大学のころに受けた「Cultural Globalization」という授業でちょっとだけ扱った
「最小公分母効果」(Lowest Common Denominator Effect)
というのがずっと気になっていて、ふと調べてみたらタイラー・コーエンの『創造的破壊』という本が出てきたので読んでみました。
この本のテーマをひとことで言うとすれば
「現代の世界ではどのような自由が可能か」(73ページ)
に尽きるようです。
Contents
著者 タイラー・コーエン
アメリカの経済学者。
さらにアメリカで最も有名なブロガーのひとりでもあるそうです。
英紙エコノミストの「今後世界に影響を与える最も重要な経済学者」26人のひとりにも選ばれたとか。
彼のブログはこちら。2022年3月現在もかなりの頻度で更新中。
https://marginalrevolution.com/
いちおうWikiも。
邦訳としてはこちらの本のほうが読まれているっぽい。
行動経済学よりの本だと思います。
行動経済学は2010年前後から流行って、最近またリチャード・セイラーさんのノーベル経済学賞受賞(2017年)でブームがリブートされ、関連本がたくさん出ていました。
行動経済学の一般向けの本は割と読んだのでこちらは読む予定なし。
グローバリゼーションと文化帝国主義
ちょっと本の内容の前に前段。
グローバリゼーションと文化帝国主義について。
グローバリゼーションの始まりをいつと考えるかは難しい。
一般的には、モンゴル帝国によって「ユーラシア」が成立した13世紀、大航海時代から新大陸発見を経て文字通りグローバルな商業ネットワークが発生した15-16世紀、産業革命以後の列強による植民地獲得競争が進んだ17-19世紀と段階的に進んだと捉えるのでしょうか。
点として存在した別個の文化圏・経済圏がシルクロードや海の道という線でつながり、巨大な覇権国家によって面の支配となり、異国感の軍事・経済競争によって支配・被支配の階層構造が生まれるという、多次元化と共に進んだのがグローバリゼーションといえるかもしれません。
産業革命以降、主にヨーロッパの国で盛んになったのが帝国主義です。当時はまだ第二次産業が興隆を極めていたので、資源が国力でした。
資源を商品に変える技術・商品を遠くの市場に運ぶ技術が発達したのが産業革命です。
帝国主義を掲げる本国にはこれらの技術がありますが、技術だけでは儲かりません。技術に加えて必要なのは、労働力と購買力です。作り手と買い手がいないと売れないので。
この売り手と買い手についても、どちらも植民地で解決します。
植民地の人々を労働力として使役(産業革命前にも大規模農業経営のため植民地の人を生産地まで人を運んでいました)し、植民地の資源を本国で商品化して、植民地の市場に流して売る。
こういう流れです。
植民地となった土地の人々からしたらひどい話なのですが、良い悪いはともかくとして、このようにヒト・モノ・カネが世界的に交流します。
ついでに言語や価値観などもどんどん混ざり合います。
このように帝国主義的な政策に伴ってグローバリゼーションは加速してきました。
しかし知っての通り、帝国主義は20世紀に入って終わりを迎えました。
悲惨な戦争によって大切なことに気が付いたからなのか、人権や国際法などの社会思想が十分に発達したからなのか、植民地経営と多民族化する国家運営のコストが利益に見合わなくなったからなのか・・・。
「なぜ」は別の本でも読んで考えるとして(複合的な理由に決まっているのですが。)、とにかく植民地として他国を支配するという考えは流行らなくなった。
代わりに国民国家(nation-state)や民族自決のような、それまではヨーロッパの白人国家に対して限定的な原則となっていた社会体制が、有色人種・第三世界にも根付いていきます。
(オスマン帝国というアジアの大国から白人国家であるバルカン諸国が相次いで独立した例もあるので、あんまり単純化して捉えるのも良くないかな。まあこれは第1次世界大戦よりも前の話だし、オスマン自体の国力やドイツ・ロシアを中心とか周囲の列強の思惑が大きい気がするが。)
で、現在のように200前後の国と地域が、少なくとも建前上は他の国に隷属することなく並列的に存在しているわけです。
ではこれで帝国主義は本当に終わったのでしょうか?
いいや、まだ帝国主義は存在している。
軍事や政治にによる支配ではないが、形を変えて今でも帝国主義が行われている。
文化による帝国主義だ。
というわけです。
要するに軍事的にではなく文化的に他国を侵略する戦いが続いていると言っているのが、文化帝国主義という概念です。
政治用語にはハードパワーとソフトパワーというのがありますが、その辺を調べてみるとわかりやすいです。
コトバングの定義↓
文化帝国主義の猛者が必ずしも高いソフトパワーを持っていうということは全然ないようですが。(アメリカは最大の文化帝国主義国家に見えますが、国際社会での存在感にしては、そのソフトパワーは高いとはいいがたい。)
帝国主義時代には、植民地は支配国家の言語を学ばされ、支配国家の生産活動に従事し、支配国家の商品を消費し、支配国家の軍事に動員されました。
文化帝国主義の時代には、私たちは支配国家の食事をし(マクドナルド?)、支配国家の言語を学び(大学受験の外国語はだいたい英語)、支配国家で生産された製品や娯楽(Twitter、ハリウッド映画)に時間を使います。
軍事的な帝国主義なんかよりはよっぽど平和でよろしいですし、マクドナルドは高校生に青春のいちページを刻み付けますし、英語がわかれば英語圏以外の外国の人たちとだいたい話せますし、Twitterで自分の作品を楽しく公開しているアマチュアクリエイターもたくさんいますし、ハリウッドの社会派の作品で価値観が変わることもあります。
それを文化帝国主義と呼ぼうが呼ぶまいが、グローバリゼーションのおかげで、生活は自由で豊かになっているのでは?いったい帝国主義になぞらえてまで、何が問題だと言いたい?
って話ですよね。
文化帝国主義が懸念とされるのは、それがローカルの文化を殺してしまうのではないかと考えられているからです。
みんながロックを聴くようになったら演歌は人気がなくなる。みんなが日本のアニメを観るので自国のアニメが廃れていく。安くてかっこいい洋服が売れて、民族的な伝統衣装は行事向けになってしまい作り手が減っていく。NBAとイングランドプレミアリーグが面白いので自国の国技の試合には興味がない。
こんなことが起きて、世界が均質化し、多様性が失われていくのではないか。
そういう懸念があるわけです。いくつか例をあげるだけでも実際にそれが看過できない速度で既に起きていることがわかります。
と。『創造的破壊』についてはこのような前知識があって読むのが好ましい本です。
難しい本ではないですが、こういう前提を基に、グローバリゼーションって本当に問題なんだろうか?
実際にローカルの文化に与えている影響とそれに発する現象はどのようなものだろうか?
