トルコとアルメニアを旅してきました。
両国には第1次大戦までに起きた虐殺事件を発端とするわだかまりがいまだに残っています。
アルメニアの首都エレヴァンにある虐殺博物館を訪れたのち、
エレヴァン在住のアルメニア人の方と、イスタンブール在住のトルコ人の方に、過去の虐殺についてインタビューしてきました。
何かの結論を出すにはあまりに知識、調査、標本などが不足しているので、性急な判断をする気はありませんし、その材料になる記事ではとうていありえませんが、それでも学ぶことが多く、歴史や教育のもつ力を見せつけられた気がしたので、ここに記録しておきます。
良かったら読んでね。
Contents
世界史上で現代に起きた虐殺、そしてアルメニア
歴史上人類は、争いの中でいくども虐殺を繰り返してきました。
特に産業革命以降の戦争では虐殺の規模はそれまでと比較にならないほど大きくなり、その方法は綿密に組織化されました。
そしてその時期以降の虐殺には加害者、被害者、第三者からなど、多くの側面から記録・記述され、現代を生きる私たちに事実を重たく語り掛けます。
僕は世界50カ国を訪問する中で、できるだけそのような歴史に触れ、出来るだけ現地の人の話を真摯に聴こうと考えてきました。
そして実際にそのような機会があり、彼らがそれを語ることをいとわない場合には、多くの質問を投げかけて、彼らの話を聞いてきました。
しかし、やはり僕たちのような一般人が最も手軽に、そして適切に虐殺の歴史を学べるのは、各地の虐殺博物館に行くことでしょう。
僕がこれまでに訪れた虐殺に関する博物館・記念館は以下の4か所。
- アルメニア人虐殺博物館
(アルメニア、エレヴァン)
オスマン軍によるアルメニア人の虐殺 - 侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館
(中国、南京)
日本軍による中国人の虐殺 - アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
(ポーランド、オシフィエンチム)
ナチスドイツによるユダヤ人、ロマ人、同性愛者などの虐殺 - トゥールスレン虐殺博物館
(カンボジア、プノンペン)
ポル・ポト政権によるカンボジア国民の虐殺
それぞれ世界史上でも特に注目され大規模で凄惨な虐殺に関するものです。
南京大虐殺については日本人であればもちろん聞いたことがあるはず。被害者の数などで議論が巻き起こっている節もありますが、大規模な虐殺だったがゆえに起きる議論でもあります。
ナチスによるホロコーストはおそらく世界で最も大規模で、最も知られた虐殺でしょう。フィクション、ノンフィクションでもよく使用されます。
(『シンドラーのリスト』『戦場のピアニスト』とか。)
カンボジアのクメール・ルージュ、ポル・ポト政権による虐殺は、驚くべき短期間に多くの犠牲者を出したという点ではホロコーストをも凌ぐと言われ、現代でもカンボジアにはこの時代を生きた人が大勢いるという点で、僕たちにリアリティをもってせまってきます。
一方で、アルメニア人虐殺についてはどうでしょうか。
あまりイメージがわかない人がほとんどだと思います。
ひとつには、これが第1次世界大戦終戦以前までに起きた、他の3つの虐殺と比較して年代が古いものであること。
ひとつには、その年代に古さゆえに比較的史料に乏しいこと。
ひとつには、加害国であるオスマン帝国が1世紀以上前に解体しており、トルコ共和国に鞍替えしていること。
イメージが薄い理由には上記のようなものがあると思います。
また
「アルメニア・・・ってどこだっけ・・・」
という人も少なくないはず。
ちなみにココです↓
ご覧の通り、黒海とカスピ海の間、コーカサス地方にある小さな国です。
そしてお隣にはアルメニア人虐殺の加害国オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国。
基本的に陸路をたどって長期的な旅をすることが多い僕は、この両国を同時に訪れ、かの虐殺についてなにか学べることはないかなと常々思ってきたのでした。
そして今回、それを実行にうつした形。
アルメニア人虐殺博物館
首都エレヴァンを見下ろす丘の上にあるのがアルメニア人虐殺博物館。
街の中心から徒歩で4-50分。バスで10-15分くらいです。
記念碑の下には消えない炎が燃え、花が供えられていました。
