オリエンタルラジオの中田敦彦さんが運営しているYouTubeチャンネルについて、ネットが炎上している様です。
歴史を解説する授業動画に事実ではない情報が多すぎるのではないか、というのが論点。
賛否の渦が巻き起こっています。
\#アベプラ きょうのニュース/
— AbemaTVニュースch (@news_abematv) January 16, 2020
〝教育系動画〟で人気
オリラジ中田さんのYouTubeに
「間違いだらけ」と学者などから相次ぐ批判
一方で、「エンタメだし」
「どこまで完璧を求めるの?」と擁護する声も
ネットの〝正確さ〟どこまで求める?
規制したら良さがなくなる‥?考えます@otsune@mikamiyoh
オリラジ中田敦彦の『YouTube大学』動画に「でたらめが多すぎる」と非難殺到 (ニフティニュース) #NewsPicks https://t.co/hhHr9koxm8
— tca9d (@tca9d) January 16, 2020
そういや中田敦彦のYouTube大学に対して有識者が警笛を鳴らしてるってニュースを見た。有識者?黙れ!w俺は内容が若干間違えてようがそれをきっかけに歴史を知るきっかけになってるわ。なんの影響力も持ってない有識者はだまってろぃ
— チャーハン (@2150Sakuraman) January 16, 2020
中田さんの発信自体が良いか悪いかの議論は、視聴者のみなさんや有識者の方々にまかせるとして、今回はこの炎上騒動から
「価値」とは何か
について考えてみたいと思います。
Contents
人が喜べばそれで価値なのか
最近読んで感銘を受けた本の中に『ホモ・デウス』というのがあります。
これ↓
この本が示す見解のひとつに、今の僕たちは「人間至上主義」というイデオロギーの中で生きている、というのがあります。
人間至上主義が台頭したのは現代になってからです。
つまり経済で言えば産業革命が起きて以降。政治で言えば列強が革命の時代を経て王政から脱して以降のことです。
それまでは神が世界の中心でした。
神が設計した世界で、神が書いた台本を演じていたのが僕たち人間でした。
だから善も悪も神が決めます。
事実、未だ片足を神の世界において生きているイスラーム圏の人々と話したときには、「神(アッラー)を信じていないのに、そうやって善悪の区別をつけるの?」と純粋に不思議そうな顔で聞かれたことが何度かありました。
では、ニーチェが「神は死んだ」と言い放った現代の世界では、いったい何が善悪などの道徳や価値を規定しているのか。
人間至上主義とは、その規定を人間の心に求める姿勢です。
つまり人が喜ぶならそれは善いことで、人が嫌がるならそれは悪いことなのです。
経済で言えば、人が喜んで買うならそれは良い商品で、誰も買わなかったり買った人の期待を裏切ったりすればそれは悪い商品です。
近年ようやく日本でも広まりをみせているフェミニズムやセクシャルマイノリティの権利を求める運動も、広い意味では人間至上主義のなかの遅れてやってきた波のひとつでしょう。
もともと神によってデザインされたとされる性のあり方に人間がダウトして、個々人の心が求める性のあり方が正しいものだとしよう、という動きです。
確かに僕たちは、家でも学校でも、人間を基準とした道徳を教わり続けてきました。
「人が嫌がることはしてはいけない。」「人に気持ちを考えて行動しよう。」
決して「神を冒涜してはいけない。」とか「神の意志に見合った行動をしよう。」という教育はされませんでした。
これを人間至上主義と呼ぶならば、現代はまさにそういう時代です。
人間至上主義の中のYouTube大学
現代では法も道徳もあくまで人間至上主義の価値観で作られています。
人間至上主義を善悪の基準とするならば、今回炎上の渦中にさらされている中田さんの動画はどうなるのでしょうか。
「観たい人だけ観れば良い。嫌なら観るな。」
賛否渦巻く議論の中では必ず目にする主張のひとつです。
確かに人間にはしたくないことしない権利があると、かのジャン=ジャック=ルソーも言っています。
