旅のこと

【旅行記】僕の価値観を変えた旅先の出会い6選

こんにちは。

今回は僕が60か国以上旅してきた中で出会った数えきれない人々の中から、特に僕の価値観に影響を与えた出会いを6つ紹介します。

5選にしようとしたのですが選びきれず。

これ以外にも素敵な出会い、価値観を変える出会いはたくさんありましたので、今回のは結構選りすぐりです。

長い記事になりますよ。

Contents

①ファビアナ:祖国から逃げてきたベネズエラ人カップル

クロアチアの首都、ザグレブを訪れたときのこと。

僕はボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで出会った1つ年下の日本人の男の子R君と一緒に旅をしていました(彼ともいまだに会います。)

長距離バスでザグレブに着いてから、宿まで重い荷物をもって結構な距離を寒空の下を歩いた僕たちは、わりと疲れていたので、その日は宿でのんびりしていました。

R君はギターが得意だったので、宿の共有スペース控えめにギターを弾いて遊んでいると、そこで気さくに話しかけてきたのがファビアナでした。

色白に黒髪、ラテン人という感じの明るさで、全体的には柔和で優しい。少しふっくらして背も低めで、かわいらしい女性です。時期に彼女の恋人もやってきて、4人で談笑する形になりました。

彼らがベネズエラ人と聞いた時には驚きました。

2016年、ベネズエラは政治が腐敗していて、激しいインフレが起きており、街中の治安といったら世界最悪なのではないかと言われるような惨状だったからです。

一瞬僕は「ベネズエラにも若いカップルで海外旅行にこれるくらい余裕がある人がいるんだな」と、愚かにもそう思いました。そして、それ以上深くは考えませんでした。

そのあと、一緒に料理したり、ギターで遊んだりと交流するうちに、僕たちはだんだん互いに打ち解けてきたので、思い切ってベネズエラの現状について聞いてみました。

ファビアナはそこで、彼らが難民として逃げるようにベネズエラから飛び出てきたのだと打ち明けてくれたのです。

彼女の住んでいた地域は、地元の人でも一人歩きは危険で、若い女性が夜にひとりで出歩いたらいつ何時レイプされたり、殺されたりしても不思議ではない、と。

彼氏のほうはコロンビアとの国境近くの田舎街出身で、そちらのほうは生活は苦しくてもそれほど危険ではないそうです。とてもとても美しい場所だからいつか訪れてほしい、と言ってくれました。

彼らがヨーロッパのどこを当面の拠点として生きていくのか、まだ決まっていないようでした。難民申請が下りる国を探さないといけないのかも知れません。

人のツテも仕事のアテもなく、祖国から逃げてきた。

ファビアナたちをみているととてもそうは思えませんでした。それくらい彼らは明るかった。

テレビで見る難民と呼ばれる人が、今自分の目の前にいるのがなんとも不思議で、僕たちがメディアの情報からイメージする難民と、目の前にいるファビアナたちがどうにもうまく結びつかない。

しかし、現実はいつもこういうものなんだな、と実感しました。

現実はいつも、前もってするどんな想像よりも具体的に僕たちの目の前に現れます。

そして、僕たちがわかっていたと思っていたことが、いかに理解から遠いのかを教えてくれます。以降紹介する出会いでも、繰り返し同じような思いをすることになるのですが。

これが僕の価値観を変えた出会いの1つ目です。

ファビアナとはその後、僕がスペイン語勉強していた関係で何度かスペイン語の質問をするのに連絡を取ったけど、今ごろどこでどうしているんだろうか。(彼女はネイティブとしては珍しく、母国語であるスペイン語を文法的に説明できる人だった。)

②フランク:カリフォルニアの山で生きるジプシーの族長

タイの北部から陸路でラオスに入国した直後のこと。

チリ人男性とイギリス人男性の2人と行動していた僕は、2人と一緒にラオス北部、メコン川沿いの田舎町を散策していました。

小さい商店がいくつかと、宿がいくつか並ぶ通りがあるだけの小さな村です。道は舗装されていない土道で、どっちを見ても視線の先には森が見えました。

次の日にメコン川をボートで下り、世界遺産の街であるルアンパバーンに向かう予定だった僕たちは、おやつになるものでも探しにフラフラ街を歩いていたわけです。

そんなときある商店の前で出会ったのがフランクでした。彼もガールフレンドと一緒に旅をしており、次の日僕らと同じ船を川を下る予定だったのです。

その小さな村にはまるで似つかわしくない、RPGの世界から出てきたような服装のそのカップルに、僕はすぐに食いつきました。

フランクは年は30手前くらい。10年は被り続けていそうな皮のハットをかぶり、伸びた髪をその中でまとめ、上半身はミリタリー系のおんぼろシャツとジャケット。腰にはハンドナイフをさし、動物の皮でできた袋状の水筒をもっていました。ズボンも革製で乱暴なツギハギがあり、お尻の上には30センチ四方の分厚い皮布がぶら下がっていました(どこでも座れるようにだそうです)。そして足元はこれからジャンブルの中にでも行くのかと思われるような重厚なブーツ。(確かにこれから大自然の中を流れるメコン川の上で丸2日揺られることになるのですが。。。)

