持論や考え

『不完全について』

この文章は、2016年12月、
スコットランドのカフェでひとり書いていたもの。

たった3年半前。

僕はずいぶん変わった気がする、

短い期間。多くを経験し、かけがえない人たちと出会った。
いろんなものを諦め、大切な人を失った。

僕は良くも悪くも大人になった。

クソくだらない大人になった。

そうでもしないと
誰かを守れるほど強く生きていける世の中の仕組みではないのかもしれない。

これはおそらく事実であり、確実な言い訳でもある。

だから、僕は以下の文章でさらけ出される、弱く、無知で、どうしようもないが、真っすぐに何かを見据え、戦おうとしている青年の自分を、一生この胸の中に飼い続けるのだ。

文章を書く理由は、それに時と場所を超える力があるから。
3年半前、冬のスコットランドの自分が叫んだ声は、これから何十年と続く僕の人生の内側で殻をかぶりながら反響し続ける。

いずれ形となって、誰かに届く日を待って。

『不完全について』

不完全なことが多すぎます。
なにが理想か、なにが幸せか、そのためにできることは何か。考えてきました。考えています。
あぁ、悩める若者みたいで気持ちが悪い。こういうことを発しても他の人には自分からとは全く違って見えることはわかっています。どんな風に見えるか想像できます。こんなちゃんと悩んでるぶって、それを見せつけてなんなんだ、って思う人もいます。僕は他の人のこんな文章を見たときそう思います。でも結局読むし、考える。僕は普段こういうことは絶対に公には吐き出しません。親友がいます。彼しか俺をしらないと言っても過言ではないかもしれない。が。たくさんの複雑な理由から、ここで吐き出してみることにしました。衝動的にではなく、意識的に。
いや、ここまででも自分が語る内容、語るという行為自体に対して張っている予防線の数に驚きます。いかに自分が臆病なのか。僕は元気です(キキか)。いつも通りです。つまり、いつもこんな感じです。ほんとは。いつも見せてる僕が嘘という意味ではなく。一応ね。
ストレートでくれば大学三年生でしょうか。就活ねぇ、就活。みんな活動を始めてるみたい、新しい世界を学び始めてるみたい。たまにFBの投稿とかみるけど、そんな内容のシェアとかも増えて来たみたい。大切なことです。自分の将来を見据えるべき時期、モラトリアムをどう終えるか、みんなが考えている時期。
しかし、そんな具体的で実際的な話は置いておいて、もっと抽象的でなんの役にも立たないことを話したい。今は。お金を集めて呼吸を続けるためには不必要で、生きていくためには必要なことを。

