「世の中、金だよ」
「人生は結局、金」
「お金が幸せのすべてだよ」
こんな言葉をよく聞きます。
ここまで極端じゃなくても
「人生においてほとんどの幸せはお金あれば手に入る」とか
「ほとんどの問題はお金で解決できる」とか
「お金に本当に困ったことがある人は、人生金じゃないよなんて綺麗事言えない」とか
そういう意見は見渡せばそこかしこに溢れています。
僕はそういう意見は否定しません。
しかし、それでも僕は叫びたい言葉は
「世の中は金じゃない」です。
その理由を説明しますので、伝われば嬉しいです。
Contents
「世の中は金だ」という事実
まずこういってしまうと元も子もないし、この記事のタイトルに反するようですが
「世の中は金」です。もはやこれは否定できない事実です。
世の中は愛だとか、友情だとか、夢だとか
そういう考え方も僕は大好きです。その通りだと思います。
しかし愛とか夢とかがどれだけ大事だと強調したところで
お金が大事ではないということにはなりません。
世の中は金でしかない!と言われると反論したくもなるのですが
本当にお金に困ったことがある人の前で、いったい何が言えるでしょう。
お金がないというだけで苦しんでいる人がどれだけいるでしょう。
これは日本国内に限った話ではありません。
しかし一方で経済が発展し、その世界は着実によくなって
貧富の差はあれど、絶対的な貧困というものは徐々に、確実に減っています。
そうした中で、人々の暮らしもどんどん良くなっています。これもひとつの事実です。
お金は本当に多くの問題を解決します。
反対にお金がないだけで起こる問題が山ほどあります。
東日本大震災や熊本地震の時を思い出してみましょう。
善意の寄付で集められた山のような古着が邪魔になり、被災地に余計な負担がかかりました。
準備不足のボランティアが避難所では余計な人員になったケースもありました。これも善意の心から生まれた行動です。
しかし現場で意味を成すのは誇り高い善意の動機よりも、どれだけ実際に現場の必要に応えられるかでした。
本当に素晴らしい善意の心で寄付やボランティア活動をした人が大勢いたのだから、それは尊敬するべきことです。
しかし、書いていて心苦しいくらいですが、心は、活動が功を奏すことの担保にはなりません。
そんなとき常に安定して困っている人の役にたったのはお金でした。
なぜなら困っている現場の必要を100%読むことは不可能だからです。
お金なら必要な時に必要なものに姿を変えます。
国際協力だって、社会問題解決に取り組むNGOだって、いつもお金に困っているのです。
すべての幸せがお金で買えるとは思いませんが、お金で買える幸せはたくさんあります。
働く幸せも、学ぶ幸せも、お金に余裕があるからこそ気づくことができる宝物だと思います。
「世の中は金だ」という言葉の真意
では「世の中は金だ」と声高に主張する人は何を思ってそう言っているのでしょうか。
「世の中は金だ」という事実を言っているだけ?
そんなわけがありません。「水は100度で沸騰する!」と主張する人はいません。自明の理をあえて主張する意味はないです。
ということは、「世の中は金だ」という言葉に議論の余地があるからこそ、主張しているわけです。
「お金よりも大切なものがある」とか「お金なんてなくても幸せになれる」とかいう人もいるから
それに反対したくて「世の中は金だ」と主張する意味があります。
では何故「お金よりも大切なものがある」とか「お金なんてなくても幸せになれる」という考えに反対したいのでしょう。
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「経験」だと思います。
「世の中は金だ」という人は、お金というものの大切さを経験的に知っている人たちだと思います。
お金のことで苦労したことがあったり、お金があったおかげで助けたい人を助けられたり、お金がないせいで大切な人を喜ばせることができなかったり。
そのような経験の上にある人生を生きている人がたくさんいます。
だからこそ、そういう人たちはお金の価値をわかっているのです。
それなのに「世の中は金じゃない」などという綺麗ごとを抜かされると腹が立つのです。こいつは金について経験が浅いな、と思うのです。
しかしここで、「世の中は金だ」と主張する人の気持ちを丁寧に考えてみたいのです。
彼らは「世の中は金だ」とは言いますが「金でまわる世の中が正しい」「世の中は金だ、といえる今の世界が理想的だ」と思ってそう言っているのでしょうか。
そんなはずはありません。
もしそうなら、彼らの「世の中は金だ」という主張に、そんなに感情は乗らないはずです。
彼らもそれが理想的な社会の仕組みではないと思っています。
お金の「ある・ない」でここまですべてが変わってしまう世の中は嫌だ、と思っていたはずです。
しかしどこかのタイミングでそれを諦めたのだと思います。
お金がすべてというのが変わらない世の中の仕組みなら、その仕組みの中で勝つしかないと。
「世の中は金だ」という人たちも、そんなことを言いたくて言っているわけではないと思います。
これは、夢を追って生きる人たちに対して冷ややかに向けられる「現実みろよ」という言葉と似ています。
夢を叶えた人は決して「現実みろよ」という言葉を言いません。夢をみる素晴らしさを知っているからです。
