持論や考え

【「意見」の正体】その9割は「自分を認めてほしい」という気持ちで出来ている

「意見」が多いと感じませんか?

これを書いているのは、コロナウイルスで世界が大混乱に陥り始めたちょうどその時です。世界中がパニックになりつつあります。

注意喚起をする人もいれば、感染を広げてしまうような行動をとった人を人格否定して叩く人もいます。
頑張ってくれている医療従事者や物流、生活必需品店の方に感謝を伝えている人もいれば、政府の対応に文句をいっている人もいます。

とにかく「意見」であふれているのです。

こんなときにこそネット上を中心に氾濫する「意見」というもの正体についてじっくり考えてみました。

長くなりますが、ひとりでもこれを読んで
意見というものについて、そして人間というものについて、
考えるきっかけになれば嬉しく思います。

ではいきます。

「意見」の住処としてのインターネット

意見を発しているのは人間です。
意見について考察するには、人間が置かれた状況について、一般化したレベルでいいので、まずは把握しなければならないでしょう。

現代、僕たちの意見の住処となっているのは間違いなくインターネットです。
この発明は僕たちにどんな影響を及ぼし、その影響で僕たちはどう変わったのでしょうか。

スマホの登場で以来、インターネットが完全に日常生活に浸透しました。
誰もが自分で情報を集め、自分で考えたことを発信できる、夢のような時代が来たのです。

これは100年前の世界からは想像ができないほどの大変革です。
これによって歴史上ほとんどスポットライトを浴びることになかった「個人の声」がついに日の目を見るようになりました。

現代になってようやく確立された個人主義と民主主義の思想ともマッチするこのテクノロジーは、わずか十数年で僕たちの生活にはなくてはならないものになったのです。

しかし、世の中が圧倒的に便利になり、新しい価値観が生まれている反面、
スマホやインターネットというテクノロジーは新たな弊害を生み出しているということも、もはや広く認知されています。

ネット上での炎上、デマやフェイクニュース、匿名性を利用した誹謗中傷など。
テクノロジーに罪はないですが、僕たち人間は歴史の中で、新しい発明のたびに繰り返し同じ言葉で問われてきました。

「その発明をどう使うのか。」

青銅、鉄、印刷、銃、機械生産、飛行機、原子力。
どれも世界を揺るがして、一変させてきた発明です。

これらの発明は、人を傷つけたり屈服させたりすることに使われていた一方で、生活水準の向上や平和の実現にも多大な貢献をしてきました。

インターネットの発明や、どこからもインターネットへの接続を可能にしたスマホの普及は、これらの発明の多くを上回るであろう大発明です。

これらの技術はまだまだ発明されて数十年の黎明期にあります。
そして今後の数十年で一定の高みをみるころには、世界は全く違う常識と価値観の包まれていることは間違いありません。

そしてすでにもう
「僕たち個人の意見は発信していいもので、それにも確かに価値はある」という常識が浸透しました。
しかしこの新しい価値観のおかげで、人は他者の視点を内面化しすぎ自分が本当はどうありたいかを見失ったり、ネットの世界からの反応がないと物足りなく感じたりいう、現代病の原因となる心理状態が僕たちの中に生まれてしまいました。

現在ネット上に文字通り数え切れないほど氾濫している「意見」について考えるには、まずこの前提を理解する必要があります。

意見を持つということ

次に意見を持つということについて一般的に考えます。

まず前提として、意見を持つというのは、推奨されるべきことです。

資本主義黎明期には労働者は工場の機械と同じでしたから、意見など持たず、個性など持たず、画一的な思想に押し込まれ。従順に他の人たち同じように働くことが求められました。

良い悪いはともかく、それが最も生産性をあげ、資本を最大化するために効率が良かったのです。
これはモノの生産だけではなく、軍隊においても同様でした。

だからこそ学校教育も画一的に人間を育てるべく設計されたという側面もあります。

(この時期には国民国家が初めて生まれてきた時期でもあるので、国民教育をすることで国家運営のベースとなる価値観を植え付ける必要もありました。また、啓蒙思想もとうに成熟していたので、決してすべてが国家の利益を生むマシーンを作るための教育だったというわけではないでしょうけど。)

しかし現在では、そのような画一的な業務の多くは機械の進歩によって代替自動化されました。
人間は、知能を使った計算作業や、機械にできない繊細な作業というより高いレベルのハードスキルや、対人コミュニケーション・チームマネジメントなどのソフトスキルを中心に担うようになっています。

