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【ネタバレ映画考察】『別離』~嘘と信仰がすれ違い続けるイラン映画~

2011年にアカデミー賞の外国語映画賞を獲得したイラン映画『別離』を見ました。

タイトルの通り、夫婦の別離、つまり離婚をひとつの軸として物語が進みますが、話の中心はむしろ夫婦が家政婦として雇った女性との裁判です。

離婚問題だけでなく、嘘と真や、優しさの種類、イランにおける神との関係、イラン社会が抱える貧困の問題、そして人間ひとりひとりの自己正当化・自己欺瞞など、さまざまな問いが詰め込まれています。

日本からするとなじみが薄く、隣国イラクと混同し、危ない国だと思っている人も多いイラン。宗教も文化も言語も、日本人にとっては珍しいものだらけなので、異国の景色や生活を垣間見るだけでも非常に興味深い映画です。

僕は個人的にイランには遊びに行ったことがあり、現地の友達もいますが、久しぶりに見るイランの風景はとても懐かしく感じました。

とくにイラン茶やイランの人がよく食べるピタパンみたいヤツをそこかしこで見かけたり、車のナンバーにペルシア数字がみられたり、ペルシア語の疑問形の独特の響きだったりと、いろいろ思い出す記憶が多かった。

イランについては個人的に結構考えていて、思い入れがある国です。ちなみにこのブログを始めると決めたのも、上に書いたイラン人の友人から経済制裁下のイランの実情知らせれ、それを日本語でも伝えるべきだと思ったからです。

「今の君の話を伝えるために、帰国したらネット上で文章の発信をしていくよ」と彼女に伝えた時、ブログを始めると決めたのを覚えています。

イランついでにその記事も貼っておきます。

Contents

あらすじ

Photo by Mehrshad Rajabi on Unsplash

イランの首都テヘランに住む夫婦ナデルシミンには、11歳の娘テルメーがいますが、母シミンはより良い生活環境のため外国への移住を望みます。一方、夫ナデルはアルツハイマー病を患う父を見捨てて外国にはいけないと一歩も譲らす。夫婦は離婚の危機ですが、テルメーは離婚だけはしてほしくなく、3人で今までの生活を望んでいます。

家庭裁判所に離婚要求を棄却されたシミンは、ひとりひとまず実家に戻ります。シミンが家を出たことで日中にアルツハイマーのお爺をみるひとがいなくなったので、ナデルはホームヘルパー兼家政婦として30代の貧しい女性ラジエーを雇います。幼い娘ソマイェをつれて遠方から通うラジエーは、この仕事に苦労を覚えつつも、夫が失業中のため、やるしかないという状況。

イスラーム教の宗教上の理由から、相手が老人であれ見知らぬ異性の世話をする以上、肌が触れたりすることもあるので、あまり好まれることではありません。ですからラジエーはこの仕事のことは夫のホッジャトには秘密にしています。

しかし勤務の初日から、お爺は小便を漏らすという粗相。自分で処理ができないため、ラジエーは仕方がなく、当局に宗教上の罪にあたらないか確認した上で。お爺の下の処理を行います。これに根をあげて仕事を辞めると言い出す、ラジエーですが夫が失業中である以上、働かないわけにはいきません。そこで彼女は夫にこの仕事を紹介するという言います。もちらん、自分がここで働いたのは秘密の上でという約束で。

しかし翌日も来たのはラジエー。夫のホッジャトは金貸しの訴えで捕まったというのです。釈放されたらすぐに来るというものの、それから数日間やってきたのはいつも幼い娘と一緒のラジエー。

長時間の移動と、子守りと老人の世話、夫が失業している心労、宗教的道義に反する仕事をする罪悪感などからラジエーは疲労困憊。ふと気が付くとお爺が家にいません。近くの通りでフラフラと車道に出ていくお爺。これを捨て身で守ってなんとか事なきを得ます。

しかし、ここで車に撥ねられたラジエーは実は妊娠中でした。4か月なので一目ではわかりません、仕事に関わると思い隠して、ナデルのもとに勤務していたのです。その夜、激しい腹痛に見舞われるラジエーですが、翌日も仕事のためにナデルの家へ。

勤務中に身体の異変を感じたラジエーは、お爺が昼寝をしている隙に、彼がまた外に行かないようベッドに拘束して病院へ行きます。しかしその間に帰ったナデルとテルメーは、ベッドから転げ落ちて死にかけているお爺をみてショックをうけます。さらにタンスからお金が無くなっていることに気が付いたナデルは激高し、ラジエーを追い出そうとします。

