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【歴史】ローマ皇帝の継承系譜でヨーロッパ史のうねりがわかる【世界史の醍醐味】

ローマは世界史の湖。古代のすべての文明はローマに一度流れ込み、以後の歴史はそのローマから流れ出たものだ。

ドイツの歴史家ランケは古代ローマをこのように評価しました。

古代ローマは政治においても文化においても、人類史の中でひとつの頂点を極めたといえます。

サウナや水洗便所を構え、科学を発展させ、民主と独裁の双方の利点を生かした比類なき政治システムを生み出しました。

共和政から帝政への転換、そしてキリスト教の弾圧から国教化へ…。

哲学的な思考も養われ、一方で限りのない拡大戦争と贅沢の限りを尽くしたという一面もありました。

まさに人類史のあらゆる側面がローマ史には詰まっています。

帝政ローマ時代の皇帝の帝位はローマの東西分裂によって2つの方向に継承されます。そして途中断絶や消滅を経ながらも、形式的には20世紀まで形を変えて継承されていきます。

この長いローマ皇帝の継承史を眺めると、興味深いことにヨーロッパ全体の歴史の流れと絶妙にリンクしているのです。つまりローマ皇帝継承史を学ぶと、ヨーロッパ史の概観がつかめます。

それほど古代ローマの影響というのは、ヨーロッパの歴史において絶大なものであるということでしょう。

それでは、歴史におけるローマ皇帝の継承と、ヨーロッパ史の流れ。

どのように繋がっているのかをまとめてみます。

ローマ皇帝史でみるヨーロッパ史の概観

共和政ローマ古代(紀元前)民主主義・皇帝はいない
ローマ帝国時代古代(紀元後)皇帝位の継承が始まる
東西分裂時代
(西:西ローマ帝国→フランク王国)
(東:ビザンツ帝国)
中世混乱の中で皇帝位は消滅・断絶するが
東西でそれぞれ皇帝が途切れ途切れに継承されていく
ハプスブルク家とロマノフ家による世襲
ホーエンツォレルン家の台頭
近世~近代特定の王家によって皇帝位が世襲される
皇帝位を持つ3王家の敗北と、帝位の消滅大戦期皇帝位が消滅する
ローマ皇帝消滅後の時代現代民主主義・皇帝はいない

左列はローマ皇帝位の継承の具体的な流れです。

その大枠は、中央列に書いた古代から現代までの時代区分に概ね相当します。

そして右列は当時における皇帝位の状況です。これもやはり時代区分ごとのヨーロッパの状況を反映しています。

この表を見ると、皇帝位が存在しない紀元前の古代と現代では政治体制が民主主義で共通しています。つまり古代ローマで成立した民主政と、現代の民主政。ローマ皇帝位というのはこの2つの民主主義の時代に間に横たわる1900年間の長い時代区分を作ったものだといえます。

この1900年間がヨーロッパ史におけるカエサル時代といっても良いかもしれません。

そしてその1900年間のうち、皇帝位が安定していた時代はヨーロッパも安定しており、皇帝位が不安定だった時代はヨーロッパ全体が不安定な時代です。

皇帝位が安定していた最初の時期であるローマ帝国期は、ヨーロッパは世界をリードする空前の発展を経験します。

また皇帝位が特定の王家に世襲されるようになり、再び安定化した時代、ヨーロッパはルネサンスから絶対王政の時代であり、やはり世界をリードする列強化の礎を築きました。

一方、皇帝位が消滅したり、空位になったり、教皇権と争ったりして不安定だった時代は、ヨーロッパの暗黒期と呼ばれる中世にあたります。

中世は西アジアから勃興したイスラームに覇権を握られ、ヨーロッパは完全に後進国となった時代です。

しかしその中世でも、安定して皇帝位を継承していた東のビザンツ帝国は、繁栄を謳歌しました。

実際のところは、「皇帝位が安定→だから社会が安定した」というよりも「社会が安定→だから皇帝位が安定した」という因果関係の方が深いと思います。

そして時代区分もあとからそのような社会の変遷を観察・分析して決めたものです。

ですから、よく考えれば皇帝位の状況と社会状況や時代区分が一致するのは当然のことです。

しかし、それでもヨーロッパ世界において、ローマ皇帝という地位がどれだけ特別かということや、ヨーロッパ人たちが自らのルーツをローマに求めるということを理解するには十分だと思います。