彼女のジェシーも負けておらず、RPGの魔法使いのような服装。タンクトップから露出した両腕には大きくキツネ2匹のタトゥーが彫られていました。彼女はフランクより5歳くらい若そうかな。

僕が彼らに話しかけた決め手は、フランクのジャケットの背中に大きく『もののけ姫』のサンとモロのワッペンがつけてあったことです。

サンやアシタカがあの映画の中でみせる世界観と、彼ら2人のもつ雰囲気が、妙にマッチしていたのです。

その場では挨拶と多少の談笑に留まりましたが、フランクとは次の日、船の上でずいぶん長く語りつくしました。

イチバン盛り上がったのは詩の話。僕たちには、お互いに詩を書くという趣味がありました。詩を語るということは、価値観や、思想・感情を交換することです。彼は僕が偶然数日前に仕上げていた初めての英詩に、評価とアドバイスもくれました。

こうして親しくなった僕たちは、ルアンパバーンについてからも何度か話し、その後、互いに別れて旅を続けたあとも、偶然旅の予定がかぶり、ラオスの首都ヴィエンチャンやベトナムのハノイでも時間を共にしました。

しかし、彼との話はむしろこれからがスタートです。

ベトナムのハノイの夜、いよいよこの東南アジアで過ごす彼らとの最後の時間。僕はなんとも残念な気持ちになり、寂しそうな顔をしていると、彼は僕にこう言いました。

「君は俺の山にくるといい。必ずに気に入るし、共鳴すると思う。カリフォルニアだ、必ず8か月後にカリフォルニアに来い。」

8か月というのは、そのとき僕に残されていた旅の時間。日本から西へ西へと進んでいた僕は、なんとなくアメリカが最後の国になるだろうかと思っていました。

そしてこの言葉をもらった時、僕のなんとなくは決意に変わりました。

カリフォルニア、サンフランシスコ。位置的にもこの旅を終えるにはピッタリでした。このとき当てもなく始まったこの旅は、最終目的地を見据えたのです。

8か月後、旅中に無数の経験や出会いを経て、少し大きくなり、少しやさぐれた僕は、サンフランシスコの空港に降り立ちました。

大きな真っ赤なトラック型の車で、フランクが現れました。カリフォルニアの北部、ほとんどオレゴン州にさしかかろうかという彼の住む山から、はるばる片道3時間、僕を迎えに来てくれたのでした。

サンフランシスコではHaight Streetというなんだか独特の通りで、ヒッピーのような、ホームレスだかなんだかわからない彼の仲間たちと戯れながら初めてアメリカを感じました。眠ったのは公園の横に泊めた彼のトラックの中。

翌日、いよいよ車で3時間、彼の山へ向かいました。車の中ではいまだに現役のカセットテープでAD/CDを聴き、なぜかそのバンド名から電気回路の話になり、ニコラ・テスラの話になったのを覚えています。

次第に車は田舎へと入り、森の中の獣道を進みました。その時の傾斜や揺れといったら、ジェットコースターそのものでした。これが彼にとっては日常なのです。

やがて車では通れないような道に入り、僕たちは荷物を降ろして、台車を使ってそれを引きずりながら森を3分ほど歩きました。すると、また少し道が開けて、そこにもう1台同じ型で色違いのトラックが待っていました。そちらに乗り越えてさらに数分山道を進み、次に山が開けたところが、彼の住処でした。

つまり僕の旅の最終目的地。彼がLOST BOYSと呼ぶ空間。

僕らが車から降りると、山の中から大きな犬が4匹駆け寄ってきました。左手には小さな畑があり、奥には彼らが造ったであろうキャンプ場にあるような柱で屋根が支えられているだけのキッチン。火で煮炊きをするスペースと、粘土で作られて釜戸がありました。右手に少し山を下ったほうにはモンゴル式の移動住居であるゲルがありました。

そのとき、そこには彼と同じような服装をしたアメリカ人があと4人いて、夏には最大30人くらいの仲間がここに集まるといいます。彼らはジプシーを自称します。

フランクはその流動的に集散するカリフォルニアのジプシー一派のリーダーだったのです。なかなかの人物です。

山での生活は朝日の出とともに。彼らの中にはフランクをはじめ野外にボロ切れを敷いて眠っている人もいましたが、僕は一応客人と言うことでゲルの中に寝袋を用意してもらいました。といっても軽く数年は洗っていないような、日本でいうと最後にいつ使われたのか定かではない体育倉庫の奥に眠る昔の体育祭用のタープに匹敵する汚さ。ここにいる犬と猫の毛がわんさかついている感じですが。