不完全なことが多すぎる、という個人的なお話。
例えば。
“どの”とはいいません。殺人事件の報道をなんでもいいので思いだしてほしいのです。そのとき、その報道を聞いたとき、
なにを感じましたか。
 どうして報道されるのでしょう。犯人は捕らえられ、被害者の身元も判明。他人である私たちの関与の余地はない。我々の知る権利とやらでしょうか。知る権利の出所はなんだ?過去にはその権利がもっと尊重されるべきだった時代もあった。今もある種の情報に関しては当然尊重されるべきです。しかし、”その”情報を知る「必要」はない。殺人事件の詳細など。どう殺された?加害者と被害者の関係は?目的は金か、怨恨か?そんなことって。権利をふりかざして知ることなのか?何百時間も考えたことです。注意喚起の意味もあるでしょう。犯された過ちから学ぼうとする姿勢もあるでしょう。わかってるんです。それでも、とにかく知る権利という言葉が「好奇心を満たすため」という真の隠された理由を水面下で正当化しているように感じる。報道マンになったことはない。真剣に、自分の道徳や正義に従って行動している人もたくさんいるでしょう。しかし、果敢に断言することにします。あえてね。「報道は(ほとんどの人にとって)エンターテインメントです」。報道を見ます。そして自分の心を見ます。そして気づきます。「俺は今、楽しんでいる観客だ。」心臓がえぐられる思いがします。自分の恐ろしさ、気持ち悪さ、えげつなさに。人が亡くなっていようが、自分には関係ない”チョーやば〜い!!こと”としかうつっていないんです。 最近盛んに報道される不倫騒動。みんな楽しんでますね。まぁそんなもんでしょう。それはそこまでシリアスなことではないかもしれない。まだゴシップネタとして楽しめるかもしれない。本人たち以外には。しかし、殺人事件の報道にも程度こそ違えど、どこか同じ種類の視線を向けていませんか。心の何処かにそんな部分がありませんか。ない、という方は嘘つきか、自分の心をみるのに慣れていないのかもしれない。 
だって殺人事件って報道され続けるじゃん。概ねいつも大々的に。なんでよ。
テレビ局や出版社は基本的に私企業だ。利益を求めるものだ。金、金、金。それを責めるつもりはない。本当に責められるべきは僕の魂であり、あなたの魂です。 殺人事件が盛んに報道されるのはおそらく、少なくとも主たる理由のひとつは、数字がとれるから。そして、数字がとれるということはその番組のスポンサーに対して、より高額な広告料を要求できる…ということになるのでしょうか。詳しくないが、まぁ、想像可能なシステム。 いかんせん悪いことにはなりえない。問いに戻ります。なぜ殺人事件は大々的に報道される?大々的に報道され続けるということは、その報道が数字を持っているということになる。数字を持っているということはトピックとして引きがあるということになる。引かれるのは私たち。つまり、私たちは殺人事件に関心が高い。みんなが犯罪学に関心があるのでしょうか。防犯についてそんなに真摯なんでしょうか。浮かび上がった問題点への対策に取り組みでも?少なくとも僕はそうではない。被害者のために祈ったり、日常生活でまで心を痛ませたりもしない。それでも私たちはテレビをつけてそれを見続ける。私たちがテレビを観るそもそもの理由ってなんでしたっけ。あぁ、娯楽だ。では、各種報道のあり方のほうが下品な週刊誌のあり方にまで堕落したのでしょうか。いや、私たちの心が堕落しているのでしょうね、初めから。なんて汚い。サスペンス映画やサイコスリラーを楽しむように、より現実的でえぐい実際の事件を楽しんでいるといっても過言ではない。僕は共感能力や善意が欠けた人間ではないことはわかっています。スリラー映画を観た後は夜道でビクビクするし、セルフィーも全然撮りません。それでもそう感じます。多くの人がこの論調に拒否反応を起こすかもしれない。でもね、言っておきたい。「これを口にしたことは俺の間違いかもしれないが、みんながこう考えて、これに意識的である方が、過激な意見かもしれないが、より安全です。」自分が善だと信じて行動した結果の悪ほど厄介なものはない。自分なんてクズだと知っておくことで、打てる対策はあります。対策を上手に打てたり、うまく自分を断罪して悩めたことを誇りしていく方がよっぽど安全でしょう。今この発言でしようとしていることは、「小さな間違いを犯してでも巨大な間違いを変える」ということです。
マスコミは化け物です。でもマスコミを化け物に仕立て上げ、そうあり続けさせているのは私たちの内面だということを意識するべきだと思います。化け物の巣は私たちの内面にあるのです。そこから羽ばたいて公共に飛び出たもののひとつがマスコミ。マスコミを擁護はしませんし、責めもしません。報道の話はただの例にすぎません。例えば。 とはじめにいいましたね。その例用いて伝えたかったことは、
私たちの不完全さ。
悲しいくらい正しくないことがまかり通っている。これはたったひとつの例。みんなが「それは良くないよ」ってわかっていることなのに、消えてなくならないことっていろいろ思いつきます。原因はわかりきっていて、一人一人の無意識にある些細な怠慢。悪、と呼ぼうか、臆せずに。
無意識の認知。これがもっと重く捉えられるべきこと。無意識の部分を意識的に認知する。さらに、意識をさらなる高次元で意識的に認知する。メタ意識とかメタ認知とかいうのかな?(なんか覚えたてのかっこいいカタカナは使いたくなりますよね。)