長いローマ皇帝時代を経て、僕たちはローマ皇帝がいない時代、民主主義の時代に戻ってきました。

戦後75年で、ヨーロッパの国々は統合への道を歩んできました。

皇帝がいない世界で6か国の共同体から始まったヨーロッパ統合が現在28か国にまで拡大しました。

これは共和政ローマがどんどん海外植民地を増やした姿に重なります。(もちろん武力による併合と経済的な損益による統合という違いはありますが。)

そして現在EUでは内部での経済格差の問題や移民の問題が頻繁に上がり、イギリスは脱退を決めています。

共和政ローマでも行き過ぎた拡大によって経済格差が拡大し、ローマ人の選民意識が低下し、大衆はパンとサーカスに堕落しました。

現在EUの大衆は堕落しているのでしょうか。そうだとしたら堕落させているものは何でしょう。政治主体として大衆が機能しなくなった時、それを救うのは賢くカリスマがある独裁者でした。

そうして生まれた特別な地位がローマ皇帝です。

今後のヨーロッパはどうなっていくのでしょうか。古代ローマの歴史を繰り返すのか。はたまた全く異なる展開を見出すのか。

ローマは世界の湖である。

今ヨーロッパを中心に展開している話は、どこの国にでも、また国際的にでも適用できる内容のはずです。

まさに歴史のハイライトともいえるローマ史。そこから生まれて継承されたローマ皇帝継承史を眺めることで、歴史の枠や流れをつかみ、現在を生きる糧にしようというのが今回の試みです。

それではローマ皇帝位がどのような歴史をたどったのか、具体的に時系列でみていきましょう。

カエサルから帝政ローマ滅亡

共和政ローマが帝政ローマに変容したのは紀元前27年

初代ローマ皇帝はオクタウィアヌス、別名アウグストゥスです。

しかしローマの皇帝という地位を概念的に創造したのはアウグストゥスの養父、カエサルと考えてよいでしょう。ローマはカエサルの登場まで内乱の1世紀と呼ばれる大混乱を経験していました。

度重なる拡大戦争や、属州への市民権の拡大からくる選民意識の低下、軍隊の傭兵化などの様々な要因から、共和政という古代ローマのアイデンティティともいえる政治システムに支障が出始めていました。

そんなときに現れたカリスマがカエサルです。

カエサルが独裁化せんという際には、ローマの共和精神が暗殺という形でそれを食い止めましたが、もうローマは後に戻れないところまできていたようです。

カエサルが参加した第1回三頭政治という状況ですでに寡頭化していたローマの政治は、第2回三頭政治に受け継がれ、その中から初代皇帝アウグストゥスの誕生につながっていきます。

カエサルという人間はローマ史において強烈なインパクトを残しました。彼の登場こそが、共和政ローマに帝政という新しいシステムの最初の風だったということです。

ゆえに、それ以降「カエサル」という言葉は個人としてのユリウス・カエサルだけではなく「ローマ皇帝」という立場を表す言葉として使われるようになります。

この皇帝・カエサル(英語ではシーザー、ロシア語でツァーリ)という称号は、長いヨーロッパ史において、途中断絶しながらも現代にいたるまで継承され続けていくことになります。

それから帝政ローマは五賢帝時代という安定した100年を経て、軍人皇帝時代と呼ばれる混乱の時代を迎え、ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスというカリスマ的な賢帝がなんとか繋ぎとめるも、395年に東西に分裂するという歴史をたどります。

この時代にローマは、キリスト教に対する政策を「弾圧」→「公認」→「国教化」という流れで変化させていき、このあとのヨーロッパ史の中心をなす、政治権力と宗教権威の切っても切れない関係の土台をつくりました。

ローマ皇帝の帝位は、最後の皇帝テオドシウスから、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に継承されました。

ここまでみてきた通り、ローマ皇帝という地位は、自然発生的に成立した土着の権威でもなければ、血縁によって継承されるものでもありません。

それでもこの特別な地位は、ヨーロッパ史の中で連綿と受け継がれていくのです。

西ローマ帝国滅亡・フランク王国の勃興とビザンツ帝国の繁栄

二つの帝国に継承されたローマ皇帝位ですが、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入によって間もなく滅亡してしまいます。

一方で、拠点を現在の東欧から西アジアに移した東ローマ帝国はその後1000年以上存続します。東ローマ帝国はビザンティウム(現在のトルコ、イスタンブール)を中心として発展したのでビザンツ帝国と呼ばれます。

時代は古代から中世へ。

古代はギリシア・ローマを中心に空前の繁栄を見せたヨーロッパ世界ですが、実はこの地域は寒冷で、狭く、土壌も豊かとはいえないという点で、歴史のなかで周辺地域に過ぎないことが多いです。