内容としては、写真と文字が中心で、旧オスマン軍によるアルメニア人の虐殺について壁に淡々と書かれているという感じ。
上に書いた僕が訪れた4つの虐殺博物館のなかでは
このアルメニア人虐殺博物館はいちばん最近に訪れたものです。
だからどうしても観覧中に他の虐殺博物館のことが思い出されました。
こういうものを比較で語るのは適切ではないのでしょうが
このアルメニア人虐殺博物館は、他の虐殺博物館と比べると、かなり完成度が低いと言わざるを得ません。
文字による記述ばかりで、判然としない写真の多くまばらに展示されているという印象なのです。
また博物館のデザインも薄暗く、入り組んだ構造で、
重厚な空気感はあるのですが、肝心の展示が見づらい、読みづらい…。
そして何より目立ったのは、文字と写真ばかりで、
虐殺事件に関連する物品や史料、また旧オスマン軍側の記録などがほとんどないという点です。
それはジェノサイドだったのか
展示が不十分に見えたのは単純に他に僕が訪れた虐殺博物館と比べて時代が古いため記録に乏しいからかも知れません。
しかしアルメニア人虐殺が他の虐殺と異なるのは
虐殺の事実を、実際的な加害国であるトルコ共和国が否認していることです。
一部トルコ内部にも虐殺を事実として認めるべきとした主張はあったようですが、トルコ側の主張は、「あくまで当時の帝国内で少数民族だったアルメニア人を強制移動させる過程で一定数の命が失われたというのが事実で、組織的な虐殺ではなかった」という論旨です。
この文脈における虐殺とは、特定の民族や人種、宗教などをターゲットにした集団的虐殺、つまり”ジェノサイド”のことです。
ジェノサイドについては第二次世界大戦を受けて1948年に国連でジェノサイド条約が結ばれ、国際的な定義がなされています。
①集団構成員を殺すこと
②集団構成員に対して、重大な肉体的又は精神的な危害を加えること
(拷問、強姦、薬物その他重大な身体や精神への侵害を含む)③集団に対して故意に、全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を課すること
(医療を含む生存手段や物資に対する簒奪・制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)④集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること
(結婚・出産・妊娠などの生殖の強制的な制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む)⑤集団の児童を、他の集団に強制的に移すこと
Wikipedia ジェノサイド (ナンバリングなど一部変更)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89
(強制のためのあらゆる手段を含む)
トルコの主張は要するに
「ひどいことはしたのかも知れないけど。戦時中はどこでもそうだったでしょ。こんなジェノサイドにあたるまでのことはしてないよ。」
といったところかもしれません。
また、このジェノサイド条約が結ばれた1948年は、ナチスのホロコーストと、日本軍の南京大虐殺を含む一連の戦争の余波にありました。
ポル・ポト政権の虐殺はそれよりさらに後の出来事。
一方でオスマン軍によるアルメニア人虐殺はこの条約より30年以上前の出来事です。ずっと後に出来た国際基準なのに後になってそれを遡及的に過去の事例に当てはめることは、法律的な文脈では認められません。
トルコを擁護するわけではませんが、アルメニア人虐殺というのは上記のような点から、国際的な論争が続くテーマなのです。
そしてそれが結論ではなく論争に留まっている理由のようなものを、アルメニア人虐殺博物館の展示の乏しさに見たような気が、僕にはしたのです。
アウシュヴィッツにも、南京にも、トゥールスレンにも
どうにも否定しがたい大量殺戮の爪痕がリアルにたたずんでいました。
しかしアルメニア人虐殺博物館では、それが「ない」とは言えないまでも、「多少演出されたもの」という印象が拭えないままに僕は展示を見終えてしまったのです。
念のためジェノサイド、戦争犯罪、大量殺戮などの単語についての扱いを書いておきます。
このうち大量殺戮は文字通りの意味で、特に色のついていない言葉です。
一方ジェノサイドや戦争犯罪には定義があります。ジェノサイドについては、上に引用したジェノサイド条約のようなもの。戦争犯罪は国家間の戦争に適用される戦時国際法に違反するものです。例えば医療や教育に関する施設を攻撃したり。