基本的に電気がないので夜は暇なので、おのずとは早寝になり、朝は早く目が覚めます。

寒いのでまずは火おこしから。僕は慣れていないので20-30分頑張ってようやくつきました。着火剤なんてないですからね。

そして粉を煮てコーヒーを淹れます。淹れるのに数十分かかろうが、多少粉っぽかろうが、カリフォルニアの雪をかぶった山の頂を臨みながら飲む熱々のコーヒーは最高でした。この瞬間は一生忘れることはないんだろうな。そう思いながら、この世の幸せを味わったひとときでした。

山にいる間は彼らの畑仕事を手伝ったり、水道を通すための工事を手伝ったり、度々食事の準備を担当したりしました。

ここではお金は価値を持たず、働いた人が生きるために必要なものを得られるというルールで、働かない人間は自然に淘汰されるような空間ができているようです。実際には多少のいざこざはあるようですが、現代社会からなかば隔離された世界で、原始の共産社会を再現しようとしているようでした。

歴史的には失敗に終わった共産主義ですが、その理由の一つは、性善説と人間の利他性に依拠しすぎたことがあるかもしれません(それでも形式上だけでも数十年続いたのだから驚異的ですが)。しかし、このLOST BOYSのようなある程度、選択的で限定的なコミュニティでなら、実現は可能なのかもしれません。(なんといってもコミュニズム、共同体主義ですから。)インドのエコヴィレッジ、オーロビルでは実際にかなり大きな規模で似たようなアイデアが実現しているようですし。(オーロビルに行った話もそのうち書くかもしれません。)

話はそれましたが、僕の山での生活はおおよそそんな感じ。暇な時間は粘土を掘ってきて土偶もどきを作って窯で焼いたり、絵の具で日本的な絵や得意の書道で彼らのために看板を仕上げたり。

食事も親子丼や日本のカレーをふるまい(火での調理は難しいがなかなか面白かった)、彼らもピザやマフィンを作ってくれました。彼らが皆料理上手で、出してくれるものはすべて美味しかった。

ですから、全体的にはノーストレスでけっこう楽しかったです。時間には縛られないし、社会的なプレッシャーもない。

生きるために本当に必要なことは、土を触ることでした。雨が降れば逃げるしかないし、暗くなれば火が揺らめくのを見るか、星を眺めるしかありません。

ボロ切れの中で犬たちと一緒に丸まって眠り、指についたままの泥も大した問題じゃない。

その時期は寒かったので、とても水でシャワーなど耐えられないので滞在中はシャワーもなしですが、汚いのはみんな同じ。

遊びは木にナイフを投げたり、犬と走ったり。疲れたら森の中のハンモックで本を読みました。

LOST BOYSでの生活は、人生において、何が必要なもので、何が余計なものか教えてくれます。それは現代社会で普通に生活していては、一生かかっても気がつかないことかもしれません。

ここが僕の旅の最後の滞在地だったこともあり、驚いたことに僕はLOST BOYSを去ってから丸2日と経たないうちに、日本に戻り、いつも通りの生活に帰っていました。

綺麗な布団で眠り、蛇口をひねれば飲み水が出て、ガスコンロには安定した火がある、いつもの家。

LOST BOYSを離れてもうすぐ3年が経ちますが、未だに時々じっくり思い出して感慨深くなる旅のひとコマです。

そういえば最近ずいぶん久しぶりにフランクから、ようやく君にあげるのに最適なストーンを見つけた、と連絡がありました。彼はハンドメイドでジュエリーやアクセサリーを作って路上で売っていて、僕のためにも何か良いのがあれば作ってくれると言っていたのですが、まさか今更送ってくると言い出すとは・・・。

僕もフランクが敬愛する宮本武蔵の『五輪書』の日本語ver.を送ったんだけどね。(日本の変なお菓子と一緒に詰め合わせて)

届くのが楽しみだなあ。

③マイケル:10代で100か国を巡った秀才中国人

東欧の小国アルバニアの首都ティラナに到着したときのこと。

当時もっぱらヒッチハイクで移動していた僕は、道中かなりの雨に打たれて心身ともにひどく疲れていました。

なんだか旅中はいつも疲れているような・・・笑。疲れたときにこそ素敵な出会いがあり、まだ旅を続けようと思えたりするものかも知れません。

ともかくようやく宿に着き一安心。荷物をほどいていると、同じ部屋の奥のほうにひとりのアジア人がいました。彼は気さくな感じでこちらにきて、「どこからきたの?」と話しかけてきました。