中国や中東が歴史の主役であり続けた時代のほうが圧倒的に長いわけです。

ですから、ヨーロッパはローマを失ったあと、暗黒の中世時代に入っていきます。

中世の混乱の中で西ローマ帝国は滅亡し、帝位はここで断絶します。西ヨーロッパ世界には大移動してきたゲルマン人王朝が鼎立。

その中で最も大きな勢力を握ったのがフランク王国でした。

そのころ、基盤を西アジア方面に持っていたビザンツ帝国はゲルマン人の侵入などの混乱も少なく繁栄し、6世紀のユスティニアヌス時代には全盛期とも呼べる強力な帝国となります。

このころペルシア地方(現在のイラン)で覇権を握っていたササン朝という大物王朝と渡り合っていたのですから、ビザンツ帝国はツワモノです。

しかしこの長い長いビザンツーササン間の抗争によって、東西をつないでいた商業ルートであるシルクロードが機能不全になります。

迂回ルートとして活用されたのがアラビア半島。この地域の商業が活発化すると、もともと砂漠ばかりの厳しい土地ですから、商業で成功したものとそうでないもので貧富の差が拡大します。

この経済的不和の中で誕生し、民衆の心をつかんだのがムハンマドのイスラーム教

どんどん勢力を拡大したイスラーム軍はあのササン朝を蹴散らし、あれよあれよという間に北アフリカとイベリア半島(今のスペイン、ポルトガル)をおさえる大帝国をつくります。

このイスラームのイベリア半島征服により、その最前線と国境を接するようになったのがフランク王国。732年トゥール=ポワティエ間の戦いで、破竹の勢いで覇権を広げていたイスラーム軍を、初めて食い止めることに成功しました。

当時東では、コンスタンティノープル(ビザンティウム、今のイスタンブール)を中心に栄えていたビザンツ帝国はコンスタンティノープル教会を保護していました。一方でローマ教会は西ローマ帝国が滅びて以降、政治権力の後ろ盾を失っています。

もともと同じ帝政ローマだった東西ですが、コンスタンティノープル教会はイスラーム教の圧迫もあり、偶像崇拝を取り締まる聖像禁止令を発布するのなど、ローマ教会とは性質を変えていました。(これがカトリックとギリシア正教の違いになっていきます。)

となると、ローマ教会はビザンツ帝国に後ろ盾になるように頼むわけにはいきません。そこで白羽の矢を立てたのがフランク王国。イスラーム教の侵略を食い止めた実績もあり、ゲルマン人の国家でありながらカトリックへの改宗が進んでいました。

こうして行われたのが800年カールの戴冠です。これによりローマ、ゲルマン、キリスト教という3要素が混然一体となる西ヨーロッパ世界の成立とみなすことも多いです。(当時からそういう意味合いだったというより、歴史を振り返るとこのくらいの時期から今の西ヨーロッパ世界といえるような土壌が整い、その時期にあった象徴的な出来事がカールの戴冠だったという考え方もあるようです。)

このカールの戴冠をもって、ローマ皇帝の地位が復活したのいえます。この帝位はフランク王国からオットー1世を始祖とする神聖ローマ帝国に継承されていきます。

神聖ローマ帝国とモスクワ大公国

西では神聖ローマ帝国が1806年にナポレオンによって解体されるまで存続します。

この長い期間には、イスラーム討伐・聖地奪回を目指した十字軍が行われたり、皇帝と教皇が互いに権力をめぐって闘争したり、大空位時代という皇帝不在の期間があったり、金印勅書という文書で皇帝が7人の選帝侯により選出されるようになったりと、皇帝周りだけでもかなりいろいろなことが起きました。

しかし1438年以降には皇帝はハプスブルク家による世襲となります。

このハプスブルク家が皇帝(カエサル、カイザー)の地位がこの世から消えるまで残る皇帝家3つのうちのひとつです。

一方、東でもヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがる大帝国と言われたオスマン帝国の伸長により、あのビザンツ帝国が滅亡します。1453年のことです。

ビザンツ帝国の滅亡によりローマ帝国の東西分裂以来、東のビザンツ帝国で継承されてきた皇帝位が消滅します。

これを継承したのがロシアです。当時ロシアはモンゴルの勢力に押されてその支配下にくだる「タタールのくびき」と呼ばれる時代にありました。

このモンゴル人による支配を跳ね返したのがモスクワ大公国。これが1480年の出来事なのでビザンツ帝国の滅亡から間もなくのことです。

そしてモスクワ大公国のイヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪にあたる女性と婚姻関係を結びました。この時にビザンツ帝国の国章も受け継ぎ、ビザンツ帝国の継承国家を名乗ります。