ちなみにこの2語の定義や解釈は政治的な思惑が絡み合って都合よく曲解されることもしばしばなようで、正直僕もあまり明確にはわかっていません。
このような議論は専門家に任せておけばいいのですが、気にする方も多いので念のため。
この記事では、現在でもよく引き合いに出される歴史上の大量殺戮事件のうち、博物館などが建てられ、その記憶を残そうという取り組みが行われている4例を、僕が訪問したという理由で並列的に扱っているものです。
これ以外にも、ユーゴ内戦で起こった一連の虐殺や民族浄化、ルワンダ内戦で起こったフツによるツチの虐殺などが知られています。
これらのうち内戦で起こったものは戦時国際法が適用されないので戦争犯罪にはなりません。また、南京大虐殺やクメール・ルージュの大量虐殺は、特定の民族の殲滅を意図した計画的・組織的な大領殺戮であったゆえジェノサイドと呼ばれるホロコーストやユーゴ内戦での民族浄化とは性質が異なります。
といったように言葉の定義や出来事の性質を詳しくみていけばいくほど適切な区分に従って歴史を理解するのは困難で、これらは所詮あとから人間が解釈のために練り上げた語の定義でしかありません。
しかしそのような議論を土返しにしても出来事を出来事としてしろうとする姿勢はまだ保つことでできるはずです。
そもそもこのようなそれぞれで筆舌を超える悲惨な出来事を並べて比べようとすること自体がナンセンスではあります。さらにそこにはそれぞれの語り手や発信者が持つ国民意識や個人の思想による歪みが必ず含まれています。
この記事はあくまで僕個人の旅行記の発展形として書かれているものです。だいぶ勉強不足ではあるのですが、それも本で読んで知った気になるのではなく現地に行き、記録を見る。記録に押し込めらた感情だけを想像するのではなく、現地に今も息づく声を聴く。そのほうがより豊かな理解につながり、未来への糧にできると考えての行動と、その記述です。
厳密な定義や、歴史的事実を省察するものではありませんので、間違いご指摘などがあれば優しく教えてね。
と、及び腰気味なコラムが挟まったところで
アルメニア人虐殺の抱える微妙さ、曖昧さが伝わってきましたでしょうか。
実はこの博物館を訪問する前日の夜、アルメニアの首都エレヴァンに住む男性にコンタクトをとり、話を聞くことができました。
以下にちょっとその話を。
アルメニア人へのインタビュー
アルメニア生まれアルメニア育ちのその男性の名前はレボンと言いました。
30代前半くらいで、経済的には余裕がありそうな雰囲気。
西欧を含むヨーロッパ中を旅行する計画中で、自家用車も持っていました。恋人がいるという話もしてくれ、僕を車でエレヴァン中の夜景スポットやコニャック工場に連れて行ってくれました。
僕がオスマン軍によるアルメニア人虐殺について話を振ると、彼はまず、僕がそれを知ろうとし、博物館を訪問することに対して感謝の言葉を述べました。
100年前の出来事が、現代のアルメニア人の若者にも民族的同一性が連なる中に悲劇の記憶として響いているということが見て取れました。
レボンはオスマン軍によるアルメニア人の強制移住を中心に話を聞かせてくれ、一緒に夜景を見た高台から正面を指さして僕に語りました。
「あそこに高い山があるのが見える?アララト山だよ。元々あの山の麓にはアルメニア人が住んでいた。あれば僕たちの山だ。だけど今はトルコの領土に入っている。強制移住は僕たちアルメニア人を離散させただけでなく、土地を奪ったんだ。」
ここで登場した「離散」という言葉ですが、カタカナで言えばディアスポラ。特定の民族が大規模に離散することを指し、ユダヤ人を語る文脈でよく目にする言葉です。
実はアルメニア人はユダヤ人と並んで、世界中に離散した民族としても知られています。
イスラエルという国家を持つものの世界中に離散し国外に居住する人口の方が多いユダヤ人と同様、アルメニア人にもアルメニアという国家がありますが、イラン、ヨーロッパ、アメリカなど多くの国にアルメニア人が散り散りになって居住しているのです。
しかしそんななか、アルメニア人はどのようにしてアルメニア人としての民族的なつながりを保っているのでしょう。
答えはユダヤ人の場合と同じ。つまり宗教です。
