近頃、気持ちを伝える大切さと、その力を実感しています。
なんでもかんでも正直に伝えれば良いということでもないとは思いますが、自分の気持ちを誰かに伝えるのはやはり尊い行為だと思います。
感謝や愛情などポジティブな気持ちついては特に。
しかし、大人になればなるほど、そして相手との関係が近くなればなるほど、そういうことを伝えるのは難しくなります。
気恥ずかしさもあるし、改まってそういう機会も少ないし、そういうことを逐一伝えなくもお互いわかってるんだという言い訳もあるし。
特に日本はそのようなことをはっきり伝えるのは野暮だとか、言葉にしないのが美徳だとかいう文化というか美意識というか価値観というか、そういうのが割と強くありますよね。
それでもやっぱり思うのは、伝えなきゃわからないよ、ということ。
言葉にしないかっこよさとか、その沈黙の雰囲気からにじみ出るものがどうとか、そういう綺麗ごとも言えますし、実際そういうのも素敵です。
でもすべてがそれだけで済む程、毎日の小さな日常は特別じゃないし、それに頼っていると少しのことで疑心暗鬼にもなります。あまり買いかぶるべきものではない気がします。
ただ気持ちを伝える方法が言葉だけかというとそうでもない気もします。
僕がスッと思いついたのは4つ。
言葉・行動・もの・お金
です。
それぞれには違う役割があるし、使うべきタイミングや発揮する威力も違います。この4つの組み合わせて気持ちを伝える方法だってあります。
それぞれ良いタイミングで使いこなしながら、大切な人に大切な気持ちを上手に伝えていきたいものです。
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言葉で伝える
正直僕の意見としては、気持ちは言葉で伝えるのが一番だと思います。
精神的に一番こたえるからです。
大切な人に大切な気持ちを言葉で伝えるのは本当に難しい。恥ずかしいし、怖いし、もどかしい。
好きな人に好きと伝えること。両親や友達にありがとうと言うこと。本当に申し訳ない時に、ごめんなさいということ。
小学校で習ったことなのに、どうして大人になっても難しいのでしょう。いやむしろ大人になってからのほうが難しい。
大好きと言うとき。ありがとうと言うとき。ごめんねと言うとき。助けてというとき。
何故か自分が素っ裸にされたような恥ずかしさ・怖さ・もどかしさを感じます。それはその言葉が私たちの本当に素直な気持ちだからだと思います。精神的にすべてを脱ぎ去ったということだと思います。
そのように心の一番柔らかい部分を誰かの前にむき出しで差し出した時
それを相手が包み込んでくれた時に感じる喜び・心地よさ・安心・温かさは至上のものだと思います。
一方、相手が自分の気持ちを拒否したり、攻撃を加えてきたり、気持ちを受け取ってくれなかったりしたときに感じる苦しみ・痛み・落胆・冷たさも並大抵ではないでしょう。それがトラウマになったり、それで人生や人格が異なる方向に進みはじめることさえあります。
しかしそのリスクがあるからこそ、それを承知の上で、言葉にして相手に気持ちを伝える行為は美しいのだと思います。
言葉で気持ちが伝わった瞬間の喜びを求めて、人間は他者と繋がろうともがくのだと僕は信じています。
まぁ言葉にすることが大切なのは上に書いたような大切な瞬間だけではありません。
普段のちょっとしたことでも、いちいち、ありがとうとかごめんねとかを言葉にすることはより良い人間関係や、自分の信用にもつながると思います。
どうも、とか、悪い、とか婉曲的な表現に慣れて、直接的な言葉を言うのが恥ずかしい人も多いのが現実ですが、せっかくそういう気持ちがあるのなら適当にごまかさずに、出来るだけはっきりとした言葉で伝える癖をつけるべきだと思います。
だって伝えてもらわないと聞いている側はわからないですし、ありがとうって言われると嬉しいですし、ごめんという人は信用できますから。