老人にした仕打ちを責められるのは仕方がないと感じるラジエーも、その信仰心の深さから、泥棒扱いには耐えられません。なんとか潔白を訴えようとしますが、ナデルは彼女を家から押し出します。この時、勢いに押されてか、階段で倒れこんだラジエーは、その後病院に運ばれ流産します。

これに対してラジエーとホッジャト夫婦は訴訟を起こします。ナデルはラジエーを押し出したことは認めるものの、暴力と呼べるようなものではなく、妊婦だったことも知らなかったと主張、しかし、ナデルの本心は、実は娘の先生とラジエーの会話を遠巻きに聞き、妊娠していることは知っていたというもの。ただ、流産が自分のせいだというのは立証されるまでは認めないという姿勢です。

拘留されたナデル。シミンは娘テルメーとお爺の面倒をみるべく、家に戻って彼らの様子をみたり、お爺を一時的に実家に保護したり、こっそりナデルの保釈金を払ったりと奔走。

一方で、断固として流産の過失を認めないナデルと、血の気がおおくすぐに切れてしまうホッジャトと泥棒扱いされたことにまだ屈辱を感じているラジエーの対立を深まり、泥沼化していきます。

挙句の果てにホッジャトがテルメーの学校に乗り込み、裁判で証言したテルメーの先生に詰め寄る始末。学校前に待ち伏せするようになり、今にもテルメーに危害を加えんばかりです。

この状況を憂うシミンは、ナデルに示談を進めます。娘の安全のために、プライドを捨ててお金を払って終わりにしてほしいというのです。彼女はそのためならお金を払うことも、家に戻ってくることもいとわないという覚悟でした。

しかしナデルは、咎のない罪を認めることはできないといい、シミンの懇願を跳ねのけます。これが決まり手で夫婦の関係は完全に決裂。テルメーはナデルに「ママは身の回りの物を車に持ってきていた。パパが示談に応じるといえば帰ってくる気だった」と涙ながらに訴えて、家を去ろうとします。そしてナデルはついにテルメーに、示談に応じるという言葉を伝えます。

しかしこのタイミングになって、ラジエーがシミンに、流産の前日に車に撥ねられたことを白状し、流産の原因がナデルだという確信がないといいだします。実際にはナデルが原因ではないとわかっていたのだと思いますが、聞いていなかったお爺の下の世話を安賃金でやらされたり、泥棒扱いされたりした不満と、自分の不注意で流産したと知れたら怒りっぽいホッジャトがなんというかという恐怖から、ナデルのせいで流産したのだと信じようとしたのでしょう。しかし信仰心の厚いラジエーは、この示談金を受け取ったら、神の罰が下ると怯え、シミンに「示談金を持ってこないでほしい」と頼みます。金貸しにつつかれているホッジャトに対して、示談金を受け取れないなどはとても言えず、車に撥ねられたということを白状できないような嘘を重ね過ぎていたのです。

一方でシミンも、頑固なナデルを示談に応じさせるべく散々行動しておいて、やっぱりやめだとは言えませんから、やはり示談をしにラジエーとホッジャトの家にやってきます。
そこでナデルは、この流産は本当に私のせいだと、コーランに誓ってほしいとラジエーに要求します。コーランをとりに別室に行ったラジエーは、そんなことは誓えない、戻れない、とホッジャトにすべてを白状します。真実を知ったホッジャトは今までの自分の猟奇的なまでの復讐心に燃えた行動について自らを責め、錯乱します。

ホッジャト家を去ったナデルとシミンとテルメーは、また別の日、家庭裁判所へ。離婚が成立しようという段階になって、ナデルとシミンのどちらについていくのか問われます。
心では決まっているものの、両親の前で言うのをためらテルメー。
ナデルとシミンが廊下テルメーが出てくるのを待つシーンでエンドロール。テルメーの決断は明らかにされないまま終幕となります。

かけ違えるボタン、もつれる感情

Image by Vicki Becker from Pixabay

最初に起きたすれ違いは、シミンとナデルの間に起きたものでした。

テルメーのために良い環境のある海外へ移住したいシミンと、親の面倒のためここに残るというナデル。どちらの気持ちも理解できます。

ここで彼らが抱えた離婚問題から、話が悪い方へ転がっていく。

シミンが家を出たことにより、ナデルはヘルパーを雇うことになりました。ヘルパーを紹介したのはシミン。

しかしここで一つ目の嘘が起こります。ヘルパーのラジエーは、失業中の夫に黙ってこの仕事にやってきたのです。信仰上の理由からです。さらに妊娠していることも黙っていました。