古代に存在したアルメニア王国は古代ローマに先立ち世界で初めてキリスト教を国教と認めた国でした。実際にエレヴァン近郊のエチミアジン(アルメニア王国時代の首都)には、アルメニア正教会の総本山である世界最古の大聖堂があります。(僕が行った時は修復中で入れませんでした…)
そしてアルメニアの教会が信仰するのはキリスト単性論で、これは古代ローマでは451年のカルケドン公会議で正統とされたアタナシウス派(カトリック)に対して異端とされた信仰でした。
しかしその後もアルメニア正教会は現在に至るまで単性論の信仰を維持しているそうです。
このような背景から、アルメニア人は宗教的な結びつきと、受難の歴史(、ついでに優れた商才)などの要素により、ユダヤ人と似た形で民族意識を保っているということがわかります。
実際にこれらを語るレボンの言葉には、無条件にアルメニア人というアイデンティティを愛し、会ったこともない異国に住む同胞たちを想う気持ちが伝わってきました。
ちなみにアルメニアに入る直前まで僕は隣国のイランにいました。
イランの古都のひとつであるイスファハーンにはジョルファというアルメニア人居住地区があり、地区内の教会の展示室にもアルメニア人虐殺についてのコーナーがありました。
さらに僕は、イランから陸路でアルメニアに抜ける過程で(これがなかなか過酷な国境越えでした…)アルメニア人の夫婦と一緒になりました。
アルメニアの入国時に電子ビザの処理にてこずられたり、深夜から明け方まだ3-4時間も虫が飛び回る路上で待たされたりとしているなか、英語とペルシア語とアルメニア語のわかるその夫婦がいろいろ助けてくれたのでした。
結局彼らとはアルメニア入国後もエレヴァンの中心地までタクシーで送ってくれるまで一緒にいました。とてもありがたかった。
で、彼らもイラン在住のアルメニア人。つまり離散したアルメニア人です。彼ら曰く、国外に生まれ国外に住むアルメニア人の多くは彼らのように現地で出会ったアルメニア人同士で結婚することが多いようです。
離散しても各地の民族と同化しないからこそ、2000年に渡り民族的な結びつきを保っているということでしょうか。
こういったことを踏まえると、レボンが100年前の虐殺に心を痛め、怒りを覚える気持ちも理解できる気がします。2500年前の記述を共有し民族としての形を保つユダヤ人と、まさに比類となるアルメニア人。
生まれたときからトルコ共和国の領土であっても、彼にとってアララト山は「我々アルメニア人」の土地なのです。
トルコ人へのインタビュー
その後アルメニアから国境を越えトルコ入った僕は、道中にケマル・パシャの廟や古代ローマに栄えたエフェソスなどを見学しつつ最大の都市であるイスタンブールへ。
ここで旅人が国際的に集まる会合を見つけ、夜の街に繰り出しました。
参加者は少なめで6.7人。カフェのオープンテラスの小さなテーブルを囲んで話が盛り上がっていました。
しばらくいると、旅人が入っては抜けてというフランクな雰囲気。
そこで僕の前の先に座っていたのがメフメトという30代前半の男性。
席の配置やその場の雰囲気でメフメトと二人での会話がはじまってしばらくして、彼がトルコ生まれトルコ育ちだとわかった後、旅の話などを通じて彼が歴史や文化の話をすることに抵抗がなく、自分なりの考えを持っているタイプの人間であることがわかってきました。
そこでいよいよ僕はアルメニア人虐殺について話題を切り込んでみました。
「実は数日前までアルメニアにいたんだ。トルコの人はオスマン帝国は自分たちの国だったという意識はある?昔にアルメニア人の虐殺があったといわれているよね。アルメニアではその博物館に行ってきたんだけど、どう思う?」
メフメトは僕が質問を終えるより先に首を横に振って、僕の声を遮るように「違う」と言いました。
「あれは虐殺じゃなかったんだ。戦争中ならどこでもあったこと。強制移住させたことは良いことではないけど、その結果一定数の命が失われてしまっただけで、計画的な虐殺ではない。むしろ今の政治的な理由で虐殺だったんだとぶりかえされてる。」
メフメトの意見は僕があらかじめ想定した通りでした。彼の言い分はまさにトルコ共和国の言い分です。残酷な行いであったことには変わりがないのに、それがジェノサイドであったかに着目し、「ジェノサイドではなかった」という否定文に主張を丸め込むのです。
しかし、彼の気持ちがわからないでもありません。