という疑問に取り組む本です。主にコンテンツ産業が素材です。
英語ですが、短く簡単な動画があったので。
第1章~第4章
良かった節をメモっておきます。
文化製品の貿易は、世界の芸術の多様性を支えるのか、破壊するのか。将来もたらされるのは、質の高い斬新な芸術なのか、最小公分母的な均質文化なのか。経済的な選択の自由が世界中に広がることで、文化の創造性に何が起こるのか。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
この本はこの疑問に答えるために書かれています。
パン食は米食を破壊したのか、洋画は邦画を駆逐したのか。
文化交流によって新しい多様性が生まれ、芸術的昇華を経てさらなる高みを実現したのか。
そして「個人」を主語に置いたとき、私たちの消費は多様化したが、同時に世界は均質化しつつある。それは文化や芸術にとって、良いことなのか、悪いことなのか。
このような疑問に取り組むべく、先を読み進めていきます。
新しい芸術作品がある社会から別の社会へと輸出されると、社会内部での多様性は高まる(消費者の選択肢が増える)が、二つの社会の間の多様性は低下する(二つの社会は以前よりも似たものになる。)。問題なのは多様性の度合いではなく、グローバリゼーションによってどのような多様性がもたらされるのか、ということである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
この節の内容は、著者によって繰り返し主張されていました。
ハンガリーでも、ルワンダでも、中国でも、ウルグアイでも、同じ料理を食べようと思えば食べられるようになりました。Netflixで同じドラマを見ることもできます。
文化消費の中心を担う若者たちのライフスタイルは国や地域に関わらず似ている部分が多くなり、彼らの注目は各文化圏特有の慣習や伝統的な文化・娯楽よりも、グローバルなトレンドに向いています。
これによって各国の文化が淘汰されているかは別の問題ですが、少なくとも「多様性」という部分に話を絞ると、異文化間のそれは間違いなく減ぜられています。
しかし、「多様性」という言葉は異なる次元で考えることも可能です。
異文化同士が均質化するとき、それぞれの文化内で暮らす人々が享受する選択肢としての「多様性」は増しているということです。
この2つの視点は常に意識することが大切でしょう。
自分が持っていきたい話の都合に合わせて、片方の意味に絞って「多様性」という言葉が使われていることが多いように感じます。
これはグローバルなレベルだけでなく、日本国内にも適用できる考えです。
地方では、地域の伝統的な祭祀や方言などが残っている場所が多く、その県や地域出身者たちの同族意識も残っていると思います。同時に地方の若者の目は常に都会へ向いており、東京や大阪で流行のものを追いかけています。
一方、都会になるにつれて地域性は失われ、共同体としての帰属感覚も薄らぎます。しかし、そのような「よそ者」たちがひしめき合った東京のような大都会では、個々人に与えられた文化的選択肢は世界でもトップクラスに多様といえます。
文化・伝統・地域性 | 共同体感覚・帰属意識 | 個人が享受できる文化の多様性 | |
地方 | ○ | ○ | × |
都会 | △ | × | ◎ |
私は千葉県佐倉市という決して都会ではない普通の街から東京に越してきた人間ですが、佐倉市やその周辺では、昔ながらの商店街が息をひそめ、イオン系列のショッピングモールや、ニュータウンとして再開発されたチェーン店が並ぶ商業区画が生活の中心ということがよくあります。(これは文化が破壊されている側面ですね。)
一方で、東京ではまだ個人経営店が溢れた商店街にも活気があり、どんなにニッチな商品やサービスにも専門店があったりします。これほど個人が享受できる多様性に溢れた街が他にあるのでしょうか。少し離れると奇抜に思われるファッションも、東京の中心であれば日常の風景として受け入れられています。
日本では都会が多様性を享受する一方で、地方は均質化しているという歪な構造になっているように見えますね。
世界に話を戻すと、日本の話で「地方」と呼んだような文化圏が、世界では非常に大きな規模で存在する(それこそ「ロシア」という「都会」に対する「ウクライナ」という「地方」のように)ため、状況は変わるでしょう。
さらに少し視点を離して、時間軸を広げて考えると、ある地域から別の地域に伝播した技術によって受容側の文化にパラダイムシフトが起きたというケースもあるようです。(伝統音楽が録音できるようになったことでさらに発展したケースなど。)
タイラー・コーエンはこのように2種類の「多様性」を峻別したうえでこのように書いています。
実際には、人は出生地によって運命を決定されることなく多様な生き方をすることができるし、この点こそが自由という概念の中心をなしているのに、多様性を擁護する人々の多くは、差異というものは、アメリカとメキシコの国境を超える時のように、はっきりと目に見えるべきだと考えている。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
実効的な多様性ーいかに効果的に多様性を享受できるかーという話は、客観的な多様性、つまり、どれほどの量の多様性が存在するのかという話とは異なるものである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
著者の意見としては、実効的な多様性、つまり個人が享受する多様な選択肢というものがより大切なものであり、グローバリゼーションの悲観論者は常にこの点を軽んじているということです。
大型書店のおかげで、読者は、小さな出版社の本にめぐり合うことができる。もっと一般的な言い方をすれば、部分的な同一化が起きることによって、ミクロレベルで多様性が花開くために必要な条件が整備される。クロード・レヴィ=ストロースが述べたように、「多様性とは、集団を互いに孤立させる機能ではなく、集団同士を結び付ける関係である」
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
ここ、読みながら唸ってしまいました。
さすがレヴィ=ストロース博士です。
昨今の日本も多様性が叫ばれていますが、どうしても「自分の個性や考えを認めてほしい」という動機が前に出てきているように感じます。
そして「分かり合えなくていいけど、私のことにケチつけないでね。【多様性】が大事なんだから。」と。
極端に言えばこのように使われている場合もあるでしょう。
これはまさに集団を互いに孤立させる機能としての多様性です。
しかしレヴィ=ストロースは、それは多様性の本当の姿ではないという。
多様性とは、集団同士を結び付ける関係である。
つまり異なる集団同士がそれの在り方を認め合うのは話の前提で、そこから異なる集団同士が互いに踏み込んで結ぶ関係こそが真の多様性である、と。
なんだか『ONE PIECE』が歌舞伎とコラボしたことや、BUMP OF CHICKENが初音ミクとコラボしたこと。そしてそのときに胸が熱くなったことを思い出しました。
私は『ONE PIECE』とBUMP OF CHICKENは好きなのですが、歌舞伎と初音ミクのことはよく知りませんでした。(今でもよく知らない。)
しかし、この異種同士がタッグを組んでひとつの芸術を作ろうとする行為がめちゃくちゃアツイなあ!と思ったのです。
文化にしても個人の人間関係にしても、全然違う同士が互いにポジティブに面白がって、何か関係を作っていく姿勢が多様性なんだということを、もっと意識して生きても良さそうですね。
芸術を消費する側も製作する側も、自らの創造的願望を満たすには「他者性」を必要とする。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これも強い言葉ですね。
「他者性」が存在しないとき、人は芸術を創造するのか。
僕の周りには音楽や絵など芸術創造系の趣味を持っている人が多く、僕自身は小説や詩を書いたりするのですが、よくその界隈でも「他者性」の話がでます。
孤高の天才芸術家なんてものをイメージすると、他者のことなど意識せず、自分の思想や美学の条件を満たす作品を追い求めているような絵が浮かびます。
一方で、他者を意識しきった作品は芸術というよりも娯楽のような感じがする。純文学と大衆小説の違いのような。
しかし、実際のところ、他者性なくして芸術創作なんてものが可能なのでしょうか?
「他者性」という言葉の意味するところは、「他人にとって何がウケるか考えること」ではなく「他者という自己以外の意識が世界に存在し、それによって自己が認知されることを知っていること」のような意味ではないでしょうか。
この意味での「他者性」がない世界で僕たちは創造的活動を続けるのか。
想像するのが難しい世界ですが、言葉も文字も音も絵も記号も、意味を媒介して他者に伝えるという点ではある種のメディアです。
伝えるためにその存在が始まったものです。
それが高度に文化化したものが芸術と考えれば、やはりここにあるのは「伝えたい」「わかってほしい」という原初的欲求ではないかと思います。
芸術肌の人間というのは、「内面世界が広い人間」と言い換えることができると僕は考えています。
(そのうち内面世界と外面世界という自分用語をもとにした持論空論を展開する記事も書く予定。)
内面世界が広いと、言葉や絵や音によってそれが外の世界に接続されたとき、そのすべてを伝えきるということがより困難になります。
だから内面世界が広い人は、それを表現するために芸術という単純ではない構造を持った媒介を利用するのだと思います。
同じ理由で、この人種はそうでない人々と比べて、芸術作品や物語の消費量が抜群に多い。
自分の内面世界にしか存在しないと錯覚していたものが、他者によって表現されていたことを気が付いたときの「共感」の温度がめちゃくちゃに高いからです。
それによって自分の内面世界の奥底にあった「大切」が外の世界に接続された感覚を味わうのです。
こうなるとやはり、芸術の創作だけでなく、芸術の消費さえも「他者性」を必要とするという、タイラー・コーエンの論調は、受け入れざるを得ない気がしてくるのです。
