あなたは自分に自信がありますか?
謙虚に振る舞ったほうが感じが良いとわかっているから表面上は謙虚だけど、実は内側では自信満々な人。
自信ありげに振舞ってはいるものの、本心ではいつか自分が大したことのない人間というのがバレないかとビクビクしている人。
根拠のない自信を持ちがちで空回りしてしまう人。
もう十分立派なのになぜか自分に自信が持てない人。
いろいろな人がいると思います。
今回は
「自信がない人は攻撃的で、差別主義的になってしまう」というお話。
Contents
2種類の自信
![](https://jironkuron.com/wp-content/uploads/2020/02/timothy-eberly-28S1UBUM7aQ-unsplash-1024x683.jpg)
この世には2種類の自信があります。
ひとつは文字通り、自らを信じる、自己完結型の自信。
もうひとつは、他人に自分を信じさせるために見せつける、飾りとしての自信。
前者の自信を持つことが理想です。
幸せでありたいなら、人間の価値感は自分軸であるべきだからです。
(もちろん他人に迷惑をかけてもいいというわけではありません。)
自分で自分を信じる自信をつけるには、努力に基づく確かな成功体験を積み重ねるしかありません。
このプロセス以外のやり方で得た自信というのは不適切なものです。
例えば大した努力もせずに成功して、実はそれは周囲の人のサポートのおかげなのに、それにも気付かず自信満々になってしまったり。
とはいえ、いきなり大きな成功に足るような努力を出来る人はいません。
だからこそ、最初は小さなことでいいのです。
これに他人の評価など関係ありません。
小さな小さなことでいいので、何かを達成するのです。
新しいことに挑戦してもいい。
できないことを練習してできるようになってもいい。
身近な人を喜ばせる何かをするのも良いでしょう。
特にそういうことを、他人に見える形ですることが大切です。
他者の目があると人間は頑張れます。
少しでもよく見られたいという、一見卑しい気持ちを、プラスの方向に転換しましょう。
必ずよく思ってくれる人がいますし、運が良ければ褒めてくれる人もいるはずです。
このように自己肯定感を徐々に高めていけば、少し前の自分には到底信じられなかったような挑戦に、立ち向かう気概がだんだんと生まれてきます。
これが本当の自信です。
他人の目という力を借りることもありますが、あくまで自分が信じられる自分になるプロセスだということに注意しましょう。
一方で他人を信じさせるための自信はニセモノです。
もちろん失敗のできない仕事などでは
自信を持ってみせることが必要なときもあるでしょう。
しかしそれも、
本当に自分を信じる自信から滲み出るものでなければなりません。
取り繕った自信は、いつかボロをだし、帰って信用を失います。
さて、表題にも書いたとおり
今回の話の焦点はここです。
他人に見せつけるためのニセモノの自信しかないことは、他者への攻撃性に基づく暴言や、排他性に基づく差別主義に結びつくことがとても多いのです。
自信がない人の攻撃性
![](https://jironkuron.com/wp-content/uploads/2020/02/kyle-glenn-coOZa2c1ss4-unsplash-1024x683.jpg)
なぜ自信がない人がそのような攻撃性を持つのでしょうか。
自分の意見を言わず、片隅で大人しくしているようなのが、自信のない人の姿なのではなかったでしょうか。
一見すると、攻撃的な人のほうが大人しい人よりも自信満々のようです。
しかし、断言しますが、
本当に自信がないのは攻撃的な人のほうなのです。
彼らの間にある違いは、
「自分を直視しているか、自分から目を背けているか」です。
自信なさげに大人しくしている人は、内側では自信のない自分と勇敢に戦っています。
一方で、攻撃的な人はあまりに自信がなく臆病であるため、その不都合な自分から目を背けるのに夢中になっています。
その手段が、他者への攻撃と排他的な思想です。
まず、この世に完全無欠な人間などいないという事実には誰もが頷けると思います。