「気持ちはわかる。日本も中国や韓国や東南アジアでひどいことをした。ただそれを今の世代の僕たちに言われても責任がとれないし、実感もない。もはや後の世代は加害者ですらない。それでも被害側にとっては次の世代も被害者。だから難しい。南京大虐殺の博物館にも行ったけど、中国は30万という数を主張し、日本はそれを否定する。それは事件の本質ではないのだけど。」
「確かにそれが虐殺でなかったにしろ、アルメニア人に対してはひどい仕打ちだったかも知れない。でも戦争中だったんだ。オスマンが敗戦してから民族を無視して国を分割したイギリスがしたことだってひどいのに、アルメニア人虐殺だけでいつまでも悪者されるのアンフェアだ。」
「歴史はあくまで勝者のものということだね。無理やり理由をこね回してインディアンを殲滅し、キューバやハワイ、フィリピン、グアムを制圧して、中国分割にも手を出していたアメリカが、最後には原爆まで落としたのに、大日本帝国の悪事をとめた正義面なんだから、日本の立場からでも君の考えは理解できる。」
・・・
話は徐々に大きく、そしてなんだか空しくなってきました。
虐殺加害国である日本人として理解出来ることは、もはや過去の過ちを簡単に認めることは政治的に困難だということです。
多くの国で政治家は民主的に選出されます。権力の源泉が国民である以上、国民が明確に損をする采配をふるうわけにはいきません。多くの国民が着目する短期的な国益にかなわず、支持が得られなくなるからです。
そして歴史的な過ちを認めることには、賠償などがつきものです。トルコーアルメニア間のケースでは領土問題にも発展しかねない様相です。過去の世代のしりぬぐいを、なんの罪もない現在や未来の世代の負わせるという判断は、政治家としてそうやすやすとはできないはずです。
そうなるともはや国として歴史認識を作りこみ、過ちはなかったとするか、すでに解決した問題だという方向にもっていくしかありません。
こうして教育方針が形成され、歴史は好ましい角度に切り取られ、その向きで反射される色だけが僕たち国民に届きます。
本当の真実はもはやその瞬間にしか存在せず、以降はすべて何かの意志による解釈の混じった情報しか残らないのです。
異なる歴史認識が異なる立場によって作られれば、それらによって立つ議論が紛糾するのは当然です。当時の当事者間でしか解決できなかった問題です。
ある意味そういう形に無理にでも白黒つけてしまったニュルンベルク裁判や東京裁判は、その是非や善悪はともかく関係諸国のその後の歴史認識があまりにも乖離するのを防ぐ役割を果たしたのかもしれません。
メフメトの意見はまさにトルコが作り上げた歴史認識に従ったものでした。
そこには個人や自分の知るトルコとは無関係に残虐行為の加害国して国際社会から糾弾される国民の歯がゆさが感じ取れました。
このような国民感情は、グローバリズムや資本主義による格差拡大の反動として支持されるナショナリズムやポピュリズムが台頭しつつある現代において、日本でも他人ごとではないように思えます。
そして日本もトルコのように、主に中国や韓国からいまだ20世紀前半の出来事について贖罪を求められているのです。
政治や宗教に利用される虐殺
アルメニア人虐殺について周辺的な情報を調べているうちに感じたことは、この虐殺は、政治や宗教の思惑によって大いに色をつけて利用されているのではないかということです。
まず、エレヴァンのアルメニア人虐殺博物館の入り口で目に付いた世界各国の国旗の一覧。(写真のデータを実家に置きわすれてきた・・・)
これは世界でアルメニア人虐殺をジェノサイドと認知している国を示しています。
正確には覚えていませんが30~40か国ほどの国旗が並んでいたと思います。
意外と少ないなあというのが率直な感想。
日本の国旗は見当たりませんでした。
国旗を見渡す中で目に付いたのがヴァチカンの国旗でした。
そこでアルメニアが世界最初のキリスト教国ということを思い出し、改めて国旗を眺めてみると、気が付きました。
アルメニア人虐殺を認知している国のほとんどすべてがキリスト教国か、キリスト教が多数派の国なのです。
そこに日本や韓国や中国の国旗はありませんし、東南アジア諸国やインドの国旗も、中東のイスラーム圏にある国家の旗もありませんでした。
ここには何か宗教的な対立にアルメニア人虐殺が利用されているような臭いがします。
出典:Armenian Genocide recognition(Wikipedia)
こちらは英語のウィキペディアからの引用で、アルメニア人虐殺をジェノサイドだと承認している国を地図上で示しています。