芸術ネットワークという概念が示すとおり、大規模な創作が行われるためには、都合の良い状況がいくつも複雑に組み合わさる必要がある。(中略)経済学者ルドウィグ・ラックマンが、お互いの価値を高めるような資本財を示す「資本補完性(capital complementarity)」という用語を造った。非常に創造的な時代には、社会のエートスや材料技術、市場の条件が全て積み重なって、生産力のある芸術家たちのネットワークが創られ、支えられていく。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「資本補完性(capital complementarity)」という言葉ですが、英語で検索してもマジの学術論文しか出てこないし、それの定義はラックマンさんの原文まで遡らないといけない臭いがするんですよね。。。
まあでも、イメージしてはそんなに難しい話はしていない気がします。
近年レコード市場が再度伸びているそうですが、これは新型コロナウイルスの流行で家で過ごし時間が増え、そこに新しい高品質の娯楽を求める人が増えたことが関係しているようです。
さらに、Spotifyなどの音楽ストリーミングサービスや、YouTubeのような動画配信サービスが完全に一般化したせいで、僕たちの意識は大量消費、一生かかっても消費しきれない量の作品の海でおぼれているような感覚に支配され、ひとつひとつの作品と落ちついて向き合いたいという気持ちは阻害されます。
こういった状況(要は社会のエートス、材料技術、市場の条件)が整って初めて、レコードという、生の音を、針を落としたり盤を裏返したりという作業を伴い、1枚通して作品をじっくり聴くという「ひとつの体験」を提供する媒体が注目を集めるようになったのでしょう。
一方でCD市場は落ちっぱなしのですが。
(ちなみに僕も人生で初めてレコードプレーヤーとレコードを買いました・・・ミーハー。)
さて、レコードの話は「資本財と周辺状況」の補完関係でしたが、これが資本財同士で補完する関係になれば、それを「資本補完性」と呼ぶのではないかと。
「スマホとソフトウェア(アプリ)」とか、「メルカリと運送・郵送サービス」とか、プラットフォーム系のサービスを想像するとたくさん例が思いつく気がします。
スマホをみんなが持つから、スマホアプリ版のソフトウェアをリリースする価値が生まれ、みんなが使いたいアプリがたくさんあるから、さらにスマホを持つ価値が高まる。
そういう関係のことではないかと。
イギリスの工場や新しい技術との競争を通じて、インドの織工たちは、より繊細で洗練されたデザインを生み出すことを余儀なくされた。(中略)これによってインド織物の品質向上に拍車がかかり、手織工たちは製品とデザインの完成度を高めることに力を注いだ。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これ、ちょっと目から鱗の新しい視点ですよね。
基本的に日本の世界史の教科書では、インドのキャラコをはじめとする綿製品がまずイギリスの質の低い織物を駆逐し、産業革命を通じてイギリスがインド綿製品よりもさらにきめ細かい製品を機械生産できるようになったことでインドを含む世界中の織物を地ならしのごとく駆逐するという、進撃の巨人のみたいな展開を習います。(おっとこれ以上のネタバレは。)
しかし、この引用によると、イギリスの機械生産に負けないように、値段や物量以外の部分、つまりデザインなどの向上に価値を見出すようになったと。
僕たちはついつい、「すべてにおいて洗練されていた伝統的な技術や芸術が、圧倒的な生産能力を持った紋切り型の実用性特化製品に駆逐される」というようなわかりやすい物語を信じますが、実際にはその外圧に抵抗するなかで、伝統的なものがさらに進化を遂げているというケースも多いのです。
これはグローバリゼーションが生む多様性のひとつといえます。
日本という国も、「中国」という外圧から稲作や漢字や仏教を徐々に取り入れ、「キリスト教」という外圧には鎖国というリアクションを取ったことで独自性を保ち、「欧米近代国家の来襲」という外圧には明治維新・文明開化という過剰とも思える超適応によって一気に近代化しました。
敗戦で西側諸国の傘下に入ってからは欧米化に拍車をかけつつも、新しい日本らしさを生み出しながら発展し、今では日本と言えば「寿司」「アニメ」「変態」など新旧入り混じる謎イメージを構築しています。
グローバリゼーションによって日本は世界の国と似たものになってきてはいますが、個人がより多くの選択肢を持つという意味の多様性が伸びているだけでなく、より観察粒度をあげた時、世界はより細かい多様な性質に分化しているように思えてきます。
「エートス」とは、本書では、ある文化に特有の感じや特色を意味する。エートスは、ある社会において見られる世界観や様式、インスピレーションの背景となるネットワーク、あるいは、文化的なインスピレーションの枠組みである。(中略)エートスは大抵、私たちの行いを特徴づけながらも、文章あるいは言語による公式化を拒むような、暗黙知あるいは背景的知識を含む。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「エートス ethos」という言葉が出てきました。
元来はギリシア語で「性格」「習性」を意味する言葉のようです。
スペルから憶測できるように英語の「倫理 ethics」「民族 ethicity」などと同語根です。
エートスが持つ、「集団におけるひととなり。共有された慣習、習性。」という意味から派生して、ある集団がお互いに期待する行動規範である「倫理」や、文化的に(あるいは言語的?)に結束された集団である「民族」という言葉ができました。
このように eth- の語源から派生した言葉が意味するところから考えると、「エートス」は、ある集団における「らしさ」と理解できそうです。
イタリア、インド、ブラジル、モロッコ、イラン、韓国、ジャマイカ・・・
こういう言葉を聞くといろいろ雑多なイメージが国ごとに浮かんできます。
これは現地に行ったことがない場合はあくまで知識やメディアによってつくられたイメージに過ぎませんが、実際に数日でも現地に滞在すれば、言葉で説明できないような「エートス」、その国「らしさ」を五感のすべてで感じることになるのでしょう。
海外だとまだ遠い話に聞こえる人も多いと思いますが、「大阪」「京都」とかのエートスは日本でもよく知られていますね。
芸術家たちは、顧客に「同調」した、つまりは時代の精神に一致した美的感覚を伝えようと躍起になる。彼らの生み出す芸術作品は、この時代精神にさらなる形を与え、影響を広めることで、累積的フィードバックという双方向のプロセスを出現させる。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
芸術において「共時性」は非常に重要ですよね。
「時代に合っているか」はその作品が優れているかどうかの主な指標のひとつだと思います。
ダンテが『神曲』をトスカナ語で書いたこと、歴史上はじめて市民軍が傭兵群を破った戦いである「ヴァルミーの戦い」の結果を知ったゲーテが「今日この日から世界史の新しい時代が始まった。」と述べたこと、ピカソが1930年代に『ゲルニカ』を書いたこと。
これらの事実が示す、「作者が持つ自分の時代を俯瞰してみる力」には感服します。
現在を巨視的・客観的に見て、何を創造するべきなのかわかるというのは大変なことです。
時代にあった作品は、形になっていなかった時代精神に形を与え、後発作品が時代精神を助長させていくきっかけになります。
わかりやすいところで週刊少年ジャンプの看板作品の遷移を考えても、時代と共に傾向が変わっています。
80年代は『DRAGON BALL』『北斗の拳』『聖闘士星矢』などのマッチョ系主人公。
『SLUM DUNK』『幽☆遊☆白書』の不良系を経て、
1990~2000年代『ONE PIECE』『NARUTO』『HUNTER×HUNTER』という純真天真爛漫系主人公。
2010年代以降の『僕のヒーローアカデミア』『鬼滅の刃』などの割と賢い優男系の主人公。
単純化すればどんどん男のナヨナヨ化が進んでいます。
2020年代に入った今、ケンシロウのような主人公が受け入れられるとは思えませんし、2008年に連載を開始した『トリコ』でさえも、人気はジャンプ読者に限られ一般に認知されるレベルにはなりませんでした。(原因はひとつではありませんが、作風がマッチョすぎた(ヘミングウェイをマッチョと呼ぶ感じ意味で。)のが時代性とズレていたというのもあるのではないかと。)
ナヨナヨ化は音楽でも同じで
1980年代「こんな夜にお前に乗れないなんて、こんな夜に発車できないなんて」(RCサクセション『雨上がりの夜空に』)
1990年代「何度も言うよ 君は確かに僕を愛してる 迷わずにSay yes」(CHAGE&ASKA『SAY YES』)
2000年代「めぐり逢えたことでこんなに世界が美しく見えるなんて想像さえもしていない 単純だって笑うかい 君に心からありがとうを言うよ」(Mr.Children『HANABI』)
2010年代「君の運命の人は僕じゃない 辛いけど否めない でも離れがたいのさ その髪に触れるだけで痛いや」(Official髭男dism『Pretender』)
やっぱりどんどんナヨナヨしている。(まあそう見えるように曲とフレーズを選んでいるんですけどね。騙されないように。とはいえ、どの曲もその時代を振り返るとき象徴的に使われるレベルのヒット曲だと思います。)
80年代肉欲系、90年代オラオラ系、00年代イケメン系、10年代ナヨナヨ系みたいな感じでしょうか。(何度も言うよ、僕は確かに、結論ありきで引用を選んでいる。迷わずにセイイエス。)
これらを見るだけでも、それだけ文化的創造物が時代とマッチしているのか、そしてそれが重要であるのかわかります。
文化の場合、「芸術に対する負の衝撃」は、知識の喪失ではなく知識の獲得によって構成されるていることも多い。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これ、ね。
文化や芸術に関してだけでなく、個人についても同じことが言えるのではないかと思いますよ。
「○○に対する負の衝撃」は、知識の喪失ではなく獲得によることも多い。
○○にいろいろと入れてみたくなります。
人間性?夢?道徳心?愛情?