つまり誰しも欠点に溢れているということです。
それは、他人の欠点を指摘することは、なにも難しいことではないということでもあります。
しかし、最近ではクリティカルシンキングなるものが祭り上げられており、それを勝手な解釈で振り回す人が多くいます。
あえて反対の視点をとって物事の改善をしたり、おたがいに指摘をしあうことで本質的なものに近づく対話をしようというのが、本来のクリティカルシンキングの目的です。
決して誰にでもわかるような批判をして、自分の正当性や正義感を誇示するためにある思考法ではありません。
さらにインターネットが発達し、誰もが気軽に匿名の発信者になれる環境が整ったせいで、事態はさらに酷い様相を呈しているようです。
インターネットによって、「批判の打ちっぱなし」が可能になりました。
しかも著名な人間や、周知された集団に対して、匿名の個人が安全地帯から批判の弾丸を無条件に打ち放題なわけです。
このような構造が極めてアンフェアであることは、これまでにも散々指摘されてきました。
しかし、それが名もなき攻撃者である彼らの自信の問題と何の関係があるのでしょう。
まず、名もなき攻撃者は、集団として存在するということがいえます。
彼らはひとりではなく、同じように自分に自信がない人々が無数に存在します。
彼らは常に虎視眈々と、自分たちより知られた存在の非を批判することで、自分たちの知性や倫理観を相対的に高めた気分になるチャンスをうかがっています。
(言うまでもなくそんなものは知性でも倫理でもありませんが。)
他者軸で生きているのに認められることがないので自信がない彼らにとって、他の人が注目を浴びるのなど許せん事態です。早く叩いてやらねば。
そして批判が成功し、それが多少の的を射ていると、同じようなルサンチマン(僻みみたいな意味だと思ってください、詳しくはググってください)をためこんだ名もなき攻撃者集団がそれに同調します。
こうして自信のない人は、攻撃という手段を持って束の間の他人軸の自信を得ることになります。
これにはクセになるような快感が伴うそうです。
インターネットの世界の話が長くなってしまいましたが、このような攻撃性はオフラインの世界でも同じです。
自信がない人ほど「わかっている」スタンスで話します。「わからない」という当たり前の状態を認められるほどの揺るがぬ自信を自分の中に持っていないからです。
他者軸の自信に頼る人間は、永遠に他人が自分をどう見るかという、自分ではコントロールできない変数に怯えながら生きることになります。
「他人が自分をどう思っているか」ばかりに囚われて自分をみてはいけないのです。
自分が正しいと証明するためだけに話す人、自分の知識をひけらかすためだけに話す人、誰かの言っていたことを自分の意見のように話す人。
そして
「じゃああなたは何をやってるの?」
「今は何を頑張ってるの?」という質問に答えられない人。
彼らは誰よりも自信がありません。
それと向き合う勇気もありません。
そして人にばかり否定的なことを言う一方で、自分では何の努力もしていないのです。
だからこそ自信がないままなのです。
自信がないのは決して悪いことではありません。
誰もが直面することのある悩みです。
他人を責めて誤魔化したくなる気持ちもわかります。
とても自然な感情です。
しかしだからといって
それを理由に他人を攻撃したり、差別したりして良いと言うことには決してなりません。
自信がないのであれば、その事実や理由としっかり向き合い、相克すればいいだけです。
世の中で言われる綺麗事や正論は、悩み苦しみ、覚悟し行動して、ようやく腹落ちしてくるものです。
結局は自分が動くしかありません。
一方で、他者批判のすべてが悪ということもありません。
ただし
批判をするのであれば
改善まで寄り添う真心が必要です。
文句を言うのであれば
問題を解決する案を自分なりに考え、提案するべきです。
そういう姿勢があれば
批判も文句も
建設的な議論や、ひいては問題の解決につながる大切なひとつの意見になり得るのです。
しかしながら、現実にそのようなことができる人は多くありません。