濃い緑が国として公式に承認している国、薄い緑が国内にアルメニア人虐殺を承認している特定の政党や州、自治体などがある国です。
意外に少ないなあ、とやはり個人的には思いました。
そして綺麗にキリスト教圏の国ばかりがアルメニア人の虐殺を承認しています。唯一の例外はリビアくらいでしょうか。
アジアやアフリカの諸国など、このキリスト教とイスラム教という対立軸においては第3国的な立場の国々の多くがこれをジェノサイドと認知していない理由はわかりません。
しかしこれは同じ”虐殺”といってもホロコーストなどとは大きく受け取られ方の異なる、議論の余地のある問題だということはわかります。
誰もが同意してジェノサイドと呼べるものではなく、だからこそその曖昧さや不確かさゆえに、対立を煽ったり、政治や宗教のしがらみの中で利用されてしまう節があるように思えます。
ここで思い出されるのは、トルコのEU加盟問題です。
トルコいえば最大の都市イスタンブールがアジアとヨーロッパにまたがって存在する、まさに西洋と東洋の接点と言える国です。
隣国ブルガリアが加盟しているところを見ると、トルコも立地的には加盟してもよさそうなものですが、ブルガリアはもとはアジア由来の民族に発した国であるものの、スラブとの混血が進み宗教的にも8割以上がキリスト教徒です。
一方でトルコ人も現在のモンゴルやカザフスタンあたりから移動してきた民族ですが、受容したのはイスラーム。混血したのはアラブ系です。
このような文化的な隔たりがあることに加えて、ブレクジットにも見えるようにEUは経済的な問題をはらんでいます。ギリシャ、イタリア、ポルトガルなど経済が芳しくない国をすでに多く抱えているEUはこれ以上心配の種を増やしたくないというのが本音だと思います。
しかし、戦争の傷や民族の違いを乗り越えて経済の統合を目指すというEUの理念がある以上、文化的な違いや経済的な事情を理由にトルコの加盟を拒否するのはクールではありません。
そこでEUが見つけ出した建前上の理由がアルメニア人虐殺のようです。
そういう悪いことしたのに認めないような国はウチじゃ受け付けてませんよ、ということらしいです。
しかしトルコとしてもアルメニアとの領土問題に発展する恐れがある以上やすやすと虐殺を認めるわけにもいきませんし、なによりそんなことをしては政治的主張や歴史認識に一貫性が失われ国内での信用と支持も失ってしまいます。(どの国にも保守的で愛国的な思想から政治の支持を固める層がいますから・・・)
このように、アルメニア人虐殺を語るときには必ずと言っていいほど民族対立、宗教対立、経済事情などの周辺問題が絡んできます。
歴史的な真実はなんだったのか、人道的にみてどう評価するべきなのか、この出来事から僕たちは何を学びとるべきなのか。
このような本質的な見方はほとんどされていないような印象を受けます。
被害国、加害国の人間として、それぞれ民族的な傷を抱えながらも僕に意見を話してくれたレボンとメフメトには感謝しますが、彼らの言葉にもそのような周辺問題が絡み合った対抗意識のようなものが感じられたのを思い出します。
ただ、これはもしかしたらアルメニア人虐殺に限らず、「歴史」というものが一般的にはらんでいる永遠の問題なのかも知れません。
人間はどうしても見たいようにモノをみて、信じたいようにモノを信じていします。むしろその傾向こそが歴史を動かしてきたようにも思えます。
まとめ:生まれによって決まる思想
長い記事になりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。
レボンとメフメトの話を聞いていて純粋に感じた疑問は
「この二人はお互いに反対の国に生まれていれば、全く今と反対の意見を語っていたのではないか?」
ということです。元も子もない想像ですが、恐らくそうでしょう。
レボンがアルメニア人に同胞意識を抱くことに彼がアルメニア人として生まれたから以外の理由はありません。同じ言葉や宗教を共有しているといっても、同じ経験を共にしてきたわけではなく、みんなが顔と名前を知っている知り合いなわけでもないのです。
メフメトがアルメニア人虐殺を否定したいのも、自分がそれに関わっていたとか、いわれのない罪でとがめられているからではありません。それでも同じ土地、同じ民族として生まれただけの赤の他人を100年前のことで庇おうとするのは、彼にトルコ人の民族意識があるからです。