(だからこそ、その時代にあった教育システムに変えるべきだという議論も活発ですが。)

まあ、これも多くがロボティクス技術の進歩とAIの発達によって近い将来には代替されるようになるでしょう。
人間が担うのはやはり、対人的で人の「心」に近い部分と、創造的な能力になるんだろうと思います。

ちょっと話がそれましたが、
要するに「個人の意見はいらない、言われたことをやれ」という時代はとっくに過ぎ去っているのです。

むしろ今は、第二次大戦が終わり、冷戦が終わり、
民主主義が多く国家で採用されていますから、
個々人の意見にすべてがゆだねられているといえます。

税金を払っているとはいえ、国家が提供するインフラやサービスを享受する以上は
自分で情報を集めて、考えて、意見を持ち、表明するという行為は、もはや個人の義務と言っても良いでしょう。

民主主義とは、政治の主体がこれを適切にできるということを前提にしているからです。
だからこそ国民がこの義務を怠り、民主主義が機能しなくなった時には、賢人による独裁のほうがよっぽどマシに機能するということになるのです。

実際に古代ローマでは衆愚化した民主政を捨てて、帝政が採用されました。

(余談ですが、古代ローマでは民主政においても有事の際には期間限定で独裁を認めるシステムがありました。素早い決断が必要な時には民主政よりも独裁政のほうが好ましいということはよくあります。独裁という聞いた瞬間にヒトラー・スターリン・毛沢東・金正恩の四天王を思い出して、反射的に「独裁、ダメ絶対。」となるのは客観性に欠けると思います。)

現代世界の民主政は正しい「意見のプロセス」に裏打ちされているといえるでしょうか。
個々人は主権者といてしっかりと自分の意見を持てているでしょうか。
社会全体の最適化と、自己都合の主張を、きちんと分けて考えられているでしょうか。

僕はもはやこれは全くできていないのではないかと思います。
だからといって独裁政にすべきだと言っているわけでもありません。
民主政の最適化のために、きちんと個々人が「意見」について考える必要があると思うのです。

もちろん政治の主体は僕たち国民で、それぞれ異なる環境で生きているわけですし、事情も異なります。
だから、自己都合の主張をすることを控える必要はありません。
むしろ自己都合の主張はできるだけするべきです。
どんな人間も他人の状況を想像するだけで理解することは出来ませんから、言わないと伝わりません。

そのような本来聞くことを出来ない声を聞くためにインターネットが使われるのなら、それは理想的なことです。
そしてそのようなプロセスこそが、民主政というシステムがよりどころにしている前提そのものです。

しかし同時に僕たちは、社会全体の最適化という視点をもって意見を語ることも忘れてはいけません。
自己都合と社会全体の都合が衝突するのであれば、これこそ相手や社会を尊重する気持ちをもって話し合い、妥協点を見つけることです。
この作業こそが、そもそも「政治」という言葉が意味するもののはずです。

ですから意見を持つこと自体は推奨されるべきです。
そしてそれは発信されるべきです。

しかしそこには前提として、
思考検討が十分に慣れた意見が必要であり、
理解するべき政治の目標と、身に着けるべき適切な態度があります。

粗野に言いたいこと叫んでいることは「意見を持つ」の本来の姿ではないのです。

僕たちがインターネットで見る「意見」の多くは
匿名性という批判からの隠れ蓑を利用した表面的な感情に過ぎません。
もちろん「意見」も玉石混淆ですが
思考に裏打ちされた玉の意見は、波のように投稿される石の意見に飲み込まれ、流されてしまうことが多いです。

先ほども書きましたが、その中には
誹謗中傷、正義気取りの悪者叩き、デマ、フェイクニュースなども溢れています。

こうした石の意見に「そういう意見は控えなさい」と誰かが言おうものなら
「思想の自由」「発言の自由」という高尚なワードの上辺だけ切り取って応戦されるのがオチでしょう。