自信がない人の差別主義
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自信がない人は、攻撃的であると同時に、差別主義者になりやすいと言いました。
差別という行為は
自分を強制的に安全地帯に置くための最も手軽な方法です。
自分は変わらなくても、他人を蔑むことで、自分の位置を相対的にあげるという点で、他者攻撃と同じく機能します。
差別の最も歪んでいて許されざる点は
差別は常に、本人には変えようがない性質か、本人から変えたくないような性質を対象としていることです。
肌の色、セクシュアリティ、障がい、国籍など。
どれも変えたくても変えられない性質や、本人のアイデンティティと結びついているものばかりです。
差別する側と差別される側の線引きに、豊かな人間的活動が入る余地はありません。
そして差別する側に入ってしまえば、それで安心感や優越感を得られるのです。
実に愚劣な態度なので、今すぐに直すべきです。
差別主義者は差別主義者に生まれついたわけではありません。変わることができます。
最近では、グローバリゼーションが市民レベルでも加速度的に進み、日本国内にも外国の方が増えてきました。
同時に日本はバブル崩壊以来、経済的に停滞し、凋落の色が濃くなりつつあります。
150年前
ペリー来航で近代の衝撃を食らった日本は、なんとか西洋列強に肩を並べようと自己変革に努めました。
一時には実際に列強のひとつのように振る舞いもしました。
しかしその国家としての自尊心は第二次大戦の敗北によって破壊されます。
その後、奇跡の戦後復興を経て、GDPは世界2位につける空前の発展をみせることで、日本の自尊心は不死鳥のように蘇りました。
このプロセスで「過去を否定することで現在を肯定する」という自虐史観が生まれます。
しかし再び凋落しつつある日本。
今回は戦争のような外圧によってではなく、ジリジリと続く、鈍い凋落です。
そして同時に、これまで不当にも見下し続けてきた隣国が、日本を追い抜いて発展していくのです。
そこに見られるのは、明らかな日本の自信喪失。
このような状況で高まっているのが、ナショナリズムです。
特定の対象を蔑む差別主義と、自らの国こそが正統とするナショナリズムは、尊卑の焦点の置き方は異なりますが、信じる人間の精神には、似たような作用ももたらします。
自信がないからこそ、ナショナリズム―つまり国民国家という想像の中にしか存在しない共同体とその成員を賛美する思想―を掲げ、自分の価値を担保しようというのです。
これは自信がない人間が他者に攻撃の刃を向けることで得る安心感や優越感と、同じ性質のものです。
努力や選択によって日本人になったわけでもないのに、歴史・文化・日常の素晴らしくみえるところだけを切り持って、「日本って素晴らしい」と言わずにはいられないのです。
共同体を営む以上、その成員が共同体への愛着や正義感を持つのは自然で、必要なことでもあります。
しかし、それが排他的な選民思想につながるのであれば、正当化することはできません。
それでも実際にナショナリズムは市民レベルで静かに確実に広がっています。
国号が平成から令和に変わり、天皇家という「国体」が存在感を増しています。
天皇家が象徴という存在以上に舞い戻ることはまずありえませんが、こういう象徴が政治利用される恐れは十分にあるということは、知っておく必要があります。
さて、話がずいぶん政治よりになってしまいましたが、やはり国家や民族という単位で見ても、自信がない状態が排他的な差別主義につながるという傾向は否めません。
最近はGDPがどうだとか、一人当たりの生産性がどうだとか、日本の文化がどうだとか、なんでもかんでも他国と比べて批評したがる人がとても多いです。
これは、他国と比べて日本はすごいというナショナリズムの現れであるというのが一面にあります。
そして全く反対の面として、「日本の凋落を指摘している私は偉いんだぞ」という他者に自らを認めさせようという、本来的な自信のなさからくる攻撃性の発露でもあります。
自信がない国に、自信がない人が集まって、なんだか歪んだことが起きているのです。
