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親友を自殺で亡くした人間として書いておきたいこと

 重たいテーマですが、日本だけでも毎年2万人以上が自殺していますし、行方不明者はそれよりも多いこと考えれば、やはり話されるべきテーマだと思います。

 自殺が良いだの悪いだの、何故そんなことをするかだのは、当事者ではない僕が話すことではありません。個人的には良くも悪くもないと思うし、する理由は人それぞれで、彼らの中にも、「これ」というひとつの理由があるわけではないと思います。

 しかし、人間だれしも家族や友人などの近しい存在は何人かいるわけで、彼らももちろん悲しみ、苦しみます。そう考えると、毎年10万人以上が、自殺やそれと思われる行方不明に嘆いていてもおかしくありません。

そして僕も実際にそのひとりです。

2018年の梅雨に、この世で最も大切に想っていた親友を失いました。

それで僕に降りかかった悲痛は、誰と比べることができるものでもないと同時に、決して特別なものではなく、そこらへんに普通にあるものなんだと、思いました。

毎年2万人以上が亡くなり、その近くの数人も同じような悲痛を感じているのですから。

彼と僕は同じ中学で出会い、それ以降自他ともに認める親友の関係でした。互いに互いが必要なことがわかっていたし、何かを一緒にするという以上に、互いに正面から話すという機会が多かったので、非常に強い精神的な結びつきがありました。

朝まで街を歩きながら話し明かすことは何度もありました。

僕が海外にいる間も、観光地そっちのけで彼と何時間も電話したりしました。

この記事は極めて個人的なもので、起きた自殺の数だけあるその裏の事情などは全く考慮していません。ですから、その事情によっては、僕とは全く異なる状況であればあるほど、僕の考えが到底理解できないこともあると思います。

ですから、この記事で僕が書くのは、「これが一般的に通用する考え」だとか「こう考えれば悲痛を乗り越えられる」だとかいう実際的な情報を与えることを意図してではない、という旨をご容赦の上でお読みいただけるとありがたいです。

僕と親友について

彼が自殺した理由を簡単に説明することはできません。最近になって発達障害があることが発覚したこともあるでしょうし、受験や人間関係での失敗から自己肯定感が低くなっていたこと、愚直すぎることなども影響がないとも言えません。

亡くなるまでの1,2年間は躁鬱状態に悩まされていたのでもちろんそれも直接的には大きな原因です。しかしそれも、何故躁鬱病を発症するに至った理由を考えると、やはり複雑です。

僕は彼の周りに残った社会との、ほとんど最後の繋がりでした。

彼の死は突然で、2日間行方不明になったのち、遺体で見つかりました。

遠巻きには、彼が消息を絶ったことを楽観的にみる人もいましたが、僕に何も言わないで消えたということは、そういうことだ、と僕は不安と、半ば諦め、どのように自分の精神を保てるのか考えることで頭がいっぱいでした。

彼が遺体で発見されたときは、人生でこれほどの絶望があるのか思い、筆舌を超えた激情に襲われました。そしてそのとき、彼に対して最初に出た「ありがとう」という言葉、あれほど強い言葉を、僕の人生で言えることはきっともうないだろう、とよく思い返します。

僕が唯一救われた点は、常に真摯に会話することを心掛けていたため、彼に言い残したことが何もないことです。

僕が当事者として思ったこと

 先ほど僕は当事者ではないと書きましたが、それは自殺という決断/行動の当事者ではないという意味です。自殺という出来事というのであれば、僕はまさにその当事者でした。具体的には、 ここでいう当事者は、「親友を自殺で亡くした人」のことです。

しかし、それが親友とは違う関係であったり、死因が自殺ではなかったりする場合でも、「大切な人を亡くした」という意味では同じなので、気持ちが重なる部分はあるかもしれません。

まず、親友の自殺を語るうえで、よく人から言われることは、「責任を感じる必要はないと思うよ」という言葉。言いたいことはわかるのですが、この言葉を素直に受け入れることなど出来ず、受け入れる気もさらさら起きませんでした。

僕には他にも良い友人がたくさんいたので、彼の死の直後は大変支えてもらいました。その中でも僕が一番感謝しているのは、彼らがただそばにいてくれたことです。そして僕が感情を抑えられないときには、そっと背中に手を当てて黙って見守ってくれました。これは上の言葉よりも強く僕を支えてくれました。彼らには一生感謝していくと思います。

しばらく経って、彼の死について冷静に考えられる時間が増えてくると、起きたことを否定したり、あらぬ「もし」を考えることは徐々に減っていきました。

彼の死は、彼が選んだ道です。死を肯定したいわけではありませんが、死は人間の生理現象の終着点に過ぎないので、それ自体に良いも悪いもないと思います。そこに様々な価値観を与えてきたのは人間で、「せっかく与えられた命を無駄にしてはいけない」「周囲の人を不幸にする」などの決まり文句も、そう考える人が死に与えた価値観に過ぎません。