ずいぶん流ちょうな英語で、英語が流ちょうな日本人もいないわけではありませんが珍しいし、何より彼の訛りは日本人のそれではありませんでした。

僕が「ベラットという村からヒッチハイクで。雨に降られて大変だったよ。」と答えると、同じくヒッチハイクで旅をしているという彼はすぐに食いついてきて、僕たちは打ち解けました。

「出身はどこ?」と聞かれたので、「日本だよ。」と答えると彼は驚いて「え!?日本人なの!?君は完璧な英語を話すね!!」と言いました。

たぶんこれが人生で僕の英語に向けられた言葉で最高の賛辞・・・(笑)ただ、日本人全体として考えるとなんとも言えないセリフである。

話を聞くと彼はシカゴの大学に通う上海出身の中国人で、名前は英語名のマイケルと呼んでほしいということでした。この時点で彼は世界90か国ほどを旅した経験があり、中国人の彼はどの国に行くにもVISAの申請が必要なので、彼が見せてくれたパスポートはすべて1ページ1か国、VISAでびっしり。1冊はページを使い切ったもので、2冊持ち歩いていました。

あたらめて日本国籍は恵まれているなあ、と・・・。

そしてそれより驚きなのは、彼は出会った当時まだ19歳だったということ。

そして実は大の日本好きで、独学のみで身に着けたという日本語は、ほとんど何を言うにも困らないほど堪能でした。

恐ろしい子・・・。

彼とはそれから10日ほど一緒にアルバニアとコソボをヒッチハイクで巡り、かなり互いに深い話をしました。過去のことも、未来のことも。僕よりも年下ですが、経験も能力も僕よりはるかに豊かで、聡明であり、それでも謙虚で気さくな人となりは尊敬に値しました。

彼とは1年後くらいにまた東京で再会しました。(彼は毎年日本に遊びに来るので、かれこれ10回は来てるんじゃないかな。) アメリカとカナダと日本、どこで働こうか悩んでいるという話をしていましたが 、ぶっちゃけ彼ほどの人間なら世界中どこでもひっぱりだこだというのが僕の本音ではあります。

そしてまた次の年には成田で再会。このときは僕の実家に泊っていきました。この時までに彼がしていた進路の決断には驚きました。なんと米軍の仕事で、アフガニスタンに駐在するというのです。

え、あの?ニュースでやってる米軍がアフガンに派兵されたというやつ・・・?

ただ仕事は兵士ではなくバックで頭を使うような仕事だそうです。(詳しくは忘れましたが。)

しかし後に聞いたところによると、これは結局彼がアフガンに派遣される前に米政府がアフガニスタンからの軍の撤退を決定。彼のポストはなくなったので内定はおじゃんになりました。

しかし、ここからが彼の面白いところで、内定取り消しの都合で政府からもらった補償金で彼はまだ中東や南米に旅にいってしまったのです。

その時彼は、南極やシリア(治安は…?汗)など激しい地域も旅し、その都度僕に現地からポストカードを送ってくれました。(たぶん南極とシリアのポストカードが両方家にあるという家は日本中探してもなかなかないだろう。特に2018年のシリアは…ねえ。)

そしてようやく話のオチですが、結局彼はそのあと、日本で就職することになりました。日本が誇る、泣く子も黙るような超大手世界的電気メーカーです。

皆が必死になっていわゆる就活のルールとフローに則ってしのぎを削る中、かれはなんと企業ホームページの採用メールアドレスと電話番号から連絡をとり、最短コースで就職していました。

彼曰く、「住みたい国があるなら行けばいいじゃん。行ってから仕事の応募して、就労ビザとか出してでも採りたい、って思われればいいんでしょ。必ずどこかあるよ。」

なんてスマートでシンプルな生き方なんだ・・・。

あ、すみません。実はこの話、オチといっておいてなんですが、もうひとつ展開があります。

なんと彼、そのHIT〇ACHIを1か月で辞めました・・・(笑)

理由を聞くと、こう答えました。

「日本の大企業で働く以上、文化的に最初の数年は下積みみたいな仕事になるのはわかってたけど、やらされたことが不毛過ぎた。それだけならいいんだけど、僕と同じポジションでもう8年目の人が、僕の横でほとんど同じことをしてたんだ。時間がもったいないから1か月以上は付き合えなかったよ。」