知らないことによって守られているものって世の中にめちゃくちゃ多いですよね。
だから新しい知識の獲得というのはその字面に似合わず「破壊的な結果をもたらす恐れのある行為」であるというのは否定できないところですね。
「Ignorance is bliss.」「知らぬが仏」
こういう諺が頭をよぎります。
実際のところ、今日の土着文化というのは、過去のある時点において、それ以前に生じた文化拡張を再編したものに過ぎない。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
土着文化っていっても、本当の本当にそこの土着のものなんて山や川や天候のような自然のものしかないわけで、すべての人為的な文化は土着というよりは人間の移動や他文化からの接収を通して徐々に形成されたものに過ぎないんですよね。
それをどこか歴史の一点(例えば国が成立したときとか)を基準に、それ以前にあったものを自分たちの文化として、人工的に「土着化」しただけ。
極論、歴史の一点を人類のアフリカ脱出に設定すれば、人類はアフリカ土着の哺乳類で、いま世界に広がっているのは皆、その土地から見れば侵略的外来種だし。
南北アメリカ大陸ではそれよりひとつ新しい次元で同じ現象が起きて、歴史の一点を1492年とすればそれ以前に「土着」していたものをすべて駆逐してしまい旧世界による侵略地になった。
日本にも、漢字や仏教伝来以降の文化を「外来文化」ではなく「日本文化」だと、歴史の一点をずらすことで認識を改めた時期というのがあったのでしょうね。
僕たちが土着土着いって自分たちの文化ぶっているものはすべて、これほどに相対的なものに過ぎないという認識は必要そうです。(だからといって文化を軽んじて良いという意味では断じてない。この論法を他文化を侮辱するために使うのは悪手である。)
ちなみに僕は感性では古典を重んじるタイプで、思想的には革新主義寄り。よって芸術作品は古めのもの(古典化しているもの)が結構好きですが、土着とか文化剽窃とかにはあんまり関心がありません。
形あるものはいつか壊れるし、別にもともと誰のものでもないしという感じ。
反応するときは「自分の文化だから」というよりは「自分が好きなものだから」のほうが良い気がするんですよね。
貿易は時としてエートスを破壊する。それでも貿易は、進行中の文化再編プロセスにおける悪役と見なされるべきではない。逆説的であるが、貿易は、エートスの正常な発達において、孤立化と同じぐらい不可欠な役割を果たすのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
大きな社会は、通常、外部からの衝撃に対する弾性を有しており、ダメージを受けた場合でも、壊滅せずに再編成する可能性が高い。大きな社会は内部が多様なので、外からの影響を受けた時でも、部分的にダメージを受けることがあるにせよ、柔軟かつ創造的な対応が可能なのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
この2節ではなぜか子育てのことが思い出されました。
貿易を「外界との接触」、孤立化を「親による保護」、エートスを「子どもの人格」として読み替えても同じことが言えそうです。
自分の人格形成のことを振り返っても、間違いなく部分的にダメージを受けた出来事は超重要で、その後の人生に意味を与え、色彩と豊かさをもたらした。
何かを守りたい、発展させたいと思ったら、外圧というものが間違いなく必要なんだろうなあ。
仕事もするにも創作をするにもアイデアに詰まったら別の刺激を入れるものだし、質を上げたければ人の目にさらすものです。
文化やエートスが進化していくにもある程度は外のものとの混じりけがあったほうがいいのかもしれません。病気の免疫とかも同じですし、実はこれは世界の真理なのか。
「流れる川の水は腐らない」という僕の座右の銘のひとつ。
これも似ている。
静的な状態でずっと同じ場所に同じ形でとどめておこうとすることは、それ自体が脆弱化、陳腐化、腐敗、弾性の低下の原因になる。
未開と呼ばれた地域の文化やエートスがいとも簡単に大きな文化に飲み込まれて消失したように見えるのは、その社会が長期的な孤立によって弾性を失っていたことも原因のひとつと考えられそうです。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉も、含蓄がよく響いてきますね。
少なくとも。世界に六千ある言語の内の半数が、二十一世紀中には消滅する見込みである。だが、言語的な多様性があらゆる点で減少しつつある、などと結論づけるべきではない。現存する個々の言語は以前よりも豊かになっている。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
著者は「言語が消滅しても良い」と言っているわけではありません。
ただ「言語数の減少=あらゆる多様性の減少」という一義的な捉え方を戒めています。
日本語は、著者のいう意味での多様性を示す生き証人みたいな言語ですね。
表音文字である仮名文字と表意文字である漢字。
これらを併用する言語は僕が知る限り日本語だけです。
古代に中国という大国の外圧を受ける中で書き言葉(漢字)が輸入され、すでに十分な弾性を備えていた当時の日本文化がその漢字を、大和言葉の表記にも使えるように変容させたのが仮名文字です。
この特性のおかげで日本語はひとつ上の次元の多様性を手に入れました。
多様性を備えると弾性も増します。
この仮名文字という武器と「適応性が高い」「論理よりも感覚を重んじる」などの日本文化の特性が背景となり、オランダ語・ポルトガル語・英語を中心とした印欧語から多くの語彙を借用しそのままカタカナで表記することで国語の語彙に取り入れてしまったり、多様性の権化ともいうべき日本語最大の特徴のひとつである擬音語・擬態語(オノマトペ)が発達したりという変化が起きたと考えられます。
このように考えると、世界から言語の数が減っているので憂慮すべき自体ではありますが、そのような言語的な混じり合いによって、それぞれの言語内の多様性が増しているというのも事実らしく思えます。
異質化と均質化は相矛盾する過程ではなく、むしろ補完的な発展過程である。内なる多様化は、多くの場合、ある社会が大きくなり、ある面での均質化が進行した場合のみ生じる。多くの人の直感に反して、近代の多様性は、ある程度までは均質化の傾向に依存している。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「異質化と均質化は補完的な発展過程」というちょっと難しい言い回しも、ここまで各節を読み込んできたらスンナリ腹落ちするようになりました。
福岡伸一さんなどの著書により日本でも話題になった生物の「動的平衡」のことがなんとなく思い出されました。
現在、世界規模で優勢になりつつあるエートスがあるとすれば、それは、民主主義や比較的自由な市場、近代の商業社会を通じて醸成されてきた、個人主義的な自己充足というイデオロギーである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「個人主義的な自己充足」をイデオロギーとして捉えているのが面白い。
確かにそうですね。
住む場所も仕事もどんどん自由になって、身分や職業の世襲なんてものはほとんどなくなった。
保守的な「べき論」を言うのが憚られるようになり、常に社会通念のとしての「常識」が懐疑されるほどに世間がリベラル化しているように思えます。
その代償は「これをやっていれば立派」という基準が失われ、自分の人生の意義は自分で見つけないといけなくなったこと。
これはなかなかの難問で、多くの人には見出せないまま「結果論の後付けで、過ぎた時間を美化して生きていくという器用さ」でなんとか気を持たせるというのが現実だと思います。悪い言い方をしましたが、もしかするとそういう営みこそが人生の本質なのかもしれない。
ただじゃあ「過ぎゆく時間の瞬間瞬間」には何をすればいいのでしょうか。
日常を圧倒的に埋め尽くしてくる何でもない時間を、なんとかしてやり過ごさないといけない。そうやって自由の刑から逃れなければやっていられない。何かに没入して、自分を忙殺して、我に返る時間を減らす。
意識的だろうと無意識だろうと、このような営みは「個人主義的な自己充足」がイデオロギーとして興隆した主たる要因だと思います。
2020年代になって「推し活」が一般化したエートスは、現代人の心が置かれたこのような状況に発しているような。
アラブ世界では、多数の方言が使われている。このおかげでカイロは、エジプト・アラビア語の使用を通じ、他のアラブ諸国への映画輸出でトップに立つことができた。エジプト・アラビア語は、今やアラブ世界で広く通用しているが、その大きな理由は、エジプト人以外の人々がこの言語で製作された映画やテレビ番組をたくさん観ていることにある。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
同じ理由で、日本の地方出身者は皆、標準語を話すことができる。
このような方言レベルのバイリンガルが羨ましく思えるのは、僕のような方言を持たない標準語話者あるあるだと思います。
そういえば「めっちゃ」と「バリ」とか、地方方言に由来する強調表現は、若者を中心に標準語に多く取り入れられていますよね。これも「貿易による多様化」の例でしょうね。
ここでいう貿易とは、商材に限らず、人や技術、金融、情報、思想などが共同体や文化圏をまたいで移動することを指すと考えるべきでしょう。
アルジュン・アパデュライの5つのスケイプの理論が参考になります。
グローバリゼーションについて学ぶとすぐに出会うことになる理論です。
ハリウッドが非英語圏にの人々に対して作品を売れば、それらの作品の一般性は高まる。難解な会話の出てくる映画よりも、アクション映画のほうが好まれる。コメディであれば、駄洒落よりもどたばたが中心になる。(中略)普遍性が高まっているということは、すなわち、映画が人間の営み一般に関わるものであることを意味するが、それは同時に、あたりさわりのない紋切り型のシナリオを生むこともある。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これが本記事の冒頭で述べ、この本を読むきっかけにもなった「最小公分母効果」の話ですね。
やっと出てきた。
そういえば個人的によく短編小説を書くので、シナリオのセオリーくらい勉強しようと思って、有名なシナリオ本である『SAVE THE CAT』と読んだんですよ。
この本でもやっぱり、人間の原初的欲求を刺激し、それに根差した動機づけで登場人物を動かせ、みたいなことが書いてありました。
ブロックバスターになるような映画を作るには、文化や思想を超えて「誰でもわかるもの」を作らないといけないんだなあと。
まあそれで売れるものを作るのに興味がないということに気が付いたので、何も参考にはしていないのですが。(自分の中では、物を書くという行為をビジネス的な発想を結び付けたくない。)
この最小公分母効果を意識してみると『トムとジェリー』とか、マジでよく出来ていますよね。。。あんなの地球上の誰が見ても面白いもん。
アメリカは「世界中で売れるもの」を自国文化の一部として取り入れるに至った。アメリカ人は国際的な大成功と民族の多様性を、自国のセルフイメージとして強調することを選んだ。そうしてアメリカ人は、世界市場における成功と引き換えに、自分たちの文化の特殊性を売り払ったのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
アメリカは自国のエートスをメタ化したということか。