「現実みろよ」という言葉を使うのは夢を諦めた人たちです。
彼らだってずっと夢を見ていたかった。けれどどこかのタイミングで諦めたのです。
だから本心ではどこかで夢を追う人生が素晴らしいと思っていても、そういってしまうの夢を諦めた今の自分を否定しているような気持ちになります。
そして簡単に夢が叶うわけではない世の中を受け入れて、「現実をみる」という生き方を選んだのです。
それでも本心では「皆が夢に向かって走り続けることができる世界なら素晴らしいのに」と思っているわけです。
お金の話もこれと同じで、本心は皆同じ。
お金ですべてが決まり、すべてが手に入る世の中が素晴らしいなんて思っている人はいません。それはお金がなければすべてを失う世の中と同義だからです。そんなのが素晴らしいわけがないです。
しかしその理想論を捨てて、実際にある現実のなかで戦う決意をした人たちが言うのです。
「世の中は金だ」と。
そういう人たちから見れば、「お金よりも大切なものがある」なんていうのは、いつまでも夢を追っている少年か、呆けた理想主義者に見えるわけです。
それでも「世の中は金じゃない」と言う理由
「世の中は金じゃない。」
僕は「世の中は金じゃない」と思います。
というか、そう考えるべきなのだと思います。
ここまで書いてきた通り、世の中の大半お金で回っているというのは事実です。
「世の中はお金だ」という人の考えも僕なりに理解しようと努めたつもりです。
しかし、こんなにも多くのことがお金だけで決まってしまう世の中でいいのか、と疑問を持っている人が大半だというのもまた事実でしょう。
もしそう思わない人がいたなら、それは自分が弱者の立場になったことがないからそう思うのだと思います。現行のシステムの勝利者がそのシステムの欠陥を指摘するには、結構な想像力が求められますから。
しかし僕は
いかに「世の中はお金だ」という言説が強力で、変えようのない事実に見えても、「世の中は金だ」と触れ回るのは違うと思うのです。
「世の中は金だ」という言葉は、言い手と聴き手の両方に「お金への執着」を生むことになると考えるからです。
確かに世の中は金で動いており、お金には価値と力がありますが、それは「道具としての価値」です。
お金の「道具としての価値」は、単純にお金という存在に執着するフェティシズムとは区別されなければなりません。
そして、お金の道具としての価値をしっかりと活用するには、ある程度お金を相対化して捉える必要があります。
道具に過ぎませんので、出来ることと出来ないことがありますし、使うべき時とそうでない時あります。
この道具を絶対視して、道具としてドライに捉えられなくなると、使うべきでない方向に使ったり、変に執着心を芽生えさせたりします。そうすると、お金の道具としての価値は活かしにくくなります。
「世の中は金だ」とう発言はこの傾向を助長すると思うのです。
つまり、「世の中は金だ」と言えば言うほど、世の中は金でしかなくなっていきます。
みんな、お金がすべての世の中で素晴らしいとは思っていません。しかし「お金なんて関係ない」といっていられるほど呑気な世の中ではないので、諦めたのでしょう。
だからといって、理想的な見方を捨てた現実主義者たちが「世の中は金だ」と言ってしまうと
それは自分を、諦めた夢(金で決まらない世界)から、さらに遠ざけることになります。
かつて自分を苦しめたルールの中で戦い、勝てば勝つほどに、そのルールは敗者にとって厳しさを増していきます。
そうして自分に理想を諦めさせた現実の力がどんどん強大になっていく。
いつまでたっても本心では信じたいと思っていた理想にはたどり着けない。
これではいよいよお金がすべての世の中になってしまいます。
だから今こそ「世の中は金じゃない」といって金への執着を捨てることが大切だと思います。
道具としてのお金の価値を最大限活用するためにも、お金への無駄な執着は無用です。
もちろん道具としての金の価値を客観的に見つめて、世界や自分の人生を豊かにするために上手に利用していく術を身に着けることも同じく大切です。
しかしそれは「世の中はお金だ」という言葉で伝えられるものではないのです。
まとめ
生まれた国の経済力で人生が決まる。
親の経済力で受けられる教育が決まる。
これはある程度は仕方のないことだと思いますが、絶対のことでもありません。
世の中はお金という面が多分にあるということを何度も行ってきましたが、お金の影響を排除して、皆が経済状況に左右されずに生きられる世界に近づいてきていることも事実です。
貧富の差は拡大していますが、それは富裕層の突き抜け方が過剰になっているだけで、貧困層がますます貧困化しているわけではありません。
実際に日本では、昔には貴族しか出来なかった読み書きが、時代を経て武士や商人階級にも広まり、いまやほとんどの国民が義務として教育を受けることができます。これは経済状況とは関係なく享受できる教育です。
理想を捨てないことで、漸進的な進歩はみられています。
「世の中はお金だ」と現実をみて賢いふりをしているだけでは、何も変わることはないと思います。
だから、まだまだ世の中は金で決まってしまっている今だからこそ
世の中は金じゃない と叫べ。
読んでくれてありがとうございました。