このような人類の思想的発明の成立背景や歴史的な積み上げを理解せずに、自分の意見を守る盾として振りかざすのは、あまり賢明な態度ではありません。

「思想の自由」「発言の自由」は
「他人を尊重する」ために使うのが元々であって、自己防衛の名の下に自分の意見を乱暴に押し通すために使うものではないからです。

なぜ人は意見を述べるのか

では、なぜ人は意見を述べるのか
という点に話を進めます。

ここまで説明したとおり、現代人は意見を述べますが、その意見は本来あるべき姿の意見ではありません。

共同して社会を改善していこうという意志がそこにないからです。

では、それ以外にどんな動機で人は意見を述べているというのでしょう。

これは僕の考えですが
人がネット上で意見を述べる動機の9割は、「自分を認めてほしい」という気持ちだと思います。

9割という数字は、自分が何か意見を投稿するときに自分の心の正体をじっくり観察した経験と、SNSを中心としたネット上の意見やコメントの考察からの感覚値です。

「自分を認めてほしい」という気持ちは、自己肯定感の低さからきます。

もちろん誰もが「自分を認めてほしい」という気持ちを持っています。
人間が個体である以上、本質的に孤独ですから
愛し愛されたいという気持ちも、何かを叶えたり成功したりして称賛されたいという気持ちも、性的な欲求をもとに誰かとつながりたいという気持ちも、自分の考えや感情を理解してほしいという気持ちも、この本質的な孤独を克服するための戦いです。

これの孤独との戦いという解釈は、心理学者のエーリッヒ・フロムが著書で詳しく解説しています。

フロムによると、この本質的な孤独を克服する方法は「愛する能力を習得すること」しかないということです。
この考えに僕は同意します。詳しくは本を読んでいただくしかありませんが。

一方で、孤独をごまかす方法というのはたくさん存在します。
互いに正面をきって対話をするわけでもなく友人と遊び歩いたり、恋という一時的な情熱に身を任せてセックスをしたりすることが、世の中で「愛情」と勘違いされている誤魔化しだとフロムは看破します。

そして誤魔化しがもっとひどいものになると、心理的な結びつきのない場当たり的なセックスや、他人を傷つけて自分の支配領域に相手を取り込もうとする行為などに発展してしまうということです。

よく「人の批判ばかりしている人は自分に自信がない人だ」という主張を聞きますが、
この主張には、僕がここまで書いてきた内容との整合性があります。

話を「意見」についてに戻しますが
僕たちが顔も名前も知らない大衆がうごめくネットの世界で、自分の意見を投げかけるのは何故でしょう。

この行動を通して、自分への注目を確認したいのです。
自分のことを正しいと言ってほしいのです。賛同してほしいのです。
褒めてほしいのです。
あなたが正しいよ、と認めてほしいのです。

もちろんこの感情がすべてではありませんが、
現代人のネットへの意見発信は根本的にこの動機に支えられていると思うのです。

だからみんな正しいことを言いたくてたまらず
少しでも間違ったところがある主張には攻撃せずにはいられないのです。

TwitterやYouTubeのコメント欄を一度でも見たことがある人なら
この手のやり取りが溢れていることを知っているはずです。

彼らは自己肯定感が低いので
他人の間違いを指摘して、正しいらしいことを言うことで
自分の存在を担保しようとしているのだと思います。

ではどうしてそんな不健康な精神状態が蔓延しているというのでしょう。
この原因も、すべてではありませんが、やはりインターネットに求めることができます。

キーワードは「比較」です。

ネットの世界にあるものは
現実を恣意的にゆがめられたものに過ぎません。

よく映画の予告を観るととても面白そうなのに
実際に観に行ってみたら期待と違ったということがあります。

予告というのは映画のド派手なシーンや緊張が高まるシーン、美しい愛や自然のシーンなど切り取って作るものです。それらが素晴らしいのは事実ですが、映画のすべてがそれで埋め尽くされているわけではありません。
あくまでもっとも人の興味を引きやすい上澄みの部分の寄せ集めです。

しかも予告編ではこれらに編集のカットや音楽や文字を入れて
ドキドキやワクワクを引き立てます。
面白うそうに作り上げているのだから、面白そうで当然です。

ネット上の情報も同じです。
自分の楽しい出来事や悲しい出来事など、感情が特に動いたり、特に美味しいものとか綺麗なものを体験したりしたところだけを切り取るのがSNSです。