文化的な「らしさ」がないことがアメリカの商業的成功を支えているのかも。もしくは生産性や効率性のような超ローコンテキストなものの捉え方が「らしさ」なのかもしれません。
プロテスタントが創った国ということを考えるとそれは聖書主義なわけで、聖書を読むということは書かれたものを字義の通り捉えようとする努力なわけで、それはローコンテキストになるのも頷けるな、と。
あとは有名なプロ倫理論を真に受けるとすれば、プロテスタントのストイシズム(禁欲主義)、カルヴァンの予定説からくる資本主義の精神もそれを手伝ったか。。。
とはいえ、いくらかの「軽薄さ」と結び付けられているのは否めないですが、「勧善懲悪」「ジャンクフード」「起業精神」「フロンティア精神」などアメリカっぽい十分にいえるイメージもたくさん湧く気がしますけどね。
恐竜映画の『ジュラシック・パーク』は国外で大ヒットしたが、アメリカ史やアメリカ文化を絶えず参照する『フォレスト・ガンプ』は、興行収入の大半を国内で稼いだのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
一般的にちゃんと映画としての評価は『フォレスト・ガンプ』のほうが高いのがなんか良いですね。
スピルバーグ監督の特に初期の作品は『激突!』『ジョーズ』『ジュラシック・パーク』のような最小公分母効果をふんだんに生かしたパニック映画が確かに多いな。
一方で『フォレスト・ガンプ』のロバート・ゼメキス監督は代表作の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでもアメリカ文化をふんだんに参照していました。続編では西部劇のシーンもあるし。
ヨーロッパ映画の面白さは、大規模な世界市場には辿りつけないからこそ生まれたものが多い。世界市場から締め出されたことで、ヨーロッパ映画は、言語や文化のニュアンスに焦点を当てることができる。薄っぺらいハッピーエンドに頼ったりせず、もっと面白い選択をすることもできる。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
ここに多様性があるんでしょうね。
最小公分母によってブロックバスター化した作品によって業界規模が押し広げられ、その裾野でニッチな作品たちが多様性をもって生み出されていくイメージでしょう。
日本の漫画も『DRAGON BALL』『キャプテン翼』『名探偵コナン』『ONE PIECE』のようなドデカイコンテンツのおかげで一気に世間の注目が集まって、裾野で多様化が進んだのだと思います。
そのおかげで僕は今日、宮崎夏次系さんや田島列島さんの漫画が読めるわけだ。万人受けはしなくても一部に刃受ける作品がたくさんあってそれがいい。
ヨーロッパ映画も割とそんな節がある気がします。
ラース・フォン・トリアー監督(デンマークの人。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の人です。)の作品とかめちゃくちゃ好きなんですが、絶対万人受けはしないし。
第5章 衆愚化と最小公分母
知識のある客は品質を向上させるが、それと同時に、無知な客は品質を低下させる。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これは本当、いつも消費者としての自分を戒めねばと思っています。
まあ気軽に楽しんでもいいじゃんという意見も完全に正しいので何も言い返せないのですが、質を求めない消費者ばかりになると、そのうち芸術は「脳科学的に人類に快感を与えるようにプログラムされた光の点滅を観ているだけ」みたいな世紀末なことになりかねない。(昔にNHK Eテレ『100de名著』で伊集院さんがこんなことを言っていて印象的だった。)
芸術はドラッグではないので、消費者が感情移入したり、分析したり、解釈したり、妄想したり、二次創作したりして主体的に楽しむことができる。
腹に入れば何でもいいといって完全栄養食みたいな味気ないものを食べるのか、食材や調理法に想いを馳せながら、その料理ができた文化的・気候的・歴史的背景なんかにも妄想を膨らまして、味わいを口の中でホロホロと遊ばせながら食べるのとじゃ、ぜんっぜん違う。
後者の食事が増えれば、食文化全体の品質が向上することは間違いない。
それは食以外にもすべての文化・芸術に言えます。
ここで注意すべきは「理にかなっていて無駄がないのは前者のほうだ」ということです。
便利ならいい、効率が良ければいい、無駄がなければいい、余計なものはないほうがいい。
このような現代的な考えは物事を進めるには重要ですが、それ自体で良いものというわけでもなく、発動の仕方によっては悪さもします。今ではこのような考えが節操なくどこでも発動されてしまって、僕たちには余裕がなくなっている。
不便でも好きならいい、効率悪くても面白ければいい、無駄な部分が個性である、余計なものは多いほうがいい。
このような価値観こそが、人間を人間たらしめると僕は思っています。
だからこそ、ただ栄養を摂取する作業として食べるのではなく、洗いにくそうだけど素敵なお皿に盛られていて、時間がかかるけど丁寧な調理法が採用されていて、意味のない飾りやソースの模様があるみたいな料理を、いらんことをたくさん妄想しながら食べる。
これが良いのです。
「そんなの何の役に立つの?」
自分が目一杯楽しんでいることに対して誰かがそういったとき、まさに僕たちは「人間」をやっているのです。
だからそれを言われたら勝ったと思っていいのだと思います。人生を豊かに生きるという途方もない挑戦に勝ったのだと。
市場は、幅広い鑑賞者向けに商品を販売しようとする売り手に対して、「最小公分母」のうけを狙うことを促すのか。現在という時代を表すのに、「衆愚化」という言葉が使われることがあるのはなぜか。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「衆愚化」はもともと古代ギリシアのポリスで徹底的な民主化が行われた際に陥った状況で、扇動政治家であるデマゴーゴスたちが民衆を導く(操る?)ことで腐敗した状態のことです。
古代ギリシアの民主化は歴史に燦然と輝く記念碑的な印象を与えますが、実際にうまくいっていたのは軍事実績を背景に支持を集めていたペリクレスが実質的な独裁をしていたときであり、ペリクレス没後は一気に衆愚政治に堕ちていきます。
歴史を眺めると、民主政治だけが善だという言説が蔓延っているのはちょっと違和感があります。民主的である時代には仮借のない戦争が起きていて、民主的な方法で独裁者を生み出して。。。というのが繰り返されているからです。
一方で独裁というとスターリンやヒトラーが真っ先に引き合いに出され、人間性を否定するような血なまぐさい出来事ばかり強調されたますが、現在以前で最も文化的な発展を見たといわれるローマの平和の時代は、賢帝により帝政でしたし、19世紀後半の「覇権なき時代」にも実質的に独裁者並みの権力を握ったビスマルクの巧みな外交により、ヨーロッパで戦火が避けられました。
そんなわけで、どのような政治体制が良いかというのは、そのときの国家の状況(領土拡大期、経済・技術の発展期、最盛期、衰退期など)によるでしょうし、その国家が抱える人口や人材にもよるでしょうし、国際社会の情勢や社会の発展速度などの環境要因にもよるという、結果論でしかわからないような身も蓋もない話だと思っています。
ちょっと関係ないことを書いてしまった。
衆愚の話に戻ると、要するに民主的であることは有効な時期や環境が限られていて、それが合わなくなった瞬間に衆愚にもなれば、悪さもするということです。
これを自由経済の話に置き換えても、消費者の自由な購買行動が市場・製品・サービス・文化などのすべてのよく働くことはあるが、それが起きる状況は限られていて、そんなスターモードは永遠に享受されるものではないのではないか、ということになります。
むしろ消費者が自由に購買行動をとる、その傾向が売り手に把握された途端、古代ギリシアのデマゴーゴスのように、売り手が消費者を扇動して購買行動をコントロールすることができてしまう。(何を誰にどう買わせるかによって悪にも善にもあることは無論。)
現代はマーケティングが学問としても成熟しているので、消費者は常にその迫る意図と闘いながら自分の消費行動を決定しなければなりません。しかしそれはなかなかに骨が折れることなので、ちょっと気を緩めると簡単に操られたとおりの消費行動を取ってしまいます。これが衆愚の状態です。
で、衆愚化した我々の個性や文化的背景を無視して、より幅広くのターゲットに購買を促せるほうが良いという考えが「最小公分母効果を狙う」ということです。
だから著者はここで、最小公分母効果と衆愚化を並べて論じているのではないでしょうか。
潜在的鑑賞者の数が多ければ、生産物の多様性が維持されるはずである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これがまさに上述した、東京と地方の多様性の差の原因でしょう。
大量の潜在的鑑賞者を持つ東京ではニッチなターゲット相手にも十分に商売が成り立ちます。
ちょいとマニアックなサービスや店、専門店なども大抵東京にあるので、僕も東京に住むようになってからは何かと便利さを感じています。
ある文化のコミュニティが発達すればするほど、その中で変なことをする輩で湧いて出てきて、彼らによりあらたな地平が開かれ、それ自体がサブジャンル化し、さらにコミュニティが深く大きく根を伸ばしていくというサイクルです。
それは学問の世界でも、地球に未開拓の地が多く残されていた時代の冒険の世界でも同じでしょう。
最近、中学以来あまり触れていなかった漫画やアニメを久しぶりに楽しむようになったのですが、その影響でオタク文化にかなり興味が出てきました。
とにかくその界隈には専門用語が多い。
消費者が何かしら自分に刺さったものに名前を付けて、そのラベルに群がった他の消費者たちが共感し、一大サブジャンルになって、本屋でコーナーになっているものなんかがたくさんあって面白いんです。
僕が中学生のころ(2010年前後)は「腐女子」とか「ショタ」というワードはちょいちょい聞きましたが、久しぶりに漫画を読んでいると「NTR」とか「百合」とか、まさに「初見殺し」のワードがわんさか出てきまして。(昔からあって僕が知らなかっただけかも。)
なんか最近の日本のポップカルチャーは「推し活」とかも定着してきましたし、ある種の偏執というか、変態性というか、そういうものがステータスみたいになっているように見えます。
みんなオタクになりたい、ちょっと変態でありたい、好きというからにはそのジャンルの必須科目は履修しておきたい、みたいな。
これはかなり多様性が増しているってことでしょうね。
ちょっと前までは「キモイ」と言われていた趣味趣向が、実は結構ありふれて共感されうるものだったということが明らかになり、そのキモさを含めて夢中に自分の趣味に生きる感じが、自由すぎて何をしていいかわからない僕たちの世代には刺さるのかもしれない。少なくともそのリベラル感を良しと捉える層が一定以上いる。かくいう僕もその口です。
逆に、他人の趣味をとやかく言うのが過剰に毛嫌いされているような気もするので、「とりあえず全肯定」が安全な態度だとみんなが発言に及び腰になってしまうと、文化の発達の下地になる健全な議論まで駆逐されてしまうのでは?という懸念はちょっとありますが。
まあ、とにかく日本のポップカルチャーを見てみても、消費者の数が増えたことで一気に多様化したことは明らかですね。
2010年代のアイドルとかも、僕は全然詳しくないのですが、めちゃくちゃに多様化してたんだろうなあ。じゃないとBABY METALみたいな「誰がどう見てもジャンルの地平を押し広げているようなアイドル」が出てくることはなかったのでは。