これは日本人でも同じで、世界中で毎日何かしらの事件や事故が起き、誰かが巻き込まれて亡くなっていますが、それが日本人であるというだけで注目度は高まります。それが日本人であっても別の国の人であっても、僕とは何のかかわりあいもない他人で、どちらも同じようにかけがえのない生活を送っていたとしても、です。
オリンピックなどで日本人が活躍すれば理由なく誇らしくなります。どの選手とも何のかかわりもなく、どの選手も素晴らしい努力をしていても、です。
広島や長崎への原爆投下によりシンパシーを抱くのは北海道に住む日本人であって、韓国や中国沿岸部の住民ではないのです。たとえ彼らの方が地理的に広島や長崎に近くても、です。
日本という単一民族単一言語の単一国家にいると感じにくいですが、実は「国」や「民族」を定義するのはとても難しいことです。
政治単位や言語、文化的な儀式など、様々な線引きの方法を当てはめて考えてもあまりに多くの例外とぶつかります。同じ言葉なのに別の国家や別の民族、同じ風習でも別の国家、別の言語や風習なのに同じ国家など、現実では多くの要素が複雑に絡み合い、僕たちの意識をつくっています。
そして逆説的ですが、その「意識」そのものが「国」や「民族」を形作る原動力となっています。
これをベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」と言いました。
あくまで僕たちの中にある民族意識のようなものは、想像によって生み出された共同体であって実体が先だってあるものではないのです。
(↓この本)
人文系の大学に通えば一切に出会わずに卒業するほうが難しいくらいよく引き合いに出される本です。
陳腐ですが、グローバル化が完全にスタンダードになった現代において、この「想像」を便宜的に打ち壊す理性の力は、うまく世界を動かしていくためには個々人に必須能力として求められるものだと思います。
すべての国民意識、民族意識が不要なわけではありません。その意識ゆえにスムーズに社会が機能したり、相互扶助の精神が生まれることもよくあります。ただあくまでこの意識をツールとして使いこなし、意識を抜け出して物事を客観的に観たり、相手の視点で考えたりということが必要なのだと思います。
もちろん政治主体としての同じ国家に属している国民は、納税の義務や公共サービスの点で利害を共有しており、これは意識の問題ではなく実際の問題ですから、この切り分けも忘れてはいけませんが。
最後に。
想像ですが、レボンとメフメトを実際に会わせて話してもらったら、意見は対立し、お互いに譲らずに終わってしまうだろうと思います。国際問題の縮図を見ているようです。
一方で、日韓問題のように国同士が険悪でも、市民レベルの文化交流は活発でお互いに好感を持っているような例もあります。
僕たちの思想は生まれによって、なんの経験的な裏打ちなく固定化され、偏見で凝り固まっています。しかし、それに気が付いてしまえば、学習や経験を通して、理性的にも感情的にもその凝りを解きほぐし、異なる立場の人と分かり合うことができるはずです。
まずは気づくこと、次に学ぶこと、想像すること、そして行動すること。
アルメニア人虐殺に問題についても、ただショッキングな過去の出来事を現在の都合で政治利用するのではなく、真実を追求しつつ歩みよる姿勢が大切だと思いました。
政治レベルでは現実問題そんな理想主義的なことばかりは言っていられないこともあるでしょう。
しかし市民レベルでもそういう姿勢である必要はありません。
また機会があれば書こうと思いますが、僕も南京大虐殺について中国人の方に詰め寄られたことがあります。しかしお互いにしっかりと話し合うことで平和的に和解でき、認め合うことができました。
日本でも韓国に対する戦時中の慰安婦問題などで怒りをベースに言論がなされているのをよくみかけます。
しかし、ここまでに書いた通り、それ以外にも出来ること、とれる行動はあるのではないでしょうか。
もはや「異なる人」を排除して快適に生きていけるほど甘い閉鎖的な世の中ではありません。「異なる人」を理解し、受け入れる勇気が必要です。
大きな話になりましたが、アルメニアとトルコ。複雑な問題を抱える両国ですが、実際に訪れて、ほんの一部とはいえ彼らの声を聴くことができて良かったと思います。
大切なことを改めて考えるきっかけになりました。
旅したからこそ学びたくなり、学んだからこそ旅したくなる。
これが旅の醍醐味ですね。
では、長~い記事を最後まで読んでくれて
ありがとうございました。