今、彼は転職して世界的企業の日本支店に勤めています。一応伏字を使いますが、Amaz〇nです。

「君なら僕が内部から推薦してあげるから、うちで働けば?」って・・・

いやいやいやいやいや。

このスーパーマンがいったいどうして僕をこんなに構ってくれるのか謎ですが、彼と関わることは非常に勉強になるのでこちらとしてもありがたい限り。

日本国籍をとりたいといっていますが、僕が言えることは、

彼がもし日本で起業でもするとしたら、僕は彼のもくろみになら人生預けてもいいと思えるってことくらいです。

④ローリー:アセクシャルのフレンチガール

バイヨンヌというのは南フランスにある中くらいの街で、フランスとスペインにまたがってあるバスク地方の、フランス側では一番大きな街です。

スペイン語を習得するぞ!と意気込んだ僕は、スペイン人が褒めるスペイン、北部のアストゥリアス地方でボランティア兼ホームステイをするという計画に乗り出しました。

すでに3度目のスペイン訪問。スペイン語が毎日練習できて、田舎ののどかな景色は遥かなる美しさであり、偶然一緒になった日本人の女性とも仲良くなり、だだん満足してきてしまった僕は、以前バスクを訪れたときに行き損ねた、ゲルニカという村を目指して西進しはじめました。

ピカソが描いたあのゲルニカです。スペイン内戦の最中、ナチスが爆撃したあのゲルニカです。(全然この記事の内容と関係ないけどゲルニカにある平和博物館は超超おすすめ。小さいけど、本当に平和を希求するためにテーマが選ばれていて、単に爆撃の悲劇を忘れないようにしようという被害者視点の博物館ではない。)(あと、ゲルニカはタパスも美味しい。そもそもバスクはグルメな地方である。世界初の料理の専門大学をおったててしまったほどに。)

で、ゲルニカにも大満足した僕はなんだかそのまま西に行って南フランスを知りたくなってきたのです。

そして選んだのがバイヨンヌ。はじめてヨーロッパにチョコレートが積み込まれた街だとか。

その街でカウチサーフィンというアプリで出会ったのがローリーでした。カウチサーフィンは現地の人と旅人をマッチングさせる宿泊アプリ。無料で世界のローカルな方たちと触れ合えるので超絶おすすめです。ちなみにやってみるとわかるけど、泊める側も相当楽しい。

駅前のベンチでまっていた僕を、ローリーと彼女のお母さんが車で迎えに来てくれました。ローリーは僕のひとつ年下で、黒髪に赤のメッシュが鮮やかに入った可愛い女の子。お母さんは赤の眼鏡に白髪まじりの短髪がツンツンしていてかっこいい。

ローリーは英語がペラペラ。アニメや漫画が大好きで日本語を勉強しているけどまだまだ初級なのでまだ話すのは恥ずかしいという感じ。お母さんはフランス語しか喋りませんが、スペイン語と英語がわかると、フランス語もかすかにわかることがあります。あとはジェスチャーとノリでなんとか(笑)

ちなみにお父さんは他に女を作ったとかで急に出ていったそうです(爆)どこにいるか不明だけど時たま帰ってくるとか。

このやたらと明るく仲の良い親子は帰るなり、この地方の郷土料理である鴨のステーキをごちそうしてくれました。他にもこの家ではほとんどすべての食事をごちそうになり、僕も彼女たちが用意してくれた食材で日本食をつくりました。

2日目にはローリーが一日中バイヨンヌの街を案内してくれました。身体のラインがくっきり浮かぶ黒のドレスはセクシーすぎて・・・。。。(別の日、彼女のオタク友達ら数人とも遊びましたが、一見オタサーの姫状態でしたね。ちなみに我が国日本が世界に誇るべき発明であるマリオカートで、僕はこのフランス産オタクたちにボコボコにされました。

それにしても、こんなフランスの中世都市で現地のフランス美女と1日デートだとは、俺も偉くなったものだぜ。

などと調子乗っていた僕ですが、ふたりで本屋さんを物色しているとき(海外の本屋さんが好きなのです)、彼女がある本を手に取ったところで、僕の脳みそは真面目モードになりました。

「この人、私にインタビューしにきた人だ。」

平積みにされている本の一冊を手に取り、彼女はいいました。その本の表紙には、いかにも名物司会者だかインタビュアーといった感じのブラウンヘアーの男性が。

「え、この人に?ローリーは有名人なんだ?」

きっとパリに遊びに行ったときに路上インタビューでも受けたとかいうことだとうとタカをくくった僕は冗談半分にそう返しました。するとローリーは

「ううん、有名ってわけでもないけど。私、アセクシャルなんだよね。それでインタビューに来たの。」

セクシーな彼女からセクシャルな言葉がでて一瞬ドキッとしましたが、なんとか真面目な気を保って今彼女から放たれた聞きなれない言葉を繰り返しました。

「アセクシャル?」

「うん、性的な欲求が全くないこと。そもそも珍しいし、私みたいに完全にそういうのをオープンにしている人はあまりいないから、よく取材にくるんだ。」

なるほど。A-sexualってことか。

LGBTなどに代表される性的マイノリティというもののひとつらしい。無知な僕はこのときはじめてアセクシャルという言葉を知りました。

アセクシャルにもいろいろあり、中にはセックス自体に嫌悪感を持つ人もいるようです。ローリーの場合は本人曰く、

「嫌悪ってわけでもないし、正直な話べつにしようと思えば普通にできるよ。でも全く興味はないの。セックスするならマリオカートのほうがよくない?ってなる。どうしてみんなセックスに特別な興味があるのかわからない。