最小公分母効果は、他の文脈においても出現する。たとえば、多数の鑑賞者が、同一の製品を共同で消費したいと望んでいる場合がある。単に話のネタにするだけだとしても、他の人たちと同じスーパーボウルを観戦し、同じ映画スターを追っかけたいと望むファンは多い。より広い共同体に属しているという気分を味わいたいだけだとしても、(以下略)
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「同一の製品を共同で消費したい」
この感覚は特に上述のオタク文化の中でヒシヒシと感じます。
作品内のキャラクターにオタクが多い場合、メタ的なオタクネタが乱れ打ちされることがあり、その元ネタの出典はほとんど明記されません。
この手の作品は、そのジャンルの造詣が深いほど面白がれるポイントが多いはずなので、読んでいて何かのネタっぽいけどわからないなというときはちょっと悔しい。
有名なネットミームとか『HUNTER×HUNTER』ネタならわかるけど、『ジョジョ』や古い深夜アニメのネタはわからない。こうなると、「とりあえず『ジョジョ』くらい読んでおくか?」という気になります。
作品自体にももちろん関心はあるのですが、それをみんなと共有したいという欲求が第一動機になっているのです。
ぶっちゃけ僕は『鬼滅』はこのモチベーションで観ましたし、あそこまで映画の興行収入が伸びたのも、後半は作品自体の力以上に、この集団心理が後押ししたはずです。(そこまで持っていったのは作品の力であり、売り出した出版社や配給会社の努力であり、何よりファンの愛情です、もちろん。)
思えば小中学生のころの「昨日のテレビ見た?」「今週のジャンプ読んだ?」なんていう会話は、クラスや友達という自分よりも大きな共同体に属していることの確認だったのかもしれません。
その帰属意識は、人間に本能的な快感、それもゆったりとした安心感を伴う快感をもたらすのでしょう。
だって好きなバラエティ番組も漫画も、それ自体で楽しみだったけど、それを楽しんでいるとき「明日○○君とこの話しよう」って間違いなく思っていましたよ。
たまに一緒に話したいことがあった日に限って友達が休みだったりすると、「うわー、明日まであのシーンの話できないのかあ!」とか落ち込んでいた記憶さえあります。
共同体への帰属意識といえば、ナショナリズム(国民意識)がありますが、これの発達には言語の共有が大きな役割を果たしたらしいですね。
産業革命が起きて、都市化が進み、いろいろな地方の出身者がまじりあって生活するようになると、そこで仲良くなるのは同じ言語や同じ方言を話す人間同士です。
同じ言語を話す人間同士は、同じ物語、要するに歴史や神話、小説などを共有しています。別々の場所で別々の人生を生きていても、同じものを消費して生きてきている。
この「物語の共有」が、会ったこともない人に同族意識を感じるナショナリズムという不思議な心理作用の萌芽となったとか。
これを受けて、19世紀以降の国民国家では「国民文学 national literature」という概念が創始され、同じ古典文学を奉じることで同族意識を推進しようとするトップダウンの動きもありました。
ドイツならシラーやゲーテ、イタリアならダンテ、フランスならユーゴー、イギリスならシェイクスピアやディケンズなどが今でも国民文学という感じでしょうか?
日本なら、、、森鴎外、夏目漱石とかですか。
まあ「物語の共有」という話だと、もはや『となりのトトロ』とか『サザエさん』のほうが効果をあげているのでしょうね。
このフレーズ(最小公分母のこと)に潜む観念は、より肯定的な意味合いのある「普遍性(universality)」という概念に似ている。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
文化から固有の特性を排除した残りかすを最小公分母と呼び、種種雑多な文化の中からすべてが共通してもつ性質を砂漠から一粒のダイヤモンドを探すように見つけたものを普遍性と呼ぶ。という感じではないかと。
手に残るものは同じでも、それを抽出する過程が違うので、片や否定的、片や肯定的に響く。
消費者が時間と労力と注意を当該商品に集中させている限り、商品は集約的(intensive)である。反対に、消費者が一点に集中せず注意散漫になっている限り、消費は粗放的(extensive)である。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
消費の機会が増える速度は、消費に使える時間と注意の量が増える速度を上回る。どんなに技術が発達したところで、一日は二十四時間しかない。余暇が増え、寿命が延び、買い物が便利になれば、文化的な消費を行う時間は拡張されるが、それでも製品が増えるペースには追い付かない。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
「集約的(intensive)」「粗放的(extensive)」
この対立概念は非常に重要で、自分の消費活動を見つめなおすうえで有効な道具だと思います。
とにかく最近はサブスクや無料配信のおかげで一生かかっても消費しきれない娯楽の海で、僕たちは溺れています。
そうなると、流し見、ながら食べ、のような粗放的消費がどうしても増えてくる。
そもそも僕たちの注意をひきつけてやまない「スマホ」がえらく粗放的なアイテムです。TikTokもTouTubeのShortsもInstagramのストーリーも、数秒単位で区切れる娯楽が多い。
このような娯楽は、粗放的に消費されることを想定しているため、集約的に観るほど作りこまれていないものがほとんどです。
音楽や映像作品には膨大の労力と時間が注ぎ込まれ、集約的に消費をしたほうが絶対に楽しいし豊かではあるのですが、現代の環境が僕たちを粗放的消費に引きずり込むのです。
どちらも上述したことですが、ひとつに、供給される作品数が多すぎて集約的消費では間に合わない。ひとつに、みんなと同じものを消費したいという欲求のための消費しないといけないものが多い。
こんな状況なわけで、そりゃ映画やアニメなどの画面上に映るすべてと聴こえる音のすべての意味があるような、集約的に消費しようとすればキリがいないような文化でされ、倍速のながら視聴という超粗放的な形で消費されることになるわけですね。
サブスクや無料配信には功罪があるのでしょうが、罪のほうに注意を向けると、これは結構まずい状況な気がします。
従来はすべて作品自体にお金を払って楽しんでいてたので、みんなお金を払う時点で集約的に消費する心の準備が出来ていましたし、払った分は存分に楽しもうとしていたはずです。
しかし今では、僕たちに作品自体にお金を払っているという意識は薄く、作り手の意思に反して、配信プラットフォーム側も、契約させてしまえばOK、広告を再生させてしまえばOKという形になってしまっている。
果たしてこのような状況で、消費者の感覚は鈍っていく一方なのか、どこかで揺り戻しが起きるのか、芸術の質には悪影響を及ぼすので、それともむしろ潜在的消費者増加のおかげで多様性が増し進化していくのか。
どちらの未来予想図も描けてしまいますが、どうなっていくのでしょうか?
私たち全員が中華料理の味にうるさくなり、美味しい料理を区別できるようになれば、料理人は料理のレベルを上げざるを得ず、すべての消費者に利益がもたらされる。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
日本人が衛生にうるさい国民性を持つおかげが、日本の衛生観念は世界一と言っていいレベルで、実際に清潔な生活を送れるという利益が僕たちにもたらされている。(世界50か国以上、特に経済的に豊かな国が集まる地域はほとんど訪れてきたが、本当に日本がイチバン清潔だと思う。)
一方文化に目を向けると、日本はアニメにはうるさいし、早い安いうまいにもうるさいし、寿司にもうるさい。だから面白いアニメは多いし、牛丼そばコンビニ弁当などのご飯のクオリティがアホみたいに高いし、回転ずしでも笑顔がこぼれるくらい美味しい寿司が食べられる。(いや、違う。別に高い寿司を食べたことがないとかじゃない。小さな幸せへの感性というのをだね、、、あの、失わないように。)
韓国の人はポップスにうるさいのかな?フランス人はファッションにうるさい?
アメリカ人はテクノロジーにうるさくて、ブラジル人はサッカーにうるさい?
ペルシア(イラン)人は絨毯にうるさくて、ロシア人は文学にうるさい?
ド偏見ですが、各国のステレオタイプがステレオタイプになったのにはそれなりの所以があるはずで、そのような文化が発達した背景には、やはり国民全体の特定の文化に対する良い意味での「うるささ」があったのではないでしょうか。
そしてその「うるささ」が鳴りを潜めていくのであれば、その文化はきっとそれと共に衰退していくのでしょう。
最も洗練された消費者たちは、集約的消費と粗放的消費を結びつけている。多くの趣味人が自らの鑑識眼を持ち、正確な質の判断を行うことができるのは、彼らが他の製品に数多く触れてきたからである。モーツァルトしか聴いたことがな人は、モーツァルトをきちんと理解することができないだろう。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
この節は完全に同意したい。
やはり物事の質を判断するには、前提として圧倒的な量をこなすという過程は必要不可欠だと思います。
僕は完全に凝り性なので、あるジャンルにハマるとその界隈で言われている古典、名作、流行りもの、キワモノなどを漁り、サブジャンルがわかってきたらそれぞれのジャンルの中でさらに古典、名作、流行りもの、キワモノなどを漁り、、、というのを繰り返して、自分の脳内にそのジャンルの作品群を俯瞰できる概略図みたいなものを作りたくなります。
これをやると、作者や監督の相互の影響とか、実は原作が同じとか、この時期にはこういう作品が多いとか、何かと作品を楽しむうえでの面白がれる角度が増えて、豊かな消費体験になると信じています。
「信じている」というのは、やはりこれがある種の義務感と共に行われる過程であることに気付いているからです。
要するに僕はタイラー・コーエンの言う通りのことを考えていて、その「最も洗練された消費者」になりたいと思ってきたんだな、と。
よくあることですが、作品について感動するのは、自分の中にすでにあったけど言葉という形なっていなかった何かが、作品の中でその姿を現した瞬間なんですよね。(上述の「内面世界」についての言及で示した通り。)
結局、自分の知っていたことが書いてあると嬉しいという、なんだかみみっちい話です。
この節では、まさにタイラー・コーエンにそれをしてやられたという感じ。
ネット上のファンサイトの多くは、文化の創り手たちの追跡とモニタリングを行うものである。実質的な見返りがほとんどないにも関わらず、こうしたサイトが急増しているのは、自分の意見を表現し、それを他者に伝えるのが楽しいからだ。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
このブログでもたまにやっている書評や映画の感想もそれでしかない。
本当に楽しいですよね。好きな作品についてああだこうだ言い合うのって。
若い消費者の大半は、ほとんど狂信的ともいえるレベルで集約的消費を行っている。世界の文化を幅広く理解したい、などと考える若者は今日では少数派である。彼らが目指すのは、どちらかといえば、仲間内で人気のある比較的少数の文化製品について精通することである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
ここに関しては僕はどうかなと思っています。
著者が自分で「必修科目」と思っている作品や文化に現代の若者が興味がないから、そう見えるのでは?