さらに勤務中、ラジエーはお爺を車から守るために自ら車に撥ねられます。これは職務中に彼女自身の注意不足が招いたことではあるものの、仕事の過酷さからいって、仕方がない不注意のようにも思えます。しかし内緒で仕事をしている彼女はホッジャトにそんなことは言えません。また、これで赤ん坊に何かあったらと思うと猶更ホッジャトには何も言えません。

翌日の勤務中にこの事故の件で病院に行ったことでも新たな過失を作ってしまいました。お爺をベッドに拘束して放置してしまったのです。これがナデルにバレて口論に。彼女を家から押し出したナデル。それがラジエーの流産に繋がります。

訴訟沙汰になってから、ラジエーは事故のことを隠し、流産をナデルだけのせいにして、自分を主にホッジャトの怒りから保身しようと嘘を重ねます。
一方、ナデルも訴訟の争点となった「ラジエーの妊娠を知っていたかどうか」という問いに対して「知らなかった」と嘘をつき続けます。

シミンとテルメーにはこのナデルの主張が疑わしく思え、ある日テルメーは勇気を出してナデルに聞くのです。「本当に妊娠を知らなかったの?」と。ナデルが妊娠を知っていたと考える真っ当な理由を述べるテルメーに、ナデルは妊娠を知っていたことを認めます。しかし、それはあくまで、自分が捕まったらテルメーがどうなるかを考えてのことだと。

後日に訴訟で証人喚問されたテルメーも、父ナデルをかばうために、嘘をつき、涙を流します。

一方で赤ん坊を殺されたと思い込んでいるホッジャトは、失業中で失うものがないのをいいことに暴走。ほとんど脅迫に近い形で、テルメーを中心としたナデル一家に危機として迫ります。

ひとりの人間が、海外に移住すると言い出し、それにもう一人が反対した。
この小さな別離からボタンの掛け違えがはじまり、嘘の連鎖がつながり始めます。

これは、人間の自己正当化が優しさの皮をかぶって世の中をゆがめている現実世界の象徴のようです。

また、ひとつの不都合によって他の不都合が連鎖的に引き起こされるほど脆弱なイラン社会が抱える問題を描いているのかもしれません。

中心人物の嘘と自己正当化

Image by Dean Moriarty from Pixabay

シミン

そもそも、すべてのボタンが掛け違われていくきっかけを作ったのは彼女。彼女が家を出たせいですべてが始まりました。

シミンは海外に行く理由を「テルメーのため」といっていますが、本当にテルメーのためを思うなら離婚だけはしてはいけないような気もします。

物語の後半では、辛さを表に出さずに健気に離婚を食い止めようとするテルメーの気持ちに気づき、家に戻ろうともしますが、結局ナデルとは決別。

娘のためにとう正当化を掲げるものの、何故か海外に行くという選択肢にこだわり、娘が一番望まない「離婚」という言葉を振りかざす、いまいちによくわからないキャラクターでした。

ナデル

献身的な夫であり、アルツハイマーの父を支える息子としても立派な人間です。しかし、他人に厳しく、頑固すぎるところがあり、それがヘルパーとしてきたラジエーへの当たりや待遇にも表れています。

彼も訴訟になってから「ラジエーの妊娠は知らなかった」と嘘をつきます。彼の正当化も「テルメーのため」です。テルメーが望むなら、真実を証言するといったにもかかわらず、その後にも嘘の証言を続けていることからも、これがあくまで正当化の文言に過ぎないということが見て取れます。

まあ事実彼は流産の原因ではなかったわけですし、彼が捕まったらテルメーが困るのも事実ですが。

さらに彼にはアルツハイマーの父がいるという別の嘘をつく理由もありました。

ラジエー

この物語でもっとも苦しい位置に置かれたのが彼女。

彼女はここまで書いた通り、多くの嘘を抱え込みますがその理由も「夫ホッジャトが怖いから」「ホッジャトが失業しているから」「妊娠していると最初から雇ってもられない恐れがあったから」など、多くのしがらみを抱えています。

