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「幸福」は「計算」とは別の世界にある
僕がつねづね自分に言い聞かせている言葉です。
座右の銘のように大切にしている言葉がいくつかあるのですが、そのひとつ。
知人と話すことがあると、みんなもう評価されることや贅沢な暮らしを手に入れることよりも
いかにして幸福に暮らすか
という視点で生きようとしている人が多いです。
僕たちの世代は、物心ついたときから物質的に満たされていました。
その一方で、この国が凋落をはじめ、暗く包まれる前途に向かって進むしかない時代に育った世代でもあります。
最低限の物質的な必要を満たすのは容易いですが
がむしゃらに稼ぐだけでは幸福感が増えないことを経験的に知っています。
これは僕の考えですが
きっと今のこういう現状のほうが普通なんだと思います。
日本は戦後の発展の中で、何をやっても成長し、どんどん生活が良くなり、土地の値段は泡のように膨らむ中で、狂乱の数十年を経験しました。
その異様な時代が生み出した一時的な価値観の名残が、「常識」という名の衣をまとって現在まで香っています。
しかし、歴史を通してそのような一時的な幸福の源泉というのは移り変わってきました。
そして一時的な価値観も、時代の過渡期を迎えると徐々に説得力を失い、人は改めて考えます。
幸福ってなんだろう。
人は宗教を信じて幸福になったのか。
戦争を信じて幸福なったのか。
民族を信じて幸福になったのか。
経済を信じて幸福になったのか。
他人を信じて幸福になったのか。
自分を信じて幸福になったのか・・・。
永遠のテーマである「幸福」
「幸福」について考えるとき、僕が胸においている言葉が今回のテーマ。
「幸福」は「計算」とは別の世界にある。
川沿いの家に住んでみて
僕が「幸福は計算とは別の世界にある」みたいなことを考えるようになってからは数年経っていますが
その考えがこの短い言葉にまとまったのはほんの数か月前です。
僕が川沿いにある今の家に引っ越してきたことがそのきっかけでした。
僕は現在、都内郊外の多摩川沿いに住んでいるのですが、職場は多摩川の向こう岸。
だから毎朝毎晩川沿いの遊歩道を20分ほど歩いて職場まで行っています。
これは僕の通勤通学史上最高のひととき。
良く晴れた日に川沿いのひらけた空間に空がまんまると広がって
視界の遠くには富士山が見えるし、サイクリングやジョギングをしている人がチラホラいて
お散歩中の犬がいて、穏やかに流れる川には水鳥が数羽。
正直、川の近くに住むのがこれほどの多幸感をもたらすとは思いませんでした。
今までも満員電車に乗って過酷な通勤通学をしてきたわけではありませんが
通勤通学は所詮、面倒な「手段」の時間でした。本を読んだり、音楽を聴いたりする時間。
しかし現在は通勤時間はもはや半分「目的」の時間です。
別に仕事が楽しくて仕方ないわけではないので休みのほうが嬉しいのですが、「通勤」はしたいのです。
それ自体がとても幸せな時間だから。
だから最近は休みの日でもわざわざ同じ道を歩いたり自転車に乗ったりしている始末。
しかし、今から思い出すに、ここに引っ越してくる前には、僕は今とは全く違う考え方をしていました。
「川沿いに住むのはリスクだ」と考えていたのです。
2019年晩夏~秋の巨大台風
僕が今住んでいる川沿いの家に引っ越すための手続きをしてすぐのこと。
2019年9月の台風15号、10月の台風19号が関東地方を猛烈な勢いで襲いました。
千葉県北部にある僕の実家も数日間停電してなかなか大変でした。
より甚大な被害を受けたのは15号では千葉の南部、そして19号では関東広域の主流近隣の地域だったと記憶しています。
僕がいま住んでいる地域も、多摩川の氾濫によって浸水していたようです。(僕が引っ越してくる頃にはすっかり元通りでしたが、河川敷にはなぎ倒された木や植物が溜まっていました。)