ニュースや情報も同じで
特に人の注意を引く部分だけ寄せ集めています。
メディアも個人も、動機は何であれ、欲しいものは「注目」です。

そして注目した側の人たちは、
映画予告のように歪められた仮の現実と、自分の100%のありのままの現実を「比較」してしまいます。

編集済の写真と、未編集の写真を比べたら
未編集のほうが見劣りするのは道理です。

このような「アンバランスな透明性」によって
現代人は自分と他人を比較し
自己肯定感を失っているように思います。

結果として、失った自己肯定感を同じ土俵で取り戻そうとした結果
自分を編集してネット上でアピールするようになります。
しかしこのような比較をベースとした他人軸の自己肯定感の追求では
問題の根本解決にはなりません。

たとえうまくやったとしても
他人に認めてもらえる仮の自分像を一生維持していかなければならないので窮屈です。
承認してくれる他人の期待にこたえられなくなったら、彼らは離れて行ってしまうからです。

ここまで書いたような自己肯定感の希求と他人からのプレッシャーに苦しむ現代人は、意見を発するときにも無意識にこの呪縛に囚われています。

何か正しいこと言おう
悪を暴いてやろう
鋭い指摘をしてみよう

などという願望が透けてみえる意見がなんと多いことでしょう。

もちろんこのような感情をゼロにして意見を言うのは至難の業です。
繰り返しているとおり、認められたいという欲求は自然なものなので
完全に抑圧する必要はない
と思います。

それでも何かを意見するときに
自分の動機の中で「認めてほしい」という気持ちがどれくらいあるのか
観察する姿勢が求められます。

この文章を書いている僕の中にも
もちろん「認めてほしい」という気持ちがあります。
誰も読まないとわかっていればこんな文章を書くはずがありません。
しかしその中で「認めてほしい」という気持ちと
「大切なことだと思うから発信するべきだ」という「意見」のあるべき姿の割合を比べて、後者が上回っていると判断したから発信をしているのです。

もし前者が上回っている状態で、
かつ内容に十分な思考検討ができていないのであれば
沈黙を守る勇気を持つべきなのです。

賢い人のふるまい

話を広げ過ぎた感がありますが…続けます。

「意見」の最も愚かな形態は
思考検討のない表面的な知識に基づいていて、「自分を認めてほしい」という気持ちを観察する過程を経ていない発信で、さらにわざとトゲのある言葉を使う・悪を祭りあげるための歪んだ義憤や正義の快感を伴う・他人を貶める、などの性質が認められるものです。

このような「意見」にはいいねという形で
賛同や共感が集まりやすいです。

発信者と同じように自己肯定感の低い人間が多いからです。
もしくは炎上して多く人の注目を集めることもあります。

また、他人の欠点を指摘することで
相対的に自分の賢さを示すという戦略もあります。

そうすると発信者はネットの反応を根拠に
「自分は賢い」「自分は正しい」
「自分は影響力がある」「自分は鋭い」
「自分は優れているほうだ」
という、つかの間の安心感や高揚感を得られるのです。

フロムのいう孤独の誤魔化しです。

しかし本当に賢い人がこんなことをして喜ぶでしょうか。


答えがNOであることは冷静に考えれば誰でもわかります。

賢く知性的な姿勢というのは
欠点を見つける洞察力を自分に向けることです。

洞察力は自分に向けてこそ真価を発揮し、それが自己の改善へとつながるのです。
社会を構成する個々人それぞれが自己観察と自己改善を繰り返せば、社会全体がよくなっていくことも自明に思われます。

さらに賢いというのは、完璧な人間などいないということをよく理解していることです。
完璧な人間がいないということはつまり、どんな人間にも欠点があるということです。

選りすぐりのエリートで構成された政治家や官僚でも、腐敗や国策のミスだらけ。
世界中から気鋭が集うグローバル企業のプロジェクトも山のような失敗を積み上げてようやくひとつの成功を生み出します。

つまり
他人の欠点を指摘するだけなら実に簡単で誰にでもできることなのです。
それをやったところで自分の能力の証明にはなりません。

賢い人ほどこれを理解し、行動にも反映させます。

では賢さとはなんなのでしょう。

賢さとは、むしろ
他人の中に、自分が取り入れるべき美徳を見つけることに価値をおくことです。
知的謙虚さとも呼ばれる姿勢です。

自己肯定感が高いからこそ、自己分析に耐えられます。
自己肯定感が高いからこそ、他人を認められます。
他人を認めれば、比較をしなくてよいのです。
むしろ他人から多くを学び、さらに自己改善していきます。
すると、自己肯定感はさらにあがります。
このような人間には、認めてくれる他人が自ずと集まってきます。