むしろ一部の自分がオタクになれるものを超集約的に消費し、そのほかのなんとなくの流行りについては超粗放的に消費を行っているように見えます。
個人の中で消費活動が、2つの層に極化している。
アイドルには命をかける勢いで推し活をして狂信的な集約的消費をみせる少女が、音楽についてはYOASOBI、米津玄師、あいみょん、Official髭男dism、King Gnuなどのトップソングを聴き流すような粗放的消費に留まっているということはよくあることではないのでしょうか。
僕にとっては、むしろこれが典型的な現代の若者像な気がする。
ドルオタ友達の仲間内で楽しめるように最新情報までトラックし精通しておく一方で、それ以外のコミュニティや世間の流れから取り残されないように「みんなと同じものを消費したい」という自然な欲求があるはずで、そちらの粗放的消費へのモチベーションとして残っている。
この二極性は、きっとありますよ。現代の若者には。
むしろ中年以降のほうが、自分が若かったころに心ときめかせたもののストックで消費生活がまわってしまい、新しいものを「最近の○○は~」と拒絶するようになり、集約的消費一極化のリスクを抱えているように思います。
タコベルは、本物のメキシコ料理とはみなされていないが、出店した多くの共同体で選択肢と食の多様性を増やした。タコベルのおかげで多くの人たちが、もっと革新的なメキシコ料理も食べてみよう、と思うようになった。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
何を隠そう僕も、日本に中華料理屋さんがあったおかげで四川省まで麻婆豆腐を食べに行くことになったわけだし、ドミノピザとかでピザの概念を知っていたからナポリでピザを元祖を食らいたいと思ったわけですね。
貴族制は芸術家の自由にとってはプラスにならない。また、貴族のパトロンたちの好みは限られていた。その原因のひとつは、彼らがあまり多くの思想や様式に触れてこなかったことになる。つまり、彼らの消費には粗放性が不足している。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これ、すごく良い節じゃないですか。
仕事とは相手に求められることをすることであり、芸術家も仕事ではありますが、芸術家に限っては相手が求めてもいない変なものを作らないといけないんですよね。
『今日の芸術』で岡本太郎も書いていますが(超素晴らしい本です!!!)、初めて見る人がちょっとウゲってなるものこそが消費者の新しい扉を開き、芸術や精神性の新境地を開拓していくんですよね。
つまり求められることだけやっていてはいけない。それは芸術の発達にとっては悪なんでしょうね。
パトロンや広告主、表現に厳しすぎる世論などの利害関係者の顔色を窺わないといけないような環境で芸術的創作をさせることは誰にとってもプラスにはならない。
僕たち消費者もウゲって思うような変なものを見つけたら、反射的に突き放すのではなく「ほうほう、僕たちの粗放性を信じてくれたのだね。ちょっくら面白がってみようじゃないの。」とワクワク体験してみる姿勢を忘れないほうがいいのでしょう。
第6章 国民文化は重要なのか
異文化間交易は差異を一掃してしまうわけではなく、むしろ差異というものを場所の制約から解き放つ。エミール・デュルケムは、分業について論じた十九世紀の著作において、次のように述べている。「もちろん、種々の社会は以前よりも似てくるが、その社会を構成する個々人までもが似てくるということではない。もはや大きな地域ごとの差異は存在しない。しかし、ほぼ各個人ごとの差異は存在する。」皮肉なことに、それぞれの社会の類似性が高まることによって初めて、個々人の差異化が進むのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
『自殺論』のデュルケームが登場。
大学のころに概論だけ勉強しましたがいつか読みたいなあ。
ここで言っていることを理解するには、文化間の差異が減少して社会が均質化してくることで、差異があったときに有効だったステレオタイプが無効になると考えるとわかりやすい気がします。
日本は、ちょっと前まではよく、経済的に均質で貧富の差が少なく、1億総中流な国だと言われていたと思います。
今でも世界の比べれば貧富の差はかなり少ないでしょう。
相対的貧困や、目に見えないところで~という主張があることは知っていますし、それらの主張は正しく、改善されるべき問題を見える化することで社会を良い方向に導く言説だとも思います。
しかし、「相対的貧困」という概念も持ち出さないと日本には貧困があると言えなかったわけです。(「絶対的貧困」には社会階層として認知されるほどには存在しないということになっているはず。)目に見えるところには貧困があふれ出ていないわけです。
こう考えると、世界基準との比較ですが、日本には経済による社会階層が明確な形ではないといえます。(相対的貧困などの問題に目をつむっていて良いとは断じて言っていない。)
同じく身分制度もありません。
よって、はじめてあった人をそれらの属性で観ることはまずないと思います。
武家出身なのか、じゃあきっと○○な人だね、というステレオタイプが無効になっている。
しかし、時と場所を2世紀前のイギリスに移せば、そのような社会階級によるステレオタイプは有効だったわけです。言葉のアクセントも違ったし、バーの入り口さえ違うことがあった。
労働者階級なんだね、じゃあ○○だな。と。
良いか悪いか正しいか誤りかは別にして、このようなステレオタイプが存在していた。
が、社会階級のような「壁」が取り払われると、ステレオタイプは無効化される。
ステレオタイプが使えないとなると、僕たちは「その人」を見るしかありません。
または職業、出身、学歴、趣味、家族構成など、その人に付随する細かい属性を活用する。
(結局、次元を落としただけのステレオタイプじゃないかという感じですが、ステレオタイプというのは人間の判断基準のグラデーションのうっすい部分の呼び名であり、これをだんだん濃くしていくと、いずれは「判断」とか「信頼」とかと同じ意味になっていくのです。)
同じようなことが異文化間の均質化にも言えます。
アジア人は~、とか、ヨーロッパ人は~、とかいうステレオタイプが無効化されるほどに文化同士が溶けあっていく。
そういう状況では、きっと僕たちは目の前にいる「その人」自身を見るしかないのです。
ここに残った個々人の差異。
僕たちが互いに注意を向けるとき、自分より大きな「文化」とか「社会」という言葉に「個性を外注」できなくなった僕たちは、きっと自らの個性を差異化していく。
それぞれの集団に属している個人は、選択肢の幅が狭くなったとしても、それと引き換えに自分たちの特別な地位がさらに盤石なものになるのであれば、喜んで我慢するだろう。彼らが求めているのはアイデンティティであって、選択そのものではない。リバタリアンや世界市民主義者がこの話を聞いたら眉を顰めるかもしれないが、たいていの場合、適切な文化アイデンティティに必要なのは、何もかも自由に選べるわけではない、という状態である。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これって「不幸や苦しみをアイデンティティにする」精神構造と似ている気がします。
世の中不条理なことは起きますから、自分が他の人にない障害を持っていたり、苦労をしたり、不幸を被ったりということは、理由もなく起きます。
その障害や苦労や不幸が客観的な尺度でもやはり障害や苦労や不幸である場合も多い。
それらの問題を本人がどのように解釈し意味づけするかで、人生における影響はずいぶん変わると思います。
しかし、それらの問題がなくして自分の人格形成は語れないという程度に、人生に爪痕を残すことは多いでしょう。
そのような人の中には、それが単に人生における大きな過程であったにとどまらず、不幸や苦しみを自分のアイデンティティと紐づけるという答えを出す人もいます。
この場合、その問題に対するコメントが自分に対するコメントに思えたり、その問題を軽んじる発言によって自分が軽んじられていると感じたりします。
(この「捉え方」の問題はすべて本人がコントロールできるものでもないし、それ自体が良いことでも悪いことでもないと思います。)
不自由によって課せられた人生が、自分の人生になっていくという節はやはりある。
ここで語られているのは文化の文脈での同じことではないかと。
昭和の人間が、学生時代に好きな人と話すためにお互いに実家に電話して相手の両親に取り次ぎを頼むしかなかったことを懐かしむとか。
平成の人間が、学生時代に好きな人とメールをすると繋がっていく「Re:Re:Re:Re:Re:件名」を愛おしく感じ、ついついメールのセンター問い合わせをしっちゃったりしたのを青春と呼ぶとか。
スマホ社会の現代から見ればただの不自由な状態が、「我が青春」という時代への帰属意識を高めてくれる。
アイデンティティというのは、もしかするとそもそもがそのような制限を種として養われるものなのかもしれません。
これから消費する文化も毎日の食事も、仕事相手も、文化をまたいで自由になり、もしかしたら近い将来には言語の壁も取り払われるかもしれません。
そういう時代に僕たちを待つのは、もしかして、アイデンティティクライシス?
