本や読書のこと

【書評】『愛するということ』エーリッヒ・フロム~愛は技術である~

このブログでもボチボチ書評なるものを始めてみようと思います。
英語の基本動詞について語りすぎてるので
ちょっと話題を散らす。。。笑

今回はドイツ出身の心理学者エーリッヒ・フロム
『愛するということ』

人類普遍の感情の中でも最も高尚かつ重要なものと思われる
「愛」についての綿密な考察です。

僕は年間に100~150冊ほど本を読みますが、今まで読んできた本で、間違いなくTOP10に入るの素晴らしい本です。
義務教育を終えた記念に中学の卒業式で全員に配るべきです。
二度と使うことのない謎の証書を配って場合ではありません。

フロムといえば主著『自由からの逃走』が有名です。
こちらは僕は読んだことはありませんが、どちらかというと社会学・哲学よりのお堅めな文脈で耳にすることが多い名著です。

しかし『愛するということ』に関しては、心理学などの学問的専門知識がない人でもスラスラ読めます。

途中ちょっと専門的な話に寄ってきたな、というところはあるものの、門外漢の人でも最後まで問題なく読めるはず。
フロイト派の基礎知識やキリスト教的な考え方を理解しているとさらに読みやすく学びも多いと思いますが、僕の心理学の知識も大学初年度の導入科目を受けた程度のものでしたが、楽しく読めたのできっと大丈夫。

内容は全部で4章構成。

Contents

1章「愛は技術か」

心の奥底から愛を求めているくせに、ほとんどすべての物が愛よりも重要だと考えているのだ。成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされ、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのである。

『愛するということ(新訳版)』(エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳 紀伊國屋書店)

フロムは、愛は突然落ちるロマンティックな心理状態でも、心から自然と湧き上がる感情でもないと看破します。
それではいったい愛とはなにか…?
フロムは「愛は技術である」といいます。そしてそれは能力として「習得可能なもの」だと。

こういうととても人間味のない意見に聞こえますが、そうではありません。
フロムが言うには、人間が幸せに生きるために最も重要なだということが自明な愛という要素について、なんの努力もなしに受け身で得られるものだと考えることこそ致命的な勘違いなのです。
愛と誠実に向き合うには、愛するということを良く理解し、実践し、習練する必要があります。

このように書かれると、確かに、という気がしてきます。
恋愛、親子愛、兄弟愛、友情、博愛。愛にもいろいろありますが、愛がない生活に耐えられる人間がいるでしょうか。反対に、愛に溢れた人生でそれでも不幸を感じる人がいるでしょうか。
愛こそはすべてというのは、普遍的に繰り返し、あらゆる芸術で表現されてきたことです。

それなのに、愛するということについて一切の能動に学ばず取り組まないことこそ、むしろ愛に欠けた人間味のない姿勢なのかもしれません。

2章「愛の理論」

“愛とは特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体ににたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。”

“一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。”

『愛するということ(新訳版)』(エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳 紀伊國屋書店)

ここでは、人間の永遠の目標は個体として生まれた孤独を解決するために他者と結びつくことだという命題から論が進められていきます。
男女はもともと一人の人間で、2つに分けられて男女として生まれてきた者たちはお互いに自分の片割れを探してさまよっているという神話と似ている考え方ですね。
フロムのいう愛は男女の異性愛にはかぎりませんが。

とにかく人間はこの孤独を埋めるために、集団に同調したり、燃えるような恋愛に身を焦がしたり、アルコール・ドラッグ・儀式などでトランス状態に入ったり、セックスをしたり、創造的な活動を行い共感を呼んだりと、さまざまな手段を講じます。

しかしこれらの活動はすべて誤魔化しであり、本当の人間同士の一体感への道にはならないといいます。
そして本当の人間同士の一体感を実現するものこそが愛の実践です。

ここから論はマゾヒズムやサディズムが発生する精神状態を簡単に紹介し、愛とは配慮・責任・尊重・知などの要素をまとった「与える力」だという主張へつながっていきます。

この2章「愛の理論」はこの本の大半を占める長い章です。
愛を理論的に定義したのち、キリスト教的な教えを踏まえた分析や、父と母という自分を存在させ、自分に最も影響力のある愛の存在についての関係を綿密に語ります。そして僕たち人間が精神的に成長していく過程を愛の視点から描きます。

その後、親子愛、兄弟愛、性愛、自己愛、神への愛など、愛の対象別に分析を行い、2章は閉じます。ここらからフロムはフロイトの論にも鋭いメスを入れていきます。

3章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」、消費することだ。(中略)物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象となっている。

『愛するということ(新訳版)』(エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳 紀伊國屋書店)

この章では、愛が現代の資本主義社会、大量生産大量消費社会のなかでどのように変質したかが語られます。ここの内容は心理学というよりも社会学よりで、マルクスなどのいう「人間疎外」の理論を援用し、人間の商品化が起こったのでより本来の形から遠のいた愛が、本当の愛だと誤解されはびこっていると主張します。

これには本当に同意できました。
共産主義者としてのマルクスはともかくとして、資本主義社会の分析者としてのマルクスの功績には、現代でも学ぶものが多いと思います。特に人間疎外については。

人間疎外というのは要するに、人間が人間ではなくなるということです。
マルクスの時代は産業革命直後で、多くの人間が工場で機械のように働きました。
つまりそこには、同じ動きを繰り返していれば誰がいても同じなのです。

そうした労働環境では、労働者は言われた作業をすればいいので、自分の意志は必要ありません。こうして労働者は作業から疎外されます。そして、誰がそのポジションに入っても出来る商品は全く同じくなるように生産ラインが標準化されていますから、商品からも疎外されています。さらに、こうなってしまうと人間はほとんど機械の一部ですので、他者のまなざしからも疎外されていくのです。