そして、「この生を今捨てたい」という彼の想いも、そのような、人が与えた価値観の一つなのだと思います。

もちろん僕はこれ以上大切な人を失いたくはないし、「死」という選択肢がもっと一般化すればよいなどと言っているわけではありません。生命は大切で、価値があり、生きることが僕は好きです

しかしそれでも、親友の死という向き合わざるを得ない出来事が、現実として僕には起きてしまった。

その過去を解釈するために、上のような考えも持ち始めたというだけです。

最終的に自殺につながるような精神的閉塞感にさいなまれ始めた人がいたら、僕は彼/彼女を生につなぎとめるためにあらゆる手段を尽くします。

しかし起きた過去は変えられない。だから、僕はその彼の「最後の選択」を尊重するという姿勢を貫くことにしました。

僕の人生に突如起こった「親友の死」は断じて「悪い出来事」ではありません

そして、本気でそう思える人生にするために、僕はまだ彼を必要としているということにも気が付きました。

「死とは死者との別れではなく、新たな関係の始まり。出会いなおしの時である。」

そんな言葉を聞いたことがありますが、僕も本当にそう思います。

彼と僕の関係を知る人は口を揃えて、僕の中に彼が生きているといいます。これは怪しい宗教でも綺麗事でもなんでもなく、本当にそう思います。だって彼以上に僕の人格形成に強い影響を与えた存在はないのですから。僕が僕として生きていることは、彼の実績でもあるのです。

彼は僕という人間の初期設定をする最初の青年期10年に現れた妖精のような存在でした。ですから、僕が僕として生きていることそれ自体が、彼に対する最大の慰藉である考えています。

また、彼の死後、「死」というものの捉え方が大きく変わりました。

死というと、別れ・苦しみ・悲しみなど、良くない連想ばかり持っていましたが、今では少なくともひとつは、絶対的に嬉しいこととの結びつきを感じます。

それは「死んだらあいつに会える」ということ。

陳腐に聞こえますが、ここに生きていいる以上彼と会える可能性はゼロなのに対して、死んだ後に彼に会えるか会えないかは、死んでみないとわかりません。

ゼロと比べると「わからない」というのはとてつもなく大きな希望です。自分では変えようも知りようもない死後のこと。この素敵な可能性を信じない理由など、今の僕には見当たりません。

人間は年を重ねれば重ねるほど、周りの人を少しずつ失っていきます。自分が大好きな人たちの多くが死の向こう側にいったなら、死ぬことはそれほど悪いものではないように思えてくるものかも知れません。今僕がそう思い始めたように。

僕たちは親友です。いつも一緒にいるのが最高ですが、たまには離れてみるのも面白いかも知れません。彼が「死の道」を選んだのであれば、私は「生の道」を選びます。

そして僕が死に、そのあと彼と再会したとき、僕が生の道でやったこと、経験したこと、出会った人の話をします。

そして彼に「まじかよ!生きてればよかった!!」と言わせることが僕の人生の目標になりました。

彼が亡くなってから丸1年が経ちましたが、ずいぶんいろいろな経験をし、いろいろな場所でいろいろな人と出会いました。たびたび俯く時期が多かった僕としては、人生で最も行動的でポジティブな1年だったと思います。

この調子で生きていければ僕は目標を達成できるかもしれません。彼のしてくれたことを考えたら、くよくよしている時間などなく、自分がしたいことに向かって走り出せずにウジウジしている場合ではないのです。

僕が親友を自殺で亡くしてから丸1年、今のところの結論はこんな感じです。

日に日にはっきり言えるようになっているのは、「彼の死は、辛く、悲しく、寂しいものではありますが、断じて悪い出来事ではなかった」ということです。

自殺というのは、ある人が弱いから起きるものでも、愚かだから起きるものでもありません。周りの人の支えがないから起きるものでもありません。人の人生も感じ方も、人の数だけあります。「自殺というのはこういうものだ」ということなど出来るものではありません。

そのナンセンスの中で、より自殺という選択をする多くの人を、どうにか社会につなぎとめること、彼らが社会とともに、いや本人が望むならひとりでだっていい、とにかく生きたくて生きられるような世界を希求することは、やはり大切だと思いますが。

手紙ーあなたひとりいなくなったってー


あなたひとり居なくなったって

何もなかったかのように生活は続きます。

本当にあなたのことが大好きで、

あなたが居ないと生きていけないとか、たとえそういう人でも、あなたが居なくなったって何もなかったかのように生きていきます。  

その人のことを考える時間は減っていきます。居ないことについての違和感も徐々に薄れていきます。

あなたが居なくなったって世界は変わらないし、あなたが居なくならないパターンと居なくなるパターンを比べることもできないから、居なくなったからこうなったとかああなったとか、そんな話も所詮は妄想です。