本当の賢さは、「意見」の殻をかぶった
他者批判や承認欲求のいたずらな解放を慎むのです。

「意見の正しさ」と「意見の動機」を区別する

愚かな「意見」と賢いふるまいについて書きましたが
この世に「愚かな人間」と「賢い人間」がいるわけではありません。

全員がその間で揺れ動いています。
気分や虫の居所によって同じ人間が愚かな意見と賢いふるまいの両方をとることも大いにあります。
むしろそのほうが普通だと思います。

ある人間が「意見」を発したとして
そのときに発信者と受信者の両方がするべきことは

「意見の正しさ」と「意見の動機」を区別することです。

「何を言うかよりも誰が言うかが大切である」
これは残念ながら真実です。

しかし発言の内容に本当に価値があるならば
本来は誰が言ったかは関係がないはずです。

「お前に言われたくない」
「あの人が言うなら本当だ」

このような気持ちはあくまで感情の問題です。
好きな気持ちを伝えたり、励ましたり、怒りを表したりといった
感情のやり取りをしているときにはこのような発言も有効でしょう。
問題は感情にあるのですから。

しかし、情報や考えなど、
理性のやり取りをしているときには
このような感情は押しとどめるべきです。

もちろん状況によっては「お前が言うな」という気持ちが湧くことはあるかも知れません。しかし、理性のやり取りではその気持ちを問題から分離して「意見の正しさ」を検討する姿勢が求められます。

誰が言おうと、価値がある情報には価値があり、学ぶべき考えは学ぶべきです。

例えば、子どもに「バカって言っちゃいけないんだよ」などの正しい指摘を受けたとき、「大人」をふりかざしてやり込めてしまうような場面はよくあると思います。

もし同じ指摘を上司にされたら?
「他人に対するネガティブは発言は控えなさい。」

この2つの場面で、伝えられる情報の価値は同じです。
言葉の裏の深さに違いを求めるのは勝手ですが、それはあくまで言われた側が発言者の人柄や肩書と結びつけて創る想像でしかありません。
上司に言われて「そうだ、〇〇さんが言うなら気を付けなくちゃ」と思えるのなら、子どもに言われたときにも同じ想像力を働かればいいのですから。

ということで、まずは「意見の正しさ」を素直に検討することが大切です。

そして「意見の正しさ」とは切り分けた問題として
「意見の動機」を検討します。

「バカって言っちゃいけないんだよ」は
ちょうどその日に小学校で先生が言っていた言葉なのかもしれません。
それとも大人同士の会話が続いているのが寂しいので
自分に注意を引くために行ったのかもしれません。
もしくはその子はバカと言われて傷ついたことがあるので
バカという言葉は言わないべきだと考えているのかもしれません。

これがどの動機であれ
「意見の正しさ」の問題とは分離して考えることです。

「意見の正しさ」を検討することは
相手の言葉を真摯に聴くことであり

「意見の動機」を検討することは
相手の気持ちや立場を想像することです。

どちらも大切な姿勢だと思います。
この二つを混ぜこぜにしてしまうと
論点がずれたまま話が進んでいってしまいます。

実はこの話を他人の発言ではなく
自分の発言に対して当てはめると
先ほど上述した内容と同じになります。

つまり、発言をときに
上で民主政の理想形の話でも触れたような
「思考に裏打ちされた玉の意見」だから伝えたいと思っているのか
孤独から逃れる誤魔化しとして自分を認めてもらうために言う意見なのか
という検討です。

「意見の正しさ」に着目すれば
それは「どれくらい輝きのある玉の意見か」の検討であり

「意見の動機」に着目すれば
それは「自分を認めてほしいという孤独の誤魔化しが発言動機のどれだけを占めるか」の検討です。

本当は自分を認めてほしいから意見しているだけなのに
それに自分で気が付かず
「世の中のために正しいことをいっている」
「あなたのために正しいことをいっている」
という思い込んでしまうケースが往々にしてあります。

この思い込みが強くなればなるほど
言う側にも聴く側にも悪い影響を生み出すことになります。

この状態は極めて自己欺瞞的であるといえます。

自己欺瞞からの脱却

自己欺瞞に陥った人間は孤独です。

とにかく他人に自分を認めさせたいという気持ちが大きくなるので
自分の欠点は棚にあげて、平気なふりをします。
そしていつも強気でふるまいます。それは本当は弱く寂しいからです。