という感じだそうです。

セクシャリティの話は本当に繊細で難しいというのが僕の見方です。なぜなら性欲がほとんどないような人もたくさんいるはずだからです。

しかし性的な行動に性的興奮を伴わないというなら、それは別の話でしょう。ただこれにも精力みなぎり、人並みならぬ性的興奮を感じる人もいれば、それほど感じない人もいるのだと思います。

性には画一的ないくつかタイプがあり同じタイプの人は皆同様の性景色を共有している、とかそんな単純な話ではないのでしょう。実際に、グレイセクシャル、アロマンティック、デミセクシャルなど、いろいろ定義の性愛志向を表す言葉がうまれているようです。

結局のところ、性はグラデーションでしかないのでしょう。

いろんな名前で自分の性志向の所属先を探しても無駄で、みながみな、「マイセクシャル」というしかないのかもしれません。

多様性の尊重が叫ばれる社会だからこそ、あえて名前をつけて認知を促していくというのも、ひとつの手段ではありますね。

そんな現状ですので、アセクシャルというのはまだ理解しやすい定義を持つ性志向だと言えそうです。しかし定義がわかることと、それが世の中に浸透し受容されていくというのは別の問題。

ローリーはフランスで、アセクシャルをオープンして生きる若者のロールモデルとして様々なメディアに取材されたり、自ら発信したりしているそうです。

その後バイヨンヌから電車で30分ほどの田舎町でまた3週間ほど一般家庭でボランティア兼ホームステイをしていた僕は、週末になるとまたローリーの家に泊りで遊びに来たりしていたので、かれこれ3回は彼女を訪ねました。

うち1回は一緒にスペイン側のサン・セバスチャンという美食の街(先ほど書いた料理大学ができた街ね)に遊びに行ってジャパンエクスポなるオタク祭りに参加してみたり。ローリーはスターウォーズのレイのコスプレをしていました。(日本じゃねえだろそれ)

その他にもローリーのおばあちゃんと一緒にバイヨンヌの土曜市に繰り出してみたり、そのおばあちゃんちに遊びに行ったりといろいろあったのですが、その間も、ローリーは度々テレビ局の人に渡されたマイクとGoProで動画をとっていました。

彼女についてのドキュメンタリーだかインタビュー番組だかを作成する際のオフショットカットに使う素材が欲しいという要望に応えているそうです。

僕が南フランス滞在中にも一度取材関係でパリに行っていましたし、バイヨンヌにLGBT関連の施設があることが判明し、一緒に訪問したりもしました。(そこではアセクシャルについての活動はなかったようですが)

普段はあっけらかんとワンピースに熱中する明るい少女なんですが、なかなか活動はアクティブ。

自分のセクシャリティをありのままに受け入れ、周囲の人にも認められて生きる彼女の姿には、同じような特徴をもち、それに悩んでいる人を励ます力があると思います。

ふらふらと突然現れた僕に、何から何まで親切にしてくれただけでなく、アセクシャルという彼女のアイデンティティのひとつについて教えてくれたことには、ひたすら、ひたすら感謝しかありません。

この親子、間違いなくいずれ日本にやってきますから、次はこちらがおもてなしできると思うと楽しみです。

ちなみにローリーのお母さんはU2のボノの声、ローリーはワンピースのトラファルガー・ローの声を聴くと、好きすぎて妊娠するそうです。(どういう冗談だ)

⑤ジェイソン:共産主義の下で青春を過ごしたポーランド人

ポーランドのクラクフ。日本でいう京都のような立ち位置の都市ですね。

ここにきた理由は主に2つ。

ひとつは、ポーランド史上全盛期であろう王国、ヤゲヴォ朝の都として。

もうひとつは、ここからバスで1時間ほどのアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館訪問の拠点として。

今回も上に書いたローリーのときと同様に、滞在先はカウチサーフィンで見つけました。そしてこのクラクフで僕を泊めてくれたのがジェイソンです。

40歳くらいの独身男性で、大学で文化人類学の博士課程に通っています。僕も大学での専攻が文化人類学だったので最初から意気投合。

ずいぶんと英語が堪能なのでわけを訪ねると、彼はクラクフ出身のポーランド人ではあるものの、かなり長い間オーストラリアに住んでいたので、半分オーストラリア人のような自己認識だそうです。