私は、人間の自由が、自分のしたいことをすることにあるなどとは、一度も思ったことがない。それはしたくないことをけっしてしないことにある。 ( ジャン=ジャック=ルソー )
ウェブ石碑 https://sekihi.net/stones/38423
また、中田さんの動画に関しては、彼は広告料などから収入を得ているのかもしれませんが、視聴者は一切お金を払っていません。
そうなると視聴者はお客さんではありませんから、それで嫌な気分になったからと言っても、そもそも人間至上主義<経済的善悪編>のステージに上がっていないような気もします。
一方で、無料で配信されるこの手の動画に殺到する人たちは、皆それが面白かったり楽しかったりするから来るのでしょう。
これに関しては自由意志をもって動画を観るという行動を選ぶ人が多く、それに彼らが満足しているのであれば、その動画には「価値」があると言えるのかもしれません。
実際に中田さんの動画に賛の意見を唱える人たちが口を揃えて言っているのは
「価値を生み出してるのはどっちなの?」という言葉。確かに中田さんの動画は、書籍の帯で売り文句にもなっているくらいですし、経済的な価値は間違いなく生んでいます。
ただ価値という言葉はとても曖昧模糊としていて、経済的に価値があることは果たして本質的に価値があるという担保になるのか、と問うことすらできてしまいます。
経済的な価値というのは、顧客が喜んでお金を払うならそれで善である、という人間至上主義に基づく自由主義的な思想に支えられているものだと思います。
(もちろん近代以前にも経済はありますから、経済的価値は決して新しいものではありません。しかし現代の経済的価値というのは、旧来の「必要」から生じた価値とは異なり、「欲望」から生じている価値という点で、大きく変質しているように思います。)
しかし、かのホッブズも「万人の万人に対する闘争」と言ったように、人間の持つ自由は必ず互いにぶつかり合います。
100万人以上の登録者を持つYouTube大学の持つ影響力は絶大です。
その影響力の中で、他の人間と利害がぶつかり合う面が生まれているようです。
例えば本業として歴史を研究している識者からすると、事実でない情報を流されることは迷惑かもしれません。
また、歴史という民族意識や現在の国際問題にも絡むセンシティブのトピックを扱っているだけあって、情報を鵜呑みにする大衆の民意形成に大きな影響を与えかねないという懸念もあるでしょう。
民意形成が事実と異なる情報によってなされるというのは、確かに憂慮すべき事態です。
つまり争点は、中田さんの発信自体がどうこうというよりも、その影響力がどう働くかというステージに動いているいえます。
争点は「どんな影響があるか」
どんな影響力があるか、というのが新しい価値の論点なのかもしれません。
それが良い影響ならば、善、もしく価値があるということになり
その影響が大きく長期的であればあるほど素晴らしいということです。
一方悪い影響があるようでは、悪、もしくは価値がないという判断になります。
中田さんのYouTune大学に関しましては…本当に絶大な影響力があるのは間違いないですが‥‥
良くも悪くもといった感じでしょうか。。。
しかも影響の話をするとき、良い影響と悪い影響を総量だけで比較することは適切ではないでしょう。
質的な比較も重要になってきます。
良い影響
中田さんのYouTube大学が絶大な良い影響を持っていることは間違いないでしょう。
- 教育が民主化される
- 学ぶことが好きになるきっかけになる
- 自分で本を読んだりする時間がない忙しい人でも、さらっとざっくりと学べる
- 紹介されている本が売れる
- ノリと小ボケが面白い などなど
特に教育の民主化という現在の流れに完全に乗っていて、それに拍車をかけている点が素晴らしいです。
スタディサプリやスタディプラスといった、教育サービスがITの力を借りて新しい教育の形を作りつつあります。
これで家庭の経済状況や住んでいる地域によるところが大きかった教育格差が底上げされています。