自分の有能さを示すために他人の欠点を指摘し
さまざまなことに批判的になり、あらゆることを他責で考えるクセがつきます。

しかし心の奥底では、自分に自信がないことや、寂しいこと、自分にも問題があることを自分で認めているのです。そしてそれについて知らないふりを貫いています。
だからこそ自己欺瞞というのです。

そしてそれを他人に指摘されることがあると防御のたまに刃を光らせます。

このような不健康な心理状態から
芸能人のスキャンダルを叩いて断罪して楽しんだり
フェイクニュースを流したりする人々が現れるのだと思います。

上述の通り、これがあらゆる「意見」の形態のなかでも
もっとも問題があるものです。

さらにネット上の意見となると
リスクも責任もありませんから何の検討されていないものが平気で「意見」の顔をして出てきます。
また、短い意見が大半なので、表面的な知識でもそれらしく語ることができます。

そんな意見がネット上には溢れています。

実際には意見交換の素晴らしい場であるインターネットを
これほど極端に荒らしているのはほんの一部の人に過ぎないと思います。

しかし、そうでない人でも
ほとんど全員のなかに「自分のことを認めてほしい」という気持ちがあることも間違いないと思います。

本当に「意見」を大切にし、
個々人が自己欺瞞からできるだけ脱却し、
民主政を機能させていくには
ここまで僕が述べてきたような内容をできるだけ多くの人が意識する必要があると考えています。

つまり

民主政において意見を持つことの重要さを認識すること
インターネットという発明の恐れと可能性
人間の「認めてほしい」という本来的な欲求
自分を観察し、他者を認めるという賢い在り方
「意見の正しさ」と「意見の動機」の区別

これらを意識する習慣をつけてようやく
僕たちの孤独の呪縛から逃れたい心ゆえに、逆に僕たちを縛り付けるようになった自己欺瞞から、少しずつ抜け出していくことができるのだと思います。

おわりに

ずいぶん長くなったので
ここまで読んでくれている人がいるのかわかりませんが。。。

以上が僕が以前から考えていたことであり、
コロナウイルスついてあふれ出した人々の意見をみていて改めて強く意識したことです。

なんだか偉そうというか、説教じみた感じになってしまいましたが
自戒の意も込めて書いてきた次第です。

僕も全く完全にできているわけでは到底ありませんし、
意見を出した後に後悔することばかりです。

今後この混乱がいつまで続くのか、
そしてどれほどの爪痕を世界に残すのか、
想像するだけで恐ろしい気持ちになります。

しかし、ウイルスが攻撃するのは僕たちの身体だけです。
すでに感染者や人種、医療従事者への差別が始まっています。
ただでさえ大変なこのときに
心への脅威まで僕たち人間が作り出しては絶対にいけません。

人を叩くのは簡単です。しかしそれが生み出す別の問題を忘れてはいけない。
「こんな時に帰省なんてしやがって!」と、帰省した感染者の方を叩く「意見」でネットは溢れました。

「正しい意見」です。帰省は控えて、人の移動を最低限にとどめるべきです。
しかし、それを言った動機は?

果たして叩く必要はあるのか。
「叩くくらいしないと馬鹿には注意喚起にならないんだよ」
そんな声が聞こえてくるようです。

自己欺瞞に陥ってはいませんか。
行動を間違ってしまった人を叩くことが
世のなかをよくすることに繋がるのでしょうか。

自分の正しさを認めてほしいと思ってはいませんか。
「意見の動機」は、認めてほしいことでは、
本当にないのでしょうか。

このような問いを
自己に対して投げかけ続ける姿勢を忘れないでいたいと思います。

ネットでも他の場所でも、
本当に真剣に考えてくださったのであろうという
優しく、誠実で、ありがたい意見を共有してくれる方も
たくさんたくさんいます。

そのおかげで、
少しでも世界のために行動を変えた人がたくさんいるのです。

意見は持つべきだ。
インターネットという発明は素晴らしい。

僕はそのポジティブな可能性にかけてみたいです。
そのためにこの文章を書きました。


みんなの意見を集めて
なんとか乗り越えていきましょう。

最後まで読んでくださり
本当にありがとうございます。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。