しかしそれには、彼が青春を過ごしたこのクラクフでの生活の思い出がつくった、祖国ポーランドへの嫌悪感と親近感というアンビバレントな感情が、根底の理由としてあるようでした。

ポーランドというのは歴史的にみても不運な国です。

民族的にはゲルマン人世界とスラブ人世界の接点であり、宗教的にはローマ=カトリック教会とギリシア正教会の接点である地域に位置します。

もともと民族移動によりゲルマン民族とスラブ民族が出入りを繰り返す土地柄だったようですが、中世にはそれまで土着していたスラブ人が、ドイツ騎士団の東方植民によって流入したゲルマン人・ユダヤ人とふたたび混在化。

その後、リトアニアと合同する形でヤゲヴォ朝という大物王朝となりますが、じきに衰退。18世紀には周辺の強国によって3度のわたり分割され、ポーランドは地球上から姿を消しました。

そして20世紀初頭、列強各国で起きた大戦と革命により、ポーランドは権力空白状態になります。ここでポーランドはウィルソンの14か条に則って独立を回復。

しかし第二次大戦ではナチス・ドイツに侵攻され、アウシュヴィッツを中心とする強制収容所で行われたユダヤ人や社会主義者の虐殺は有名です。

ドイツ敗戦でヨーロッパ戦線が終結し、西からの脅威が去ったのもつかの間。戦後世界ではソ連を盟主とする東側陣営の最前線として、共産圏に組み込まれます。

まさにヨーロッパという文明世界の西と東から翻弄され続けてきた土地がポーランド。

そして現在のポーランドは、民族的には東側のスラブ人でありながら、宗教的には西側のカトリックを受容しています。この複雑さは、スラブ語系でありながら表記にはキリル文字(ロシア語のアルファベット)ではなくラテン文字を採用しているという事情にも如実に表れています。(そもそもラテン文字は西方教会、キリル文字は東方教会と結びついて伝播したものなので当たり前と言えば当たり前ですが。)

以上、簡単ですがポーランドの小史です。クラクフでヤゲヴォ朝の城を見たら、分割に反対した民族主義者の英雄コシューシコの丘に登り、ナチスによる負の歴史と向き合い、共産圏を生きた現地人の家に泊るという僕の旅程は、ポーランドという国を数日で知るにはちょっと出来すぎなプランでした・・・!

そうそう、話を戻しますと、結局こんな感じで不運な歴史をたどってきたポーランドは、ジェイソンが幼少期から青春期を過ごした時代、共産主義の下にあったということです。

これが彼をポーランドに嫌悪にも似た感情を抱くようになった要因なようです。つまり彼は、共産主義下の国民のひもじさを知っているのです。個人の不自由を知っているのです。

これは僕らが教科書やマルクスの著書から学ぶ共産主義からは学べない、生きた歴史です。共産主義というものがもたらした歴史に強い関心を抱いていた僕は、ついにその世界を実際に生きた人間から直接話を聞けるということに興奮していました。

資本主義や共産主義を定義するのは意外と難しい。

資本主義は生産手段の私有、共産主義は生産手段の共有。というのがわりと一般的な定義だと思います。わかりにくいなら「資本主義=機会の平等」「共産主義=結果の平等」という風に考えても良いかもしれません。

近年は、2018年でマルクス生誕から200周年ということもあり、マルクスの資本主義分析を再評価する動きもあります。もともと産業革命下でいきすぎた強制労働や利潤の追求を容認し、格差を生んだ資本主義へのアンチテーゼとして出てきたのが共産主義ですから(マルクスの弁証法でいうと、ブルジョア階級とプロレタリア階級の闘争から生まれるジンテーゼが共産主義なのですが、細かいことはいいや。)、参考にするべき点があるのは当然な気もしますが。

しかし、マルクスの描いたユートピアは机上の空論に終わりまして(ユートピア自体そもそもNowhereという意味なんですが、細かいことはいいや。)、その空想につきあわされた国民が舐めた苦汁は計り知れないものです。

国民の言論は制限され、娯楽も大してなく、出版だって自由ではない。当時は、生産も消費も政府による計画によってなされたいたそうです。現在私たちが当たり前に思っている自由経済は、20世紀後半のポーランドにはありませんでした。

家族構成によって消費していい消費財の量が決まっていたそうです。例えばバターなら、その家族に配給される分のバターチケットが配られる。そしてバターが欲しくなった時にそのチケットをもって店に行くのだそう。

しかしこれがかなり悲惨で、政府の生産計画が全くうまくいっていなかったようなのです。だから店に行ってもバター1つのために何時間も並ぶ羽目になったり、並んで手に入ればいいほうで、チケットはまだ余っているのにどこの店にいってもバターそのものがないという有様も日常茶飯事だったとか。

