「何を言うか」と「誰が言うか」
これはもはや永遠のテーマかもしれません。
結論からいえば僕は
「何を言うか」のほうが大事だと思うのです。
「何が語られるか」というほうが適切か。
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「何を言うか」
「何を言うか」
すなわちこれは、語られる内容そのものに着眼する傾き。
真に意味を追い求めるのなら、命題を追い求めるなら、
言葉を追い求めるなら、正しさを追い求めるなら、
「何を言うか」は間違いなく「誰が言うか」に先立つ必要があります。
つまり、尊敬する上司に「誤魔化しはいけない、失敗でもいいからきちんと報告しないと大きな問題になってしまうし、自分の仕事がしづらくなるぞ」など言われて
「そうだよな、ちゃんと叱ってくれてありがたいな。気を付けよう」
と反省するその男は、スーパーの前などでたむろする常識知らずのアホガキたちに「お兄さん、今、空き缶のゴミ箱にティッシュ捨てたでしょ、ダメじゃ~ん、ルールは守んなきゃ!あはははははh」
と言われたとしても同じく
「そうだよな、ちゃんと指摘してくれてありがたいな。気を付けよう」
と反省するべきなのです。
要するに、
「お前に言われたくない」
とか言ってはいけないのです。
一方、大して鋭い発言でもないものが、有名人のものとなるとツイッターでバズったりもします。
そしてフォロワー20人の弱小アカウントが同じことを言っても、誰も歯牙にもかけないのです。
(面白いことでヘイト系の内容だと弱小アカの発言でもよくバズるのですが。)
※弱小アカウントという表現は修辞的なもので、フォロワーの数でアカウントの良し悪しを断じるものではありません。ただ「価値」という意味では、もはやSNS上でのフォロワーの数はそう呼べるひとつの体系になっているようではあります。
ハロー効果という有名な心理作用はご存知のかたも多いのではないでしょうか。
ひとつの顕著な要素が他の要素の判定に影響を及ぼすことです。
だらしなく太っているので仕事ができなそうとか、
とても可愛いひとだから綺麗好きなんだろうなとか、
ノーベル賞受賞者がいうなら本当なんだとか、
二重が好みだけど好きな人の一重は愛らしいとか、
そんな感じです。
人間にはこのような真実や公正から離れていく自然がたくさん備わっているので、「何を言うか」という語られた内容そのものを純粋に検討することができません。
「誰が言うか」
「誰が言うか」
すなわち、語られる内容に先立って、それを誰が言ったかに重きをおく姿勢。
この傾きは強力です。
ニートのおじさんに「努力することが大切だ」と言われてもなんと説得力もなく、湧き出る情感まさに凪ぎですが、これをエジソンとかイチローが言うと、せっせと出版社が本にするレベルの発言になります。
東京03のコントにもこれを主題にしたものがありました。
これは今も昔も変わらないものだと思いますが、この傾向は政治でも顕著です。
コロナウイルスが世界を巻き込んだ某春、極東に島国の政権は全世帯にマスクを配るという面白い試みを実施しました。
しかし、発注先が不透明だの、マスクにカビが生えていたから改宗するだの、世帯に2枚じゃ足りないだのそもそもサイズが小さいだの、配り終わる頃にはマスクの需要に生産が追いつき始め、普通にどこでも売ってるだの、いろいろ残念な感じになりました。
この政策が成功だったというのはいろいろごねても難しいと思いますが、それでも次のように反論する人がいます。
「いや、安倍総理だって何十日に休まず頑張ってるんだよ。配ってくれるだけありがとうでしょ。」
このようなすり替わりが僕たちの会話には溢れています。
政策が微妙だったということは、政権への評価であって総理の人格や頑張りとは関係ありません。
「何を言ったか」(何をやったか)に反対するべきところを「誰がやったら」にすり替えていけないのです。
また反対に、「何を言ったか」(何をやったか)に反対されているのに、「誰がやったか」に反対されていると思い込んでもいけません。
問題を切り分ける必要があります。
ということは以下の記事にもずいぶん書いたような。
政治も、政策や実績や政治的思想を踏まえて投票先を選ぶのが筋であって、候補者に対する人となりの好き嫌いで投票するようになっては民主主義はおしまいです。
人気者であることと、政治手腕にたけているということには、何の関係もないからです。
