに部下を処刑してしまう癖があったとか。
- 明律・明令
- 一世一元の制
- 中書省・宰相の廃止(六部の皇帝直轄化)
- 里甲制・衛所制
- 賦役黄冊・魚鱗図冊
- 海禁の実施
建文帝
洪武帝の孫。洪武帝の息子で皇位継承者であった父が早世したため若くして皇帝になる羽目に。靖難の役で叔父である燕王・朱棣によって廃位されました。
- 靖難の役
永楽帝(朱棣・成祖)
初代皇帝・洪武帝の息子であり、靖難の役というクーデターを起こして甥である建文帝から帝位を奪いました。手腕は確かで、永楽帝を支持する者も多かったとか。明の最盛期を築いた強力な皇帝でした。
- 『永楽大典』の編纂
- 内閣大学士の設置
- 北京に遷都
- 紫禁城の造営
- 足利義満を冊封し、勘合貿易
- 鄭和を南海遠征に派遣
- タタールとオイラトを討伐
正統帝
オイラトのエセン=ハンによる土木の変で捕虜になった皇帝です。
- 土木の変
万暦帝(神宗)
張居正による改革がおきたときの皇帝。このころから一条鞭法が税制度として全国で実施されるようになりました。対外関係では、マテオ=リッチがマカオに着いていたり、豊臣秀吉による壬申・丁酉の倭乱が朝鮮でおきたり。
- 張居正の改革
- 一条鞭法
- マテオ=リッチがマカオ来訪
崇禎帝(毅宗)
李自成の乱で明は滅亡。最後の皇帝です。
- 李自成の乱
清
ヌルハチ(太祖)
ヌルハチとホンタイジは、国号が後金の時代の為政者ですが、一応載せておきます。女真族による後金を建国し、サルフの戦いでは明を撃破。
- サルフの戦い
- 瀋陽へ遷都
- 満洲文字の制定
- 八旗制の開始
ホンタイジ(太宗)
この人のときに国号を清に変えました。
- 蒙古八旗・漢軍八旗の設置
- チャハル部(内モンゴル)の征服
- 理藩院の設置
- 清に改称
- 李朝朝鮮を服属化
順治帝
順治帝のころに清は北京に入城し、いよいよ中国の王朝としてふるまい始めたので、この人から名前が中国風。
- 辮髪の強制
- 緑営の設置
- 呉三桂の力を借りて北京入城
康熙帝(聖祖)
超がつくほどの名君。世界史すべてを眺めても康熙帝ほどの名君は数えるほどしかいないという人がたくさんいます。清の全盛期の土台を築きました。
- 『康煕字典』『古今図書集成』の編纂
- 三藩の乱を鎮圧
- 典礼問題(イエズス会以外の布教禁止)
- 地丁銀の実施
- 遷界令
- 鄭氏台湾を征服
- 対露、ネルチンスク条約
雍正帝(世宗)
康熙帝から3代続く最高の賢帝の2人目。ちょっと怖いところもあったらしく、比較的短い治世でしたが、息子の乾隆帝に清の最盛期のバトンをつなぎました。
- 軍機処の創設
- キリスト教の布教全面禁止
- 対露、キャフタ条約
乾隆帝(高宗)
清の最高の賢帝3人目。五族支配を完成し、中国史上最大版図を実現した負け知らずの強力な皇帝です。近年ますます問題となっている新疆問題ですが、新疆を支配し、その名で呼び始めたのもこの人。
- ジュンガル部・回部を征服(最大版図を実現)、新疆と名付ける
- 広州にて公行が対西欧貿易を独占
- イギリス使節マカートニー来訪
嘉慶帝
嘉慶帝以後の中国史はもはや皇帝単位でみられることはなくなります。白蓮教徒の乱で体制が揺らぎ内部からは太平天国や革命運動、外部からはアヘン戦争を皮切りに列強の膨張戦争が続き、混乱の時代に入ります。
以下は皇帝の業績とは関係なく、治世に起きたことを書きます。
- 白蓮教徒の乱
- イギリス使節アマースト来訪
道光帝
いよいよアヘン戦争がはじまり、中国の眠れる獅子神話が瓦解していきます。
- 林則徐、アヘン没収
- 平英団事件
- 洪秀全が上帝会を組織