知人への連絡や葬儀で身近な人たちの生活はしばらくバタつきますが、ひと月も経たないうちに一見もとの生活に戻っていきます。もしもあまりにも辛くて、いつまで経ってももとの生活に戻れない人がいれば、病院に行って薬を貰ったり心理療法を試したりするでしょうね。死を乗り越えないのはおかしいことだからです。亡くなり方によるので、それがあまりにも辛いものなら、おかしいとかじゃなくて、誰だってそうなるかも知れないけど。

だからね、あなたなんか居なくなっても何も変わらないんだよ。

でもどうしてそんな酷いことが現実にあるのか、わかったような気がします。

ひとり失って。

ひとり失ったおかげでわかったような気がします。

あなたが居なくなっても世界がうんともすんともせず平気に見えるのは、あなたがとっても大切だからですよ。あなたのことを大好きだからですよ。あなたが私にとって、絶対に失いたくなかった人だからですよ。

あなたが居なくなったら、その余りにも辛く受け入れがたい出来事から私たちを守ろうもして、私たちの心は必死に働きます。

そして心が選ぶ手段が、気を散らすことと忘れることです。

心ってすごいんですよ。怖いのも痛いのも辛いのも苦しいのも、全部私たちを守るためです。そういうものを学ばせて私たちがそれらを出来るだけ避けるように仕込んでくれます。心はいつだって裏切らない、絶対の味方なんです。

だから、あなたが居なくなるという悲劇と、私たちがあまりにも長く向き合うと、心はそれを止めようとします。

だからあなたが居なくなったあとでも、新しいことをしたり、新しい人と会ったりするのが、まただんだん楽しくなってくる。そういうことをしてる時、あなたのことを忘れる。

新しい映画を見たら、新しい人と恋したら。あなたのことは忘れるんです。あなたのことが大切だからです。大切に思いすぎる気持ちが私たちを壊さないように、忘れさせてくれるのです。

だけど心は時々ちゃんとあなたのことを思い出させてくれます。時々といってももちろん毎日ですよ。毎日何回もふとした瞬間にちょっとだけあなたの声や表情が寄り添ってくれるんです。

あぁ、この映画をあなたがみたら。

あぁ、この素敵な人とあなたを会わせてみたら。

もちろんそんなこと、同じ映画を見た人にも、その新しい恋人にも言いません。だって毎回伝えてたら一日に何回もあなたの話をすることになっちゃうから。

だからあなたが居なくなったって世界は何も変わらないように見えるんです。

みんな心のおかげで平気なふりをしてるからです。

四六時中あなたのことを考えているわけじゃない。だけど折に触れてあなたは現れる。そんな呆けた瞬間に誰かに声をかけられる。あなたはそっと身を引く。私はあなたを脳みそから追い出して忘れて、その人と話す。その人が面白い人だったら別れた後にまたあなたが出てきて、あなたならなんていうかな、なんて考える。

そんな毎日なんですよ。

だからあなたが居なくなったって何も変わらずに世界は続くんです。

いつもそうして日常のいろいろに私たちを向かわせようと必死に働く心のおかげで私たちは平気なフリをしています。

でもごくたまに、心が気を散らす矛先を見つけられない時がある。

話したいことがあって、相手はあなたじゃないとダメな時がある。

いつも私たちを守ってくれてる心が休んじゃってる時がある。

そんな時に私たちは

あなたはもういない

という事実と向き合うことになります。これがどれだけ辛いことかあなたは知らない。

もがき苦しむように辛いわけでも、むせび泣くように辛いわけでもないから、この辛さは私たちの中に隠れたまんま。

この辛さがくるのは必ず、私たちがひとりのとき。

この辛さは誰かに見られることを知られることもない。

だからあなたが居なくなったって世界は一見平気なんだよ。

そうやって辛い時は、普段どれだけ私たちの心が私たちを守ってくれてるのか痛感します。

ああ、この苦しみがあなたを失った本当の苦しみなんだ。

こりゃきついや。だから忘れるし、思い出すことも減るし、世界は平気なままなんだ。

こんなのいつもずっと正面で受け止めてたら、地球が壊れるよ。

そっか。

じゃあ、大切だから忘れるってことかもね。

だから生活はいつも通り続くんだ。

あなたひとり居なくなったって。

居なくなるってことがどういうことか、伝わったかな。

じゃあ、それでも居なくなるっていうなら、向こう側では必ず楽しくやってね。

彼が亡くなってから約9か月後に、フランスのバスの中で書いた文章です。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。