ネット上にそうした媒体が増えるのは間違いなく歓迎すべきことです。
これから安価、もしくは無料の教材がネット上に溢れはじめたら質の競争が過激化し、教材の質は上がっていくでしう。
(もちろん同時に情報を取捨選択するリテラシーも問われますが、まぁどれが良い情報でどれが悪い情報なのかということ自体を判別・喧伝するブログやチャンネルがきっと出てきますから参照できるでしょう。)
悪い影響
一方で悪い影響も考えられます。まぁ全ての事象には表と裏あるだから当然でしょう。
- 表層的な知の在り方しか拡散できない
- 間違った情報を拡散してしまっている
- YouTube大学でしか勉強しない人たちが知った気になる
間違った情報うんぬんが今回の炎上の争点になっていますが、正直それは枝葉末節の問題に過ぎないと思います。
歴史というものがそもそも史実を表すためというよりも、その時々の権力を正当化するために編まれてきたものという側面が大きいですから…
しかもそもそも視聴者はお金を払って観ているわけではないので、中田さんに情報の正確性を担保する「視聴者に対しての」義務はありません。
それ以上大きな何かへの義務の話をするならそれはもはや道徳の問題です。
というか、間違ってたなら直せばいいってだけの話だと思うので。
しかし
情報が間違っている以上に悪影響になりうる問題があります。
それは「表層的な知の在り方を拡散してしまうこと」です。
手軽なやり方で得た知識は所詮手軽に得られる程度のものでしかありません。
ある人が「新聞を1社だけ読んでいる人よりも、新聞を1社も読まない人の方が賢い」と言っていました。
その通りです。何の吟味も判断もなく情報を鵜呑みにしてしまってはそれは知ではありません。
まして問題なのは、そういう表層的に知に触れた人の中には、それだけで全てを知った気になり、賢くなった気になり、プライドばかりが高くなる人たちが必ずいます。
これでより多くの情報を持った、より多くのバカタレを量産してしまうだけです。
「自分はわかっている」と思っているのに実際には何もわかっていない人ほど厄介なものはありません。
楽な情報には飛びつくけれど、本質を知る努力はしません。そもそも知る努力をするに足る知的謙虚さがないのです。
知識への入り口としてとても有用に思える中田さんのYouTube大学ですが、その先を見て勉強出来る人は一握りでしょう。
これでは中田さんの「勉強の楽しさを広めたい」という意向は、部分的にしか叶っていないということになります。(といいつつも、部分的に叶っているだけでも凄いことです。)
視聴者の多くには、YouTube大学はあくまで学びの入り口だから、これをきっかけにその先の勉強を続けていこうという姿勢が備わっていません。
しかしこれは中田さんやYouTube大学自体の問題というより、視聴者側の問題です。
マクドナルドとYouTube大学
以上見てきたように、YouTube大学には良い影響と悪い影響があります。
しかし、影響の良い悪いは動画それ自体以上に、視聴者側に依存します。
やはりここでも問題は人間至上主義に立ち還らなければなりません。
同じ話を繰り返しても仕方がないので、ここでYouTube大学と似たような栄光と批判を辿っているように思われるサービスと比較して考えてみます。
マクドナルドです。
マクドナルドは手軽な価格と形式でサービスを提供するファストフード店ですが、その安さゆえに、味やサービスというカスタマーサービス全般に高い品質を求める人はあまりいません。
YouTube大学も、家で無料で観られる教育チャンネルということで、戦略的にはマクドナルドと似ています。(マックは無料じゃないけどね) だから本来視聴者は授業の質や正しさにやんや言うべきではありません。
これをわかっていない視聴者多いようです。
しかし、物事には限度があり、いくら安いだの無料だのいっても、行き過ぎたサービス怠慢にはケチがつきます。
マクドナルドの食品に異物が混入していたら、いくら安いとはいえ皆怒るでしょう。また、長期的に物を考えたとき、マクドナルドの食品が起こしうる健康被害を考慮して、反対意見を持つ人もいます。