安倍政権がこれほど長期化すると、僕の周囲にも安倍総理の言うことにはなんでも賛成し、問題点には常に擁護する人と、安倍総理の言うことには何でも反対し、良い面についても歪んだかんぐりかたをして貶めようとする人がいます。
もはや彼が「何を言うか」には関心がないのでしょう。
「何をして」「何を言うか」
「何を言うか」を純粋に検討したいと感じつつ、やはり「誰が言うか」も発言の力や価値、信ぴょう性を支える大切な要素ということは否定できません。
形而上的は話をするなら「何を言うか」のみに限定して純然たる意味の会話ができるかもしれませんが、形而下にある実用社会では「誰が言うか」でごっそりフィルターをかけて意味をダイエットさせた上に、発言者の威光パウダーをふりふりするくらいでちょうどいいかもしれない。
が、やはり「誰が言うか」に依存しすぎる姿勢はくだらないし、誠実なものではないと思うのです。
この相克を超越していくためには、
聴くときには「何を言うか」(何が語られるか)
話すときには「誰が言うか」
に注目することがひとつの策になりそうです。
要するに、他者を尊重し、自己を疑う姿勢です。
自分に厳しく、他人に優しく。
よく「発言の自由」とか「信仰の自由」を
自分の自由を守るために主張する人がいますが
彼らが同じ権利を他者に認めるために
何度同じ言葉を叫んだことがあるのか疑問です。
本来このような権利は、自分のために主張されることよりも、他者のためにより多く主張されてこそ健康な社会と言えます。
(もちろん万人のための権利なので自分のために主張することもあってしかるべきですが。)
だから
聴くときに誰が言ったに関わらず、
一理あると思ったなら素直に取り入れていく姿勢を保つこと。
発言者しだいによって発言された内容に差別を与えていけません。
自分に言われた指摘に対して「お前が言うな」は無しです。
(ただ、自分のことを棚にあげてあなた以外の第三者や社会にいろいろ御託を並べるような人には「きみきみ、自分のことを考えなよ。」とやんわり伝えてあげることが大切なときもあるかもしれません。要するに「お前が言うな」です。いや、「お前が言うな」と思われちゃうからやめときな、ということ。)
そして
話すときには「誰が言うか」と自分に問います。
自分はその発言に見合う行動ができているか?
その発言から学ぶことがあるのは自分も同じじゃないか?
自分の意見や主張は、自分の信用度や実績からして十分な力を持ちうるか?
このような問いを重ねると結局は自分が
「何をするか」という第三の命題にぶつかります。
上述の、エジソンやイチローの言葉には力があるという話と重なりますが
ポイントは「誰が言うか」というよりは
「何をなしえてから言うか」だと思います。
つまりより強く結びつけるべきは
「人格」と「発言」ではなく
「行動」と「発言」なのです。
確かに人格なんて言うのは根無し草です。
自分でも自分のことがよくわからないし、
人格的に優れている人が信じられない過ちや罪を犯すこともあります。
それが本性の表れなのか、一瞬の迷いなのかすらわかりません。
善人が悪を演じて死んでいくこともでき
悪人が善の仮面をつけたまま生きていくこともできる世界です。
一方で、行動は常に真です。
否定できない事実の足跡を深々とつけていく。
何千キロも続いた事実の足跡の頂点に立って
「歩くのは素晴らしい」というのと
部屋から一歩も出ないで同じセリフを吐くのとでは
その響きは異なるはずです。
行動し、事実をつくること。
そうすることでしか
自分の言葉を強化していくことはできないのかもしれません。
同様に、他人の発言についても
発言者の後ろにどれだけ事実の足跡が続いているのか
という点が、その発言の力を決めている。
それはひとつの指標として
人格的な部分にのみ頼って「誰が言うか」と考えるよりも有効でしょう。
(もちろんハロー効果のような誤謬が常に僕たちの影に付きまとうことも忘れずに。英語が話せるからといって頭がいいわけではないのです。英語の足跡と知性の足跡は、別の向きに進んでいくものであることが多いですから。)
暫定的結論
聴くとき:
「何を言うか」は「誰が言うか」に先立つべきである
=発言の内容のみを検討するべし。
さらに発言の信ぴょう性などを検討する際には
発言者が「何をする(した)か」という行動に着眼する
話すとき:
「誰が言うか」と常に自己に問う
「何をして」「何を言うか」
行動と発言の相互作用を理解する