ただ、これは思っていても意外と難しいことで。
同じ言葉でも距離の近い人にはなかなか言えなかったり。そんな人たちこそ一番大切だったり。
親友に大好きだと言えますか。お父さんにありがとうと言えますか。兄弟にごめんねと言えますか。恋人に助けてと言えますか。
でも、こっちが何かを伝えようとする姿がどんなに不器用でも、ちゃんとわかってくれるのが自分に近しいひとたちのはずです。上手じゃなくてもかっこよくなくても、まずは伝えてみることが大切だと思います。
ちゃんと伝えてくれる人には、周りの人もちゃんと伝え返そうとしてくれます。そうすると自然と自分にも素直に接してくれる人が増えるはずで、それはとても幸せなことだと思います。
言葉で気持ちを伝えるメリットは、お金も時間もかからないこと。
しかし心には物凄く負担がかかります。しかしだからこそそれは素晴らしい行為なんだと思います。
行動で伝える
言葉にするよりは簡単にできると思いますが、これは実際的な行動に出ている点で言葉にはない力を持っています。
行動には時間的にも意識的にも体力的にも犠牲が伴いますから、極端な話口先だけの嘘でも取り繕える「言葉」にはない説得力があります。
言葉で気持ちを伝えたあとに、行動につなげれば、表明した気持ちの証明にもなります。
誰かを見送りや迎えにいくこと。手伝いをすること。相談に乗ること。お茶を淹れてあげること。肩もみをすること。ご飯に行くこと。微笑むこと。抱き締めること。
言葉で伝えなくも行動で伝わることはずいぶんあると思います。言葉は嘘でも気持ちが嘘でも行動したことは嘘にはなりませんから、何があろうと行動さえすれば必ず相手に行動なりの気持ちが伝わるというのが良いところです。
逆説的ですが、そういう行動から自分が伝えたい気持ちに気が付くこともあるかも知れません。
もので伝える
これが一番よくある気持ちの伝え方でしょうか。プレゼントです。
プレゼントを買うときに相手が自分のことを考えてくれたのが嬉しかったり、買う側も相手が喜びそうなものを考えること自体がちょっと演出家のような気分になって楽しかったりするわけです。
この方法の利点は、わかりやすいこと。文字通り相手に与えるという動作なので、タイミング的にも気持ち的にもはっきりしていてよいです。
また、ふたりの間でそのプレゼントにされるモノ自体に特別な共通認識が生まれるのも良いです。食べ物などの消耗品ならそれに似たものや同じものを見るたびに。ジュエリーや置物など、形に残るものならそれ自体を見たり使ったりするたびに、くれた相手のことを思い出します。
これは気持ちを言葉や行動で伝えた場合にはあまりない時間的な伸長です。思い出すファクターがモノという自分の外的要素であるという点もユニークです。
行動やもので伝えられるときには、言葉で伝えるときには見えないような工夫や癖、気遣いなどが感じられてとても嬉しいですよね。
お金で伝える
お金というとずいぶん皆から好かれると同時に、いたく嫌われもきた不思議な存在です。
資本主義社会ですからとにもかくにもお金がなければできることなどおのずと限られてくるわけで、みんなお金が欲しくて仕方がなく、お金に悩みお金に喜び人生をやっているわけです。
同時多くの人が、お金を何か汚いもの、怪しいもの、ずるいものと、生々しいものといしても認識しています。
他人に急にお金を渡すのは失礼でさえあるし、お年玉やご祝儀、ご霊前などお金を渡す慣例の場でも必ず専用の袋に入れて渡されます。個人的なお金のやり取りの時でも、手近なもので即席に袋を繕ってまで現金を直に手渡しするのを避けるようなことも珍しくありません。
しかし、お金は価値を交換したり保存したり比較したり、そういう経済活動をより便利かつ柔軟にするために発明された道具にすぎないので、実際は良くも悪くもないフラットなもの。
だからこそお金で解決できることは多いし、あと腐れもない。