例えば、今もらったビニール袋の消費は必要だったでしょうか。
別になくてもなんとかなりましたよね。
あなたにとっては不必要。しかしそのビニールの生産過程に携わる仕事の方々には必要な消費だった。その人には家族がいるだろうし、その中には教育や医療機関を必要とする子どもがいるかもしれない。
そしてそのゴミ箱に捨てられた一枚のビニール袋がわずかに地球を破壊した。燃やされることで出たダイオキシンがわずかに地球の体温を上げて、流氷が各地で溶けはじめる。そのせいでヴェネツィアの水没見込みが微かに早まったかもしれない。ホッキョクグマは居場所を失ったかもしれない。ホッキョクグマを観に行くカナダのツアー会社のガイドはそのせいで仕事が減るのかもしれない。 そしてその人にも子どもがいるのだろう。ビニール袋を埋め立てる土地を切り開くために何ヘクタールかの森林が切り崩されたかもしれず、有効利用の名の下にそれらの木が製紙工場に届けられたかもしれない。そしてその紙が、俺が今イートインで食べたマクドナルドの、紙で包まれる必要なんて全くなかったチーズバーガーを包んでいて、俺は、なんの意味もなく、無意識に、習慣として、その包み紙を開いてゴミ箱に捨てたのかもしれない。資本主義と不健康、そして好都合な省略の化身であるハンバーガーを食うために。こうして無事資本主義の社会に貢献にした俺のおかげもあってか、経済は周り、文明は成長するが、より早く成長しているのは「資本主義の価値観」。それに毒された私たちは 本当の幸せを蔑ろにし、何がしたいかを忘れ、愛を忘れ、お金にハグしながら、例えば忙しい日々の中で会社の昼休みにファストフードを食べるのです。あなたがフライドチキンを食べるとき、鶏たちの断末魔は聞こえないし、彼らの脛骨が折られる音と振動を感じることはありません。
お金は間違いなく必要です。お金がない、ただそれだけのせいで地獄を見ている人たちが大勢います。そしてたくさん稼ぐのは大変です。
しかし誰がなんと言おうと、お金は重要なものではありません。幸福を感じるためには。
そして幸福を追求する基盤として最低限の物的条件を満たすために必要なお金は、思ってるほど多くはないはずです。
日本という裕福な国に生まれ、素晴らしく恵まれた家庭で育ち、本当お金で苦労したことはない、ビニールハウスの中から叫びは荒野で野ざらしで転がっている心には全く意味をなさないでしょう。
(ビニール袋の話題を出したあとに、自分がビニールハウスの中にいることを途中で言及するなんて、なんだか詩的。) 
それでも自分なりにここ20ヶ月ほど、ひどく生温い程度ではありますが、様々なものを切り詰めて生きてみたところ、物的欲求の満足度は大きく下がったものの、生活の幸福度は大きく増したと思います。何かを追いかけて生きたり、好きな人と一緒にいたり、自分に自信を持ったりすることのほうが、普遍的で強力な幸せの種だということは、本当は誰でもわかりきっていること。そしてそれらは目には見えないから、資本主義が作り出す、そのほかの社会の目に見えるシステムが作り出す、瞬間的で脆い幸せのデリカテッセンに容易くかき消されてしまう。
これが 人間の欲を前提としてそれを利用することで巨大化した資本主義社会が背負う十字架です。報道の例も発端は同じく、私たちの汚さ、そしてお金でしたね。かつて北方で理想のように響いた社会主義設立の鐘は、人間の汚さによってかき消されました。しかし、資本主義においてもその十字架を忘れていては、世界経済は空回りを続ける気がします。そして人は愛を、夢を、さらには自分を、いとも簡単に失い続け得ると思います。
ビニール袋一枚を取り巻く世界。資本主義の陰。
これらもまた僕が常に感じている不完全の例。

みんなが同じようなことをどこかで感じることがあるかもしれない。例えば、コンビニの廃棄がもったいないとか、ボランティアは偽善かとか。
それでも世界が完全になれないのは私たちがそもそも不完全で、精神や感情なんて非論理的に動くからに他ならないし、
世界は今 その不完全さに依拠した形で動いているから。ひとりが行動しても何も変わらないし、みんなで同意をとって全員がそれに基づいて動くことができないことをわかっているから(京都議定書のような具体的かつ大々的なものすら遂行できていないわで)。そして私たちはある一定以上に満たされるとあまり考えなくなるから。

不完全なことが多すぎます。
多すぎると言ったのは多すぎるからです。ひとつやふたつなら考えて、悩んで、行動して、闘い続ける事も不可能ではないかもしれない。しかしそれはあまりに多くて、全部に精神を割いていたら壊れることが目に見えていて、気がついたら闘うことをやめていました。
世界に負けました。
でも負けがわかってる試合で、どこまで闘えるかが勝負なのではないのか。精神は屈せずに生きて貫いたら、勝った気分で死ねる気がします。
いつ死ぬか誰にもわからないので、一瞬一瞬にかかっているなんてことはいいつくされているし、そんな常に全力で生きることなんて僕には出来ません。そもそも走る方向すらまだわかっていない。
そのなかで唯一全力を注げてきて、ある程度身を結んでいて、誇れるものは、何人かの友達。彼らとの友情関係。そして両親。
今まで生きてきて唯一の自慢は彼らであり、唯一の成果でもある。感謝を言葉で伝えるのは簡単すぎるし、ひけらかすものでもないのでここでは控えますが。

ふぅ。自分のことでも何か全力になって世界に勝てたらいいんだけど。何をするんだろうか。これから。

不完全なことが多すぎる。これは考えてることのほんの一部。この世の中で最も不完全なもののひとつである「言葉」について全く触れていないし、頭で触れた「就活」というものへの漠然とした疑いも残っている。いくつかの不完全な思考法についても文にできるほど考えがまとまっていない。
ある程度 考えが整理できている事柄について散文を書いたけれどいろんなことに思考が飛ぶ回るのにあえて抵抗せずに書き連ねました。変にひとつの視点にまとめたら真実や伝えたいことからズレるからです。わかりやすいように書いたつもりは全くありません。だから、もしこの文の内容がスッと入ってきた人がいれば、それは同じようなことを考えたことがあるということか、無意識にそれをわかっているということだと思います。是非、一緒にカプチーノでも飲みましょう。世界という言葉を、そんなに壮大なものだととらえる必要なんてないですよね。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。