それはもう始まっているかも知れません。
ガンジーにしても、文化帝国主義そのものを問題視していたというよりは、自分のお気に入りの文化がイギリス文化によって駆逐されることに異を唱えていたのだ。イギリスからの輸入はインドの織物産業に損害をもたらす、というのがガンジーの主張だった。だが、インドの生産者たちが何世紀にもわたって実践してきたことが、一種の文化帝国主義に他ならない。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
これは新しい視点でした。
確かにガンジーはインドが被害者という文脈で活躍したから偉人ですが、自分のお気に入りの文化が破壊されていたからこそ洗練された思想だったのかも。
「反文化帝国主義」が先立っていたのならば、矛先に自分の祖国がなくても動いていたのかな。
実際、イギリスで繊維革命が起きる前はインドのキャラコをはじめとする織物がイギリスの市場を席巻していたと聞きます。
本当の意味の中立など、歴史認識のどこにも存在しないでしょうね。
あるとすればやはり、「いつ」「どこで」「何が」起きたかという記録だけでしょうか。
変に偏らないためにも、歴史の初歩を習う高校までは、退屈だろうが無機質だろうが年号と出来事を覚えていくという学習が基本であるべきな気がするなあ。
グローバリゼーションを巡る議論とは、実際には何を巡る議論だったのか。釣糸の一端にあるのは、グローバリゼーションによってもたらされれる、素晴らしく多様な選択肢である。もう一方の端にあるのは、特定の文化や社会が持つ価値観や、大勢の人それぞれの国家的・地域的・部族的アイデンティティに対する人間の関心である。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
グローバリゼーションは是か非かという文脈で語られることが多いと感じますが、やはりあらゆる物事には良い面と悪い面の両面があるという理からは逃れられないようで。
結局は多様な選択肢という個人が持つ自由と、その反対で個人の不自由を前提とした制限内でのアイデンティティや帰属意識を満たしたいという欲求が、お互いに引っ張り合っている状態ということでしょう。
確かにリベラルとコンサバの精神的な軸は、それぞれ、リベラルは「個人の自由」、コンサバは「集団への帰属」に置かれているように感じます。
両方とることはできないので、どちらがより優先されるべきか考えないといけない。
しかし両方とることは本当にできないのでしょうか?
上述したように、国や地域や文化への帰属意識が薄れ、アイデンティティクライシスに陥ったとしても、すでに「同じ文化や芸術を消費する仲間」という新しい形の帰属意識が芽生え始めています。
僕の好きなラッパーにShing02という方がいるのですが、この方の『400』という曲のリリックに以下のようなものがあります。
お互い分かち合うのは 同じ文化の違う世代よりも違う文化の同じ世代、そういう時代
『400』- Shing02
この曲、恐ろしいことに2002年発売のアルバムに収録されているんですよね・・・。
この先見性、さすがカリフォルニア大学バークレー校出身の才子。。。
ということで、すでに僕たちは20年前には「同じ文化や芸術を消費する仲間」というアイデンティティを獲得してもおかしくない状況にあったというわけで、さらに言えば、次の節。
つまり、単に人々が同意しうるものであれば、中身は何でも構わないのだ。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
そう、人々が同意するものならなんだっていいんですよ。
僕たちが「日本らしさ」とか「日本固有の」とか言っているモノ自体が大切なのではなく、僕たちがそれについて「日本のものとして同意している」状況のほうが大切なわけです。
上述しましたが、土着なんてものは歴史のある一点までにそこにあったものの呼び名に過ぎず、人間なんてみんな本当はアフリカ土着の生物で、日本なんかに住む僕たちは外来種に過ぎず、その僕たちが生産するものもすべてここの土着なんて本当の意味では言いようがない。
つまりグローバリゼーションによってアイデンティティが破壊されても、僕たちには別のものに同意を形成することでアイデンティティの鞍替えをすることが機能的には可能ということですね。
多様性という価値観の需要を拒む社会があったほうが、世界全体の多様性は向上する。そのような社会は、文化の外部にいるという地位を生かして、きわめて独自の創作物を生み出すからだ。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
そういえば、最近池袋を中心に「ガチ中華」なるものがバズワードになっていて、僕もよく本場の中国料理を食べに行くんですが、もはや局地的な異国なんですよね。
池袋は街を歩いていてもめちゃくちゃ中国語が聞こえます。英語よりも聞こえるかも。
で、この異国感というが生まれるのは、受け皿である「日本」が基本的に閉鎖的な文化を持っているからではないかと思うのです。中国人と日本人は人種的には近くても言語的には結構遠いですし。(ヨーロッパと北米、ヨーロッパと中東などと比べると、ね)
日本は別の文化の流入をどこかで拒んでいる。だからこそ、中国の文化が純粋に近い形で日本に残っているのではないでしょうか。
一方で日本人街やチャイナタウンが世界にたくさんあるのは、流入している側の文化、つまり日本文化と中国文化が、流入先の文化とまじりあいにくいからだと思います。
アメリカ人は世界中にいますが、アメリカ人街はありません。アメリカが各国からの移民が集まって成立して以来、世界からの断絶期間を経験せず現代まできた国なので、文化に弾性がない。よって適応力には優れるものの(というか世界の多くの場所にはアメリカ文化が染み入っているので適応すらしなくてもいいのかも)、外圧を跳ね返して独自性を保つ力や、外圧をガソリンにして文化を発展させるような気風は薄いのかもしれません。
そういえば、イランのイスファハーンにはアルメニア人街がありましたが、隣国同士も文化的に十分な差異があれば、このような現象も起きるのだなあと。日中も隣国ですし。
こういうことはフランスースペイン間やアメリカーカナダ間では起きないことですよね。
有効な多様性というものに焦点を当ててみると、世界市民主義はかなり分が良いように思われる。一四五〇年において世界がどれほど多様なものだったとしても、その多様性を認識したり享受したりできた人はほとんどいなかった。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
僕は世界市民主義者寄りの考えを持っているので、大変ありがたい。
生まれた国や人種で自分を誇ることはできないし、世界中にある芸術を楽しんだり料理を食べたりしたい。
どんなに日本に入ってくる中華やタコスが本物と違ったとしても、それで世界にある多様性を知るきっかけになるなら歓迎したい。
僕がそれをきっかけに四川省に行って麻婆豆腐や辣子鶏を食べたように、メキシコに行って本場のタコスを食べたように。
言葉についても、日本語や英語の音楽の詩には非常に感動的に僕の価値観や人格にまで影響したものがたくさんあります。
僕が言葉を味わえるほど理解できる言語がこの2つしかないということで、「実はペルシア語の詩に僕を救うものがあるのでは!?」「スワヒリ語の曲にめっちゃ共感できるものがあるのに知らないで死んでいくなんてどうしよう」などの矛先のわからぬ怒りに似た感情をよく抱きます。本当に不条理ですよねこれ。翻訳機じゃダメなんだよ、本当。
つまるところ、それぞれの社会の間の差異は、大抵の場合、特定の文化的標識に対する好みが存在するからこそ、価値を認められているに過ぎないのである。
『創造的破壊』タイラー・コーエン(作品社)
上述の節で著者がガンジーが陥っていたとする誤謬と同様の主張ですね。
ガンジーが反文化帝国主義に人生を賭したのはインド文化への愛着があったから。
同じく、現在のグローバリゼーションに反対する人々にも、グローバリゼーションによって自分のお気に入りの伝統や文化が脅かされているのが嫌だという気持ちが根底にあって、それを守るために都合の良い思想が反グローバリゼーションであり、反グローバリゼーションという思想自体や文化の多様性に価値があると錯覚しているのかもしれない。そうやって自分の思想を見なおす姿勢は必要でしょう。
著者が主張するように、本当の意味で「多様性」という概念を突き詰めると、グローバリゼーションによって僕たちがアクセスできる多様性は遥かに広がっており、均質化している世界も実はひとつ下のレイヤー(つまり各ジャンルの裾野)でさらなる多様性を押し広めているのですから。
ただ、反グローバリゼーションの唱える人々の中には、もちろん、自分が愛着を持っている文化以外の文化、要するに危機に瀕している他者の文化のために声をあげている方も多いです。この事実も忘れてはいけない。
「言論の自由」という概念を、自分が好きなことを言うために唱える人と、自分が気に食わない意見でも発言する権利は保障されるべきだと考えて唱える人がいるのと同じことです。
まとめ
大変勉強と考えるきっかけになりました。
ここまでの僕のコメントには、大いに主観が含まれていること、そして、この長いメモを書き記すうえで、厳密な調査を行ったものではないということにご留意ください。
これはあくまで僕が1冊の本を読みながら、自分の思考の出発点となるような節を取り出して、そこから考えたことを思考が泳ぐままに書き連ねたもので、いわば実験的な記事です。
大学の論文のために『創造的破壊』を読む方もいるかもしれません。もしググってこの記事が出てきた読んだということなら、面白がって読んでくれるのは嬉しいことですが、アカデミックな観点では何の参考にもならないので、ご理解ください。
では。