また、排他的な傾向は、世界的に見られている現象でもあります。
トランプ大統領が最たる例ですが、ヨーロッパでもイスラーム圏からの移民の流入で、イスラモフォビア(イスラム恐怖症)が民衆に広がりつつあります。
冷戦時代から現在まで、イスラームへの恐怖感は、アメリカを中心とするメディアコントロールによって高められてきました。
これは、難民の大移動や21世紀の戦争形態ともなりつつあるテロリズムによって、市民にも実感として迫っています。
イギリスのEU脱退の決議には、この反イスラム感情が大いに利用されました。
前述のトランプ大統領の当選も、自信を喪失した層に「Make America Great Again」と叫ぶことで彼らを扇動しました。
すでに個人の自信喪失や、それにともなう排他的な感情は、政治利用されているのです。
さらに決定的な話をすれば
アドルフ・ヒトラーも第一次世界大戦に敗北し、絶望的な賠償金をされたドイツから生まれた人間です。
天文学的なインフレ起き、ドイツ経済がボロボロになったいた状況でナチ党のような思想が大衆の支持を得る世論が醸成されたのです。
自信を失い弱った市民の寄りどころとして
「人種」という安易で形骸的なエサをまいたということです。
ゲルマン民族の血統を優性として自信を再建しようとした結果が、
ユダヤ人、社会主義者、ロマ、障がいをもつ人などを徹底的に弾圧し
あのような悲劇に繋がりました。
グローバリゼーションが安全に市民化した現代において、自信のない人や集団が反動化し、差別主義が横行し始めてします。
インターネットというボトムアップの社会変革の土壌にもなりうる道具を、大衆がうまく使いこなして反動に抵抗していくのか。
それとも大衆はネットの情報に利用され、これまでのようにメディアにコントロールされるのか。
全員が試されています。
まとめ
個人の内面の話からネット世界や世界情勢の話まで
ずいぶん話が発散したようですが、結局世界は個人の集まりでしかないので、どのような問題も個々人の内面と関わり合いがないはずがありません。
そして人間のあらゆる感情の中でも
「自信」というものは個人の尊厳に関わるので、人間のものの捉え方や、外部との接し方に大きな影響を持ちます。
個人レベルでも、集団レベルでも、
自信がないという状態は、他を攻撃し、差別し、傷つけるだけでなく
周囲の人間の判断に振り回されたり、悪意を持った者に利用されたりと
基本的にいいことはありません。
そして最初に書いたように
本当の意味での自信をつける方法は
自らの行動で小さな成功体験を積んでいくしかありません。
他人が何を思うかに囚われたり
楽にうまくいくという方法に踊ったり
他人に文句を言って憂さ晴らしをしたりしていては
決してなりたい自分にはなれません。
怖くても動くことでしか、自分を変えていくことはできないのです。
ひとりひとりが誠実に努力と行動を続け
互いに肯定と、時には真心のある批判し
小さな成功や達成を重ねることができれば
人が傷つけ合うことや
不当な差別が生まれることは
確実に減らすことができます。
小難しい話、説教くさい話、断定的な物言いが多くなりしたが、僕もまだまだ道半ば。この文章も自分へのメッセージとして書いているところもあります。
しかし第一には
この文章は、自分に自信が持てないあなたに向けて書いています。
理想的な自信をもった人間が
互いに連帯・協調し
依存することなく支え合う世の中を
僕は「独立共歩」という造語で表し、座右の銘としています。
そんな世界を支える一員であれるよう
今日も僕は小さな成功に向かって
ちょっとずつ歩きます。
共に歩きたいと思う人がいて
この文章がその一助になることを祈っています。
最後になりますが
この文章は
「自信がない人は皆攻撃的だ」
「自信がない人しか差別主義者にならない」
などということを断言するものではありません。
物事は複雑で
単一条件から単一結果が出るものなどほとんどありません。
この前提を踏まえて解釈していただけるよう
ご容赦を。
では、長い文章を、最後まで読んでくれてありがとうございました。