ビザンツ帝国の継承国家と言うことは、つまりローマを継承しているということです。

実際にこれをもってモスクワは第3のローマといわれるようになります。これはイタリアのローマを第1のローマ、コンスタンティノープルを第2のローマと考えての呼び方です。

そしてイヴァン3世を継いだイヴァン4世からは正式にツァーリの称号を使い始めました。ツァーリはロシア語で皇帝、つまりカエサル、カイザーです。

こうしてロシアに渡った皇帝位は、モスクワ大公国の後をついだロマノフ朝にも継承されていきます。このロマノフ家が 皇帝(カエサル、カイザー)の地位がこの世から消えるまで残る皇帝家3つのうちの2つ目です。

ドイツ・オーストリア・ロシア

ロマノフ朝ロシアはこのまま20世紀初頭まで存続しますが、1806年神聖ローマ帝国が滅亡したドイツ方面ではまだ動きがあります。

1618年~1648年までの三十年戦争以降、神聖ローマ帝国は有名無実化し、ドイツは領邦単位への分裂がさらに進みました。こうして神聖ローマ皇帝、つまり1438年以来その地位を独占してきたハプスブルク家は、オーストリア地方を治めるだけの王家に成り下がってしまいます。

一方、領邦乱立のドイツ方面から伸長したのがプロイセン。このプロイセンの王家がホーエンツォレルン家です。このホーエンツォレルン家が後に 皇帝(カエサル、カイザー)の地位がこの世から消えるまで残る皇帝家3つのうち、最後の3つ目の王家になります。

ホーエンツォレルン家のプロイセンとハプスブルク家のオーストリアは、シュレジエンという領土問題を発端にオーストリア継承戦争(1740~1748)や七年戦争(1756~1763)という争いを起こします。

オーストリアは外交革命と呼ばれる歴史的な外交転換により、宿敵フランスと結んでまでプロイセンに対抗しますが、オーストリアを後方支援していたロシアがプロイセン側と単独講和してしまうなどの不運もあり、最終的にはプロイセンに軍配があがります。

これを機にホーエンツォレルン家プロイセンはドイツ方面ハプスブルク家オーストリアはオーストリア方面という今後の流れが決まります。

先に書いたようにこれまで形式上残っていた神聖ローマ帝国は1806年に消滅します。ライン同盟という、ナポレオンがドイツ方面の支配を固めるための国家連合が成立したからです。

しかしライン同盟もナポレオンの失脚によって解体。その後、ドイツではプロイセンを中心とした統一運動が展開され、経済的統合を目指したドイツ関税同盟や、ビスマルクが主導権を握った北ドイツ連邦などを経て、1871年にドイツ帝国が成立した。

このとき、プロイセン王であったホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世は、ドイツ皇帝の地位をいただくことになる。

(ちなみにフランスでもナポレオンやその甥であるナポレオン3世が一時的に皇帝を名乗るが、どちらも1代限りで革命や敗戦により帝位消滅したのでローマからの継承の系譜には入らないと考えることにした。どちらの戴冠も権威的な継承というよりも武力や政治権力にものを言わせた名ばかりの皇帝宣言という感じがする…。また、1871年のドイツ帝国成立は、同年に終結した普仏戦争でのプロイセン勝利に基づくものであり、ナポレオン3世はこの敗戦で捕虜となり皇帝を退位した。結果的にホーエンツォレルン家の帝位はナポレオン3世から奪ったような形になった。)

これで

  • ドイツ:ホーエンツォレルン家
  • オーストリア:ハプスブルク家
  • ロシア:ロマノフ家

と、ローマ帝国から紆余曲折を経て継承されてきた皇帝位は、この3つの国民国家と王家にその威光を残すことになりました。

しかしこの後にやってくる大衆の時代の波の中で、この3つの皇帝位は同時に廃されてあぶくとなる運命をたどります。

ちなみに余談ですが、このドイツ(プロイセン)・オーストリア・ロシアは、啓蒙専制君主と呼ばれたフリードリヒ2世・ヨーゼフ2世・エカチェリーナ2世を輩出した3国であると同時に、18世紀に行われた3度にわたるポーランド分割に噛んだ3国でもあります。何かと共通点が多い国です。