金の切れ目が縁の切れ目 という言葉の本来の意味はこうだと聞いたことがあります。「互いに負いあうのが人間関係。だからお金の貸し借りや損得はあっていいもの。家族や親子などはそういう意味でずぶずぶの関係だけどそれこそが人の縁。お金で全ても綺麗に解決してしまったら人の縁など続かない。だから金銭関係に区切れがつくと、それが縁の切れ目になる。」
こう聞くとお金で気持ちを伝えるのも悪くないと思います。良く考えれば会社からお給料をもらったり、お手伝いのあとにお小遣いをもらったりするのはまさに、感謝や労いをお金という形で伝えているとも取れます。
伝えたい相手が複数で、かつ皆に公平にしたいときなどはお金はそれを明白に解決してくれます。
とはいえ個人間で何かのお礼にお金を渡すのは気が引けるものです。
そういう場合には、何かの割り勘とか清算のときに、おつりや端数のやり取りで「いいよ、いつもお世話になってるから」みたいにうまく相手が得になるようにして気持ちを示すのも良いかもしれません。
もともとお金は働いた人の努力や時間、実績などに対して支払れるものです。だから、そうして得たお金を誰かにあげることでそれを自分の気持ちとするのは、ひとつ「お金」という中継を挟んでいるだけの、もとは純粋な努力や時間であったものを誰かにあげているのと同じです。家族のために働く父さながら。
お金もうまく使えば、自分の大切な気持ちを伝える手段になりそうです。
組み合わせて伝える
言葉・行動・もの・お金で気持ちを伝えることについてみてきました。
しかし実際にはこれらを複数組み合わせることで気持ちを伝えていくことが多いと思います。
手作り品やお下がりをあげるのでなければ、誰かにあげるプレゼントはお金で購入するでしょう。そしてプレゼントを選ぶ・渡すという行動があり、それは大切な気持ちを言葉にする機会を産んでくれます。
手紙は言葉によって紡がれますが、ものとして形にも残ります。そして手紙を書いて出すという行為には、ただ口でいうのよりも多くの行動が伴います。
ご飯を奢るのもお金のやり取りであり、食べ物というプレゼントであり、店を選んだり予定を合わせたりという行動でもあります。そしてこれもまた気持ちを言葉にする機会をくれます。
最後に
こうしてみると気持ちを伝える方法は少ないようでたくさんあります。
しかし、方法を知るよりも大切なことは、自分の気持ちを知り、それを誰に伝えたいのかを知ることだと思います。
僕たちは思ったよりも人の世話になっていますし、誰かに助けられています。誰かに迷惑もかけています。そして声をあげることで助けてくれるはずの良い人たちを見逃すこともまた多いです。身近な人ほど大切なのに、その大切さを意識しません。
とてもとても難しいことではありますが、そういうことに出来るだけ気づくことが大切だと思います。そしてそれを伝えるためには何かをしなくてはいけません。
想っているだけでは、想っているだけなんです。それだけでは伝わらない。伝わらないのなら、自分以外には、想っていないのと同じです。
この文章を書いていて、僕自身も新たに気づくことがありました。そして自分がいかにまだまだここに書いてきたことができていないかわかりました。
しっかりと周りの人と関わり、大切な気持ちをたくさん見つけて、それを自然にスマートに、そしてときに改まってかっこ悪く、伝えていける人間になりたいと思います。
そして最後に、これを書いていて思ったことですが、
僕たちは、誰かに大切な気持ちを伝えれる立場になったときに、それをしっかりと受け止めなければならないと感じます。
伝えてくれたその姿勢に敬意を払い、誠実に受け取るべきです。伝えられるほうも恥ずかしいこともあるし、対応に困り茶化してしまったりすることもあると思います。
しかし伝えてくれた本人を、恥じ入らせるような返答や行為をすることは許されないことです。
そのような誠実な心が増えれば増えるほど、大切な気持ちが伝えやすい世界に少しずつ変わっていくものだと、信じたいです。