- アヘン戦争がはじまり、敗北
→南京条約(対英)
虎門寨追加条約(対英)
望厦条約(対米)
黄埔条約(対仏)
咸豊帝
太平天国の乱がはじまります。対外的にはアロー戦争。
- 太平天国建国宣言→南京占領(天京に改称)
- 曾国藩、湘軍を組織
- 総理各国事務衙門の設置
- アロー戦争がはじまり、敗北
→天津条約(対英米仏露)
北京条約(対英仏)
北京条約(対露) - アイグン条約(対露)
同治帝
太平天国滅亡後のつかの間の安定期を同治の中興といいますが、同治帝が時の皇帝だったので元号も同治だったというわけです。
- 洋務運動の高まり
- ウォード・ゴードンが常勝軍を率いて太平天国と戦う
- 李鴻章が淮軍を組織
- 洪秀全が死亡、太平天国滅亡
- 同治中興
- 太平天国に呼応して起きた捻軍の反乱を鎮圧
光緒帝
清仏戦争、日清戦争に敗北し、いよいよ清が崩壊に向かうなか、30年以上帝位を守った皇帝です。
- イリ条約
- 清仏戦争に敗北
→天津条約:ベトナムの宋主権を失う - 孫文がハワイで興中会を結成
- 日清戦争に敗北
→下関条約:朝鮮の宋主権を失う - 戊戌の変法→戊戌の政変
- 列強による中国分割
- ジョン=ヘイ、門戸開放通牒
- 義和団事件
→北京議定書(辛丑和約):北京駐兵権を認める - 光緒新政
- 孫文が東京で中国同盟会結成
宣統帝(愛新覚羅溥儀)
いよいよ最後。ラストエンペラーです。彼は後に日本の傀儡国家である満洲国の皇帝にも擁立されますが、今回は中国を支配した正統な王朝(と一般にみなされてるもの)の皇帝のまとめですので、清の宣統帝としての治世の出来事のみ。
このあとに袁世凱が一時的に皇帝を名乗ったりしますが、勝手に自分で言ってるだけなので無視しましょう。
- 武昌蜂起(辛亥革命)
- 清滅亡→中華民国成立
→皇帝位が廃位される
まとめ
中国皇帝史でした。
全部覚えたら威張りましょう。
特にまとめることもないので
僕の独断と偏見で
中国史における強烈な皇帝BEST5を発表します。
良くも悪くも強烈な人たち。
たぶんテストにもかな~り出やすいですよ。
第1位 乾隆帝
清朝6代目、言わずと知れた名君中の名君です。中国史上最大版図を記録したのはこの人。約60年も在位したんですよ。すごいですね。文句なしのNo.1です。この人の治世に満洲人・漢人・蒙古人・新疆人・チベット人の五族支配が完成しました。
第2位 康熙帝
1位の乾隆帝のおじいちゃまです。清の最盛期の礎を築いた名君。とにかく勤勉で、対外政策も文化政策も見事でした。在位期間は61年で微妙に乾隆帝よりも長く、中国史上最長。
第3位 李世民(太宗)
唐の2代目です。「貞観の治」と呼ばれる安定期を築きました。律令国家体制を確立したことは、この時期に遣唐使を派遣した日本の歴史にも多大な影響を与えました。彼の語録を編纂した『貞観政要』は現代にいたるまで読み継がれる帝王学の名著です。
第4位 武帝
前漢の武帝です。この人は業績の数が半端じゃないです。存在感が凄い。国内では法整備や経済統制、対外的に果敢な膨張政策をとりました。この時期にまいた種が前漢の凋落につながったという節もあるので名君かと言うと…。愚帝だという見方もありますが、強烈には違いない。
第5位 永楽帝
北京に遷都し、今でも北京に残る紫禁城を造営。内閣大学士を設置し、中央集権化した政治体制に君臨し、強権をふるいました。あまり人を信用しない性格だったらしく、名君といえるかは…。鄭和を南海大遠征に派遣するなど、やはり強烈な皇帝ではありました。
おわり。
いつも勉強お疲れさま。
最後まで読んでくれてありがとうございます。