YouTube大学も似ています。いくら無料でも、あからさまに間違った情報が混入していては、怒る人がいます。また、歴史学や政治への長期的にジワジワとした影響を考えれば、反対意見を持つ人もいます。
それではマクドナルドもYouTube大学も、営業や運営を自粛するべきなのでしょうか。
実際的な答えはおそらくNoでしょうね。悪いところだけ切り取って、世の中への貢献を一切無視するのは適切な態度でありませんし
もしここでマクドナルドとYouTube大学に死亡宣告を出すならば、コカ・コーラやポテチのメーカーにも御用となっていただかねばなりません。
あんな食べ物は常食を続けたらいずれ健康に害を与えるのは明らかだからです。
しかし、いかにコーラやポテチが健康に悪いからと言って、コーラやポテチが人に与える美味しさや喜びを一切無視するのは行き過ぎでしょう。
人間は喜ぶなら良い。そういう人間至上社会では、マクドナルドも、コカ・コーラも、ポテトチップスも、そしてYouTube大学も、価値をもっているということになるのです。
結局は上で観てきた好影響と悪影響、視聴者たちがそのどちらにより強く反応するかという問題になると思います。
まとめ
今回の誤った歴史を広めてしまったことによって起こったオリラジ中田さんのYouTube大学炎上騒動ですが
この問題の善悪については、議論好きなネットの皆さんや歴史やモラルの専門家の皆さんにお任せするとして
この記事では、「結局良くも悪くも視聴者次第かなあ~」という雑な結論にしておきます。
YouTube大学を騒動を通して、今回考えたことはその善悪を判定することではなく、「価値」について改めて考えることでした。
人間至上主義の社会では、個々人の心にどう響くのかというのが価値の判断基準になります。
だからものの価値は個々人がそれについての印象から勝手に決めれば良いのです。
しかし対象にものすごい影響力があると話は変わってきて、個々人が自由にその対象に与える価値が、他人の与える価値の基準と衝突します。
今回でいえば「YouTube大学を観て楽しく歴史を学べるんだから間違いが多少あってもええじゃないの派」と「間違った歴史を広めるのは迷惑だし、内容次第では政治や民族教育の問題にもなるから止めてちょ派」の価値の置き方がぶつかり合って炎上となったようです。
(実際にこの炎上の火種になっているのは、中田さんの作り上げた地位への僻みとか、自分が好きで観ていた動画を否定されたムカつきとか、間違ってるところはそれはそれで間違ってるから聞き流せばいいんじゃん俺はそのくらいの賢さと余裕あるぜアピールとか、そういう人間臭い感情だと思うけどね。てか炎上っていつもそうですよね。)
こうなるともはや個人がどう思うかだけではない客観的な価値の判断が要るんじゃないかとも思いました。
その方法は好影響と悪影響を比較すること。
しかし実際のところ、YouTube大学の強力な影響を良いものにするのも悪いものにするのも、視聴者の姿勢によるな‥‥と問題の最初に舞い戻ってしまいました。
僕は結局このチャンネルは、中田さん本人は辞めでもしない限り普通に続けてなんの問題ないと思います。マクドナルドと同じ道をたどることになるんだろうな、と。
手軽で便利だからその層には受け続けるけど、本当に良いものに触れたい人には見向きもされない。(それでも子どものころマクドナルドに行ってハッピーセットにワクワクした気持ちは覚えてるまま…ね。)そして目に余るような問題をはらんだら、社会がそれを指摘して、指摘された部分は改善する。さんざん叩きはするものの、視聴者は減らない。それだけの質は保っている。
個人的には正しかろうが正しくなかろうが構わないから、同じように色んな学問分野の授業や解説が、素人レベルから専門家レベルまで、極左から極右まで、様々な情報がみやすい形でネット上にごった返してほしい・・・(笑)
どれがよくてどれを信じるかは観てるこっちが判断するので・・・^^;
以上になります。読んでくれてありがとうございました。