ちなみにこの人間疎外をコメディ映画にして、社会に問題として訴えかけたのがチャールズ・チャップリンの『モダン・タイムス』という作品。
工場労働者に扮したチャップリンが陽気に歯車の中を流されながらも作業を続けるシーンは、観たことがある人も多いでしょう。あのシーンは、資本主義的生産様式における人間疎外を揶揄しているのです。

フロムはこのような疎外化が愛においても起きているというのです。
映画やドラマのせいでロマンティックな恋愛が形式化され、それに作られた異性像に近いかどうかで愛するかどうかを決める人が増えました。さらに職業や年収など、資本主義における価値の指針に愛のまなざしも歪められます。

ここではもはや人間同士がそのものとして一体化するチャンスはありません。
だからこそ経済が発展した今だからこそ増えている現代病が多いのでしょう。
誤魔化しの愛が溢れすぎて、それに一瞬気が付いた時に、精神を病む人が多いのです。

しかしそれも、愛を愛されるということと思っているから起こることです。
愛とは愛するということです。

章題では現代西洋社会と言っていますが、もはや商業のグローバル化が完成した今、同じ分析は日本にも有効でしょう。

4章「愛の習練」

一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

『愛するということ(新訳版)』(エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳 紀伊國屋書店)

この章には日ごろ僕たちが忘れがちな、素晴らしく大切なことが書かれています。
是非買って読んでほしいところです。

ここでもやはりフロムは愛を抽象的な観念としてではなく、具体的な技術として論じます。

まず、愛の習得には「規律」が必要である。つまり気分が向いた時に趣味的に取り組むのではなく、一流を目指すピアニストが規則正しく、気分に関係なく練習を続けるように、愛の習練を積む必要があるということです。

相手に腹が立ったり、疲れていたりするときでも、愛するという意志を貫かなけば本当の意味で他者との一体化には至れないというのです。これは、結婚してしばらくすると相手の嫌なところが見えてきてどんどん心が離れているというシナリオを想像するとわかりやすいです。嫌な時や疲れている時にどのような姿勢をとれるか、ここに愛の本質があるというのは頷けます。

次に必要な要素は「集中」。集中力をもって愛に臨む前提条件として、フロムはひとりでいて平気であることをあげます。ひとりというのは、テレビや本や音楽などの刺激もなしに、ただじっと座っているということです。

近年では僕たちの周りは情報であふれており、一瞬でも暇があればスマホで世界と繋がれます。そんななかで、ただじっとしているという行為がどんどん苦手になっています。だからこそ、インスタグラムなどの写真という文章よりも脳が処理しやすいビジュアルイメージを矢継ぎ早に流して、脳への刺激を休みなく注入するようなサービスが爆発的に受け入れられています。

ヨガが瞑想がブームになり始めているのも、現代人の情報疲れによる反動なのかもしれません。

同じ理由でフロムは「忍耐」についても語っています。現代社会のサービスは、いかにお客様に忍耐させないかという競争になっています。なんでも遅いより早い方が美徳とされ、余った時間で何をするかといえば新しい別の刺激を求めるだけ。さらにひどい場合は、せっかく短い時間で済むようになっても、余暇で心を整えるのではなく、全体の生産量を増やして、さらなる利益に走るのみです。これでは孤独への忍耐力は失われて当然です。

そして最後に「最大の関心をもつこと」。好きこそものの上手なれではありませんが、愛するということに価値を置き、最大の関心持って臨まなければなりません。

フロムも愛の実践として瞑想を進めています。確かになにもせずに、何も考えずに、ただ自然と存在することはますます難しくなっていると感じます。メディアや娯楽が発達したので、時間と場所に関係なくいろいろな刺激を得ることができます。

その代償に、僕たちは「現在」の「この場所」に没頭することにどんどん苦手になっています。集中力は散漫になり、ゲームや動画のような過剰な刺激を流し込んでくれる対象にしか没頭できません。

しかし本来は、人と話すときはその会話に、本を読むときは言葉や絵に、音楽を聴くときは音に、街を歩くときは景色や空気に、食事の時は味と香りに、全神経を集中して、没頭するべきなのでしょう。

僕はこういうのがどんどん苦手になっている自覚があります。この文章を書いているときも、何度別のことに気を取られて机から離れたかわかりません。
もっと規律・集中・忍耐・関心をもって、愛の実践に取り組む必要性を強く感じます。すべての瞬間を生きて、与える力を知るべきだと感じました。

終わりに

“人々の目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。それが生きる目的になってしまっている。”

“愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。”

『愛するということ(新訳版)』(エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳 紀伊國屋書店)

書評というよりも内容の紹介になってしまいましたが、この本は僕の人生で何度でも読み返す座右の一冊になるでしょう。

線を引きながら読みましたが、気が付けばほとんどすべての文に線を引いていたページもあるくらい、学びにあふれる内容でした。

内容的に自己啓発系のビジネスに利用されそうな感もありますが、こういうものは個人で読んで個人で考えて、納得し、実践するしかありませんから、『愛するということ』のような古典を読むことは、決して本質からは外れないと思います。

強調してもしきれないほどオススメです。
僕は読んでいる時、鳥肌立ちまくりの唸りまくりでした。

是非、時間がなくても読んでみてください。
いや、時間がないと感じている人ほど、一歩自分の狭い世界から離れて、このような本に浸り、生きるということを見つめ直す時間が必要だと思います。

あなたの人生のお供となる本かもしれません。
僕にとってそうなったように。

では以上、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』について書きました。
最後まで読んでくれてありがとうございます。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。