僕に実家の近く川も15号の時には氾濫し、最寄り駅の周辺は完全に水没していました。このときに僕も、家族も、友人も皆、「川の近くは危ないね」と口を揃えていました。
無理もありません、画面越しに見る川沿いの地域は、破滅的な被害を受けているようでした。
僕が現在住んでいる多摩川沿いの家は、もともと数か月だけの仮住まいです。
諸都合からすぐにまた別の場所へ引っ越さなければならないので、短期間なら川沿いでも心配ないだろうと思い越してきました。
2019年の台風ほど巨大なスケールのものは何十年に一度といいますが、近年の気候変動によって、この規模の台風は毎年のようにやってくるようになるという見方もあります。
そう考えると、川沿いに定住するのはやはりリスクが大きいと思いました。
川沿いに住む人にそのリスクを教えても…
しかし、実際に住んでみたら僕の川沿いに住むことに対する考えは180度変わりました。
冒頭に書いたような幸福感を、川が与えてくれようとは想像していなかったからです。
引っ越してきてから初めて晴れた日に川沿いを歩いた時に
僕は「計算」の世界から「幸福」の世界にうつったのだと思います。
河川敷で散歩する犬や友達と歩く学生を見るたびに、そして自分がそこを自転車で駆けるたびに
リスクなどという計算の世界を離れて、ただ論理も理由も求めない幸福の世界に浸っていく感覚があります。
理屈ではそのリスクをわかっていても、今はもうこの場所を離れなければならない日が来るのか寂しいという想いばかりです。
だから僕は思うのです。
「川沿いに住む幸福を知った人にそのリスクを語っても無駄だ。幸福とは計算とは別の世界にあるから。」と。
計算と幸福、どちらの世界で生きればいいのか
今回は「川沿いに住む」という話を中心に「幸福は計算とは別の世界にある」という言葉を意味を書いてきましたが
これに当てはまる例は僕たちの身の回りに溢れています。
ダメな男とわかっていてもその人とずっと一緒にいてしまう女性や、甘やかしてはいけないと思いつつも孫にはなんでもやってあげてしまう祖父母…
僕たちの理性がだす要請と、心が流れていく幸福への道は、頻繁に矛盾を起こします。
そんなとき「計算」の世界と「幸福」の世界
僕たちはそのどちらを選んで生きていけばよいのでしょうか。
僕はこの永遠のテーマについて
- 形式を重視するときには「計算」の世界
- 本質を重視するときには「幸福」の世界
- 将来を意識するときには「計算」の世界
- 現在を意識するときには「幸福」の世界
- 心が健やかなときには「計算」の世界
- 心が弱っているときには「幸福」の世界
を選んで生きていくのが良いと考えています。
そして、幸せな人生の下地になるのは計算の世界から生まれるものですが、幸せな人生をつくるのはもちろん幸福の世界のものです。
両方の世界を乗りこなせるのが一番良いと思います。
しかし最近の世の中はせかせかと忙しく、地位や名誉や実績ばかりを重んじ、経済的なプレッシャーを互いに掛け合って疲れています。
「計算」と「幸福」のバランスが崩れて、「計算」の世界ばかりが肥大化しています。
「計算」には、「幸福」の必要条件である一定以上の豊かさをもたらす力があります。
日本は裕福な国です。お金持ちになっても「今のような暮らしができなくなるかも…」という不安は消えません。一方でほとんどの日本人は、「幸福」の必要条件となる豊かさはすでに満たした生活をしています。
だから今はもう「幸福」の世界に戻ってきても大丈夫です。
特に「計算」の世界で無理しすぎていて、それが合わないと思っている方は、「幸福」の世界に帰りませんか。
川が氾濫するリスクばかりを考えて、川沿いに住む幸福感を捨ててしまう。
そういう選択ばかりでは生まれてきた甲斐がありません。
計算を捨てて、幸福を選ぶ回数が、もっと増えても良いと思うのです。
その選択に「計算」の世界で話している人が何をいっても仕方がないのです。異なる世界の話をしているのですから。
では、「幸福は計算とは別の世界にある」って話でした。
読んでくれてありがとうございました。