第一次世界大戦とローマ皇帝の消滅

時代は20世紀に突入し、ドイツ帝国と、ハンガリーと合同しオーストリア=ハンガリー帝国となったオーストリア、そしてロシア帝国はすべて第一次世界大戦に入ります。

ドイツとハンガリーは敗戦国となり、1918年にドイツ帝国はヴァイマル共和国となり、オーストリア=ハンガリー帝国は解体し、オーストリアではオーストリア共和国が成立します。

これで3家に分かれて継承されていたローマ皇帝の地位のうち2つが廃されたことになります。帝国から共和国になったドイツとオーストリアは、皇帝から民衆の手に返ったのだといえます。

それでは敗戦国ではないロシア帝国はどうなったのか。このときロシアは地球上から消滅していました。

大戦中の1917年にロシア革命が勃発し、ソビエト社会主義共和国連邦になっていたからです。

世界初の社会主義国家成立の波の中でロマノフ朝のロシア皇帝も廃位されました。そしてそれを継いだのはやはり民衆の手でした。社会主義というのは労働者による独裁を体制をベースとするイデオロギーですから、建前上にはなりますが政治を動かすのはやはり民衆です。

こうしてローマ皇帝位の継承国家として残った3つの国民国家は同時期に崩壊し、3国とも共和政に戻りました。

古代ローマで大衆に支持されたカエサルですが、20世紀に新たにやってきた大衆の時代は、もはやカエサルを必要としなくなっていたということでしょう。

ローマ皇帝亡き現代

その後、ドイツ、オーストリア、ロシアの3国は全く異なる歴史を歩みます。

オーストリアはヨーロッパでもそれほど目立たぬ中堅国となり存在感を弱めた一方で、皇帝廃位以来オーストリア共和国の体制を維持しています。

ドイツは第一次世界大戦後の経済危機からナチス・ドイツを経て第二次世界大戦で再び敗北。冷戦の中で東西に分裂するも、再び統一してからは経済発展を遂げ、今ではヨーロッパをリードする中心国家になりました。

ロシアはソ連となり冷戦という戦後の新しい対立構造で世界の覇権の半分を握りましたが、ソ連崩壊によって覇権を失います。それでもなお現在にいたるまで国際社会での存在感は大きいです。

もはやローマ皇帝の威光はこの3国から完全に消え去ったといえるでしょう。

そしてローマ皇帝亡き現在、社会はまた民衆のものとなりました。

カエサル以前の共和政ローマに戻ってきたのです。

ローマ皇帝が消滅してからちょうど100年が経過しました。ヨーロッパでは共和政ローマ末期に見られたような経済格差の拡大や、領土拡大による弊害が出てきています。

共和政ローマでは属州が増え、市民権が拡大したことでローマの選民意識・公共意識が低下しました。現在のEUではギリシャ・ポルトガル・スペインなど後発で加盟した国の経済的な不振が先進国家の負担になり、トルコの加盟要求や中東から移民問題でイスラーム圏への反感が高まっています。

古代と現在では国際情勢も、軍事の在り方も、情報の量や速度まったく異なります。

ですから古代ローマの歴史を同じように繰り返すことはないでしょう。

しかしアメリカの国民的文学者マーク・トウェインはこう言いました。

「歴史は繰り返さないが、よく韻を踏む。」

古代ローマで起きたのと同様に、現代でも政治主体である大衆が機能不全に陥っています。

これはヨーロッパに限らず起きている事態で、それはドナルド・トランプが大統領になったことで全世界の確信となりました。

この混迷とした時代を導いていく新時代のカエサルが現れるかもしれません。

新時代のカエサルはどのような性質を持つものかわかりませんが、そうしてできた秩序が、その後何世紀にもわたって世界を形作っていくというのも十分考えられることです。

いったいどんな未来が待っているのでしょうか。

(個人的には次のカエサルは人間ではなく、データ、コンピュータ、AIの類だと思いますが…)

まとめ

ローマ皇帝史をたどることで、ヨーロッパ史全体を概観してみました。

皇帝周辺の史実はつまびらかに書いたつもりです。落とした情報もあるかもしれませんが、全体像をつかむには十分だと思います。

ある程度、世界史の前提知識がないと難しいことではありますが、歴史は細かい事象を覚えたり分析したりするだけでなく、このように大局的なうねりを掴むことでより一層楽しく、為になるものだと思います。

今回はローマ皇帝という地位を歴史の背骨としてまとめてみましたが、また別の地域やトピックでも同様の試みが出来ればなと思います。

まだまだ歴史の知識が足りないので日々勉強ですが…。

それでは、読んでくれてありがとうございました。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。