このような彼女が抱える実際的な事情から出る偽りや隠し事は、彼女の人一倍厚い信仰心の要請と真っ向からぶつかります。

最後は信仰への畏敬が実際問題への恐怖を上回り、すべての偽りと隠し事が白日のもとにさらされます。

ホッジャト

ホッジャトは物語一の問題漢ですが、彼が嘘つくシーンはありません。しかし彼にも、自分が感情を抑えきれないあまりに行っている行動について、信仰深さと失業中という境遇で正当化を図っているように見えます。

この映画ではそれぞれのキャラクターがみな、人間的に欠陥をもちながらも、自分なりの正しさを持っていて、それを主張しながらどうにかして自分の欠陥には目をつむろうとしているのです。

まさに実際の人間もそうではないでしょうか。

テルメー

この映画のある意味、主人公といえるキャラクターかもしれません。彼女については、大人のいざこざに巻き込まれる被害者としての描写しかありません。そして時に大人に対して冷静に、純粋に真実をつきつけます。

この映画ではテルメーと、ラジエーの娘であるソマイェがとても印象的に描かれています。大人たちがいざこざを起こし、互いに溝を深め合う中、テルメーとソマイェはずっと仲良く一緒に遊んでいるのです。

そして彼女たちは本当のことしか言いません。テルメーは嘘をつく父ナデルを責めるでもなく恥じるでもなく、ただ真実を追求します。また、ソマイェもただ真実のみを語ります。

しかし物語の後半で、テルメーは父をかばうために嘘をつきます。しかしテルメーは大人たちのように自分の嘘を正当することはしません。その嘘と向き合い、涙を流すのです。しかし、こうしてテルメーも、少しずつ嘘に塗れた大人の世界にからめとられていくのです。

物語の最後に、ラジエーが流産の原因をホッジャトに打ち明けたあと、ラジエーは「示談金を払いに来ないでと言ったじゃない!」とシミンを責めます。この時、自分の家庭が壊れていく様を見ていたソマイェは、先ほどまで一緒に遊んでいてテルメーを、それこそ親の仇をとるような鋭い目つきでにらみつけます。

テルメー、そしてソマイェまでもが、大人の争いにからめとられていくという描写と考えて間違いないと思います。

イスラームの信仰

Image by Ziya Alishanli from Pixabay

この映画では、物語の最後、ラジエーが流産の原因について真実を語るに至るきっかけとして「コーランに誓う」という行為が重要な役割を果たします。

それまでにも映画にはコーランに誓えるか?という問答がたびたび登場します。

イランと言えば本当の国名は「イラン・イスラーム共和国」というくらいですから、ゴリゴリのシーア派イスラーム教国です。しかし、もはやその教えは政治的に利用されるばかりで、信仰心は形骸化しているといってもよいでしょう。

僕も実際にイランに行きましたが、断食月だったにも関わらず、皆平気で日中に食事をしていました。しかしその中には、自分が敬虔なイスラーム教徒だと信じて疑わない人もたくさんいるのです。あまりにも言行不一致が目立つなと感じました。とても自己欺瞞的な信仰心なのです。

もちろん上の世代ほど敬虔な方が多く、六信五行を比較的に守っているように見えましたが、この『別離』という映画は、イスラームの信仰がいかに形だけのものになっているのかということも描いていているのだと思います。

ナデルや事件の証人であるテルメーの先生は、コーランに嘘の証言を真実と偽って誓います。さらに物語中でもっとも信仰心が厚いラジエーは、教え通りの修身のためにコーランに嘘を誓うのをためらったわけではありません。神の罰を恐れてためらっただけなのです。意志の信仰による善心からではなく、盲目の信仰による恐怖心が行動の動機なのです。

実際にイランに行き、現地の人と話してみると、このようにゆがんだ形でイスラームが残っていることは想像に容易かったです。
もしかしたらコーランに誓えるから本当だという神の名を利用した論法が、実際に追い詰められた人間や争い合う人間によって使われているのかなとも思います。イランの実情はわかりませんが、それも、この映画の大きなテーマのひとつなのでしょう、

まとめ

あまりまとまりがよくありませんが、イラン映画『別離』について書いてみました。

派手なシーンはありませんが、緊張の糸が切れない2時間。人間というもの、信仰というもの、イランという国についてじっくり考えるのもよいでしょう。

国際的にもかなり高い評価を得ているだけあって、とても見ごたえのある作品です。

日韓や西洋の映画ばかりで、たまには違う国の映画を観たいということがあれば、『別離』は非常にオススメです。

では、読んでくれてありがとうございました。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。