政府はバターのチケットを配った時点で配給は済んでいるのだから取り付く島もない。国民はただ苦虫を噛んで待つしかなかったそうです。

とにかく貧しく、退屈な生活。これがムハンマド以来最も多くの人間を動かした思想家が描いた理想郷の現実だったのでしょうか。

共産主義はもともと経済学者であるマルクスが理論的に体系立てた経済思想です。(空想的社会主義というのはその前からあったけど。)それが今では中華人民共和国やベトナム社会主義共和国で政治思想としてのみ息づき、その経済は資本主義システムにゆだねるという歪んだ形でのみ残っています。

経済システムのしての共産主義を肌で知っている人と話す機会は日本にいるとなかなかありません。しかし、このような体験をしている人たちはお隣の中国に大勢いて、上の世代の方々に関してはほとんどがそうなのでしょう。

ちょっと前に、日本に来て「爆買い」をしていく中国人を揶揄する風潮もありましたが、貧しい時代を知っているからこそ、物質的なものへの執着が強いというのは、理解できることではないでしょうか。

戦後の日本も同じような状況だったと思います。

さて、話をジェイソンに戻しますが、このような事情があり彼はポーランドという祖国にあまり良い思い出がありません。現在は一緒に住んでいる母親の面倒などもあるためクラクフの大学に通っていますが、彼はこれをI’m stuck in this ice cave.「氷の洞窟に閉じ込められた。」と嘆いています。

それでも、ポーランドの歴史を語り、コシューシコの偉大さを語り、ポーランド料理を進めてくれる彼が、この国を嫌っているとは到底思えません。愛する祖国だからこそ、あのような悲劇に巻き込まれて自分の青春時代を台無しにするような国であったことが残念でならないのだと思います。

ジェイソンは16歳になるころ家族で南アフリカに移住。その後オーストラリアで10年以上過ごし、オーストラリア国籍も取得しています。僕があった時はクラクフに戻ってきていますが、最近台湾に移住してきたようです。

僕とクラクフで会ったときから話していた計画が実現した形です。

彼はバイセクシャルでもあり、性的なトラウマを抱えているということも打ち明けてくれました。僕は僕は親友を亡くしてからまだ1年もたたない時期のことだったので、お互いにかなり深い層で経験や価値観を交換しあいました。僕がアウシュヴィッツを訪ねたことも、深刻めな話をじっくりするに至った流れを助けたのかもしれません。

彼とは今でも連絡をとっています。「台湾にいるジェイソンを訪ねる」という僕のTo Doリストの項目には、近い将来チェックが入ることになると思います。

⑥シェイーダ:イスラームと経済制裁、イランで二重の網の中もがく少女

中東にある国で、アメリカによる経済制裁が行われてることから、日本ではイランが危険な国だと思っている人が多いようです。

しかし、実際にはイランは極めて安全な国です。イラン=イラク戦争も終結からすでに30年が経過しています。治安面でも、夜に一人歩きしても怖いことはないです。イタリアやフランスの大都市の怪しいエリアのほうがよっぽど怖いし、危ないです。

イランも実に長い歴史を持っている国ですね。世界最初の大帝国を作り上げたのは、何を隠そうこのイラン人なのですから。そして現代でもイラン革命で近代西欧化に反発したと思えば、イラクと交戦状態に入り、今でもイラン核合意やアメリカの経済制裁など話題にことかかず、なかなか歴史の表舞台から降りない国ですね。

最初の帝国、アケメネス朝をつくったのはペルシア人(=イラン人)ですがその後は、ギリシア人、アラブ人、トルコ人、モンゴル人などの異民族支配によって、イラン地方の権力は激しく入れ替わります。

そして現在のイラン=イスラーム共和国のベースを作ったのが、16世紀に成立したサファヴィー朝です。現在までイランで続くシーア派イスラームの信仰のルーツがこの王朝にあります。そしてこれは実態はともかく一応名目上は異民族支配からイランを取り戻したペルシア人の王朝でした。

そのサファヴィー朝で、「世界の半分」とまで称される空前の繁栄をみせたのが、都イスファハーンです。ここに訪れるのは僕の夢でした。

この街の中心であるイマーム広場は、僕が今まで訪れた中では最も美しいスクエアです。

僕がこの街に滞在中に泊めてくれたのが、イスファハーン出身の女子大生シェイーダとその家族でした。これまたカウチサーフィン様様でございます。

将来は英語の通訳になりたいという彼女の英語は実際のところほとんど完璧に聞こえました。標準的な言葉遣いを出来るという点では、英語ネイティブの若者の平均値よりも綺麗な英語を話すような。(日本の若者の話し方をみえば、ネイティブだからといってその言語を綺麗に使いこなすわけではないということはわかると思います、僕も若者だけど。)

他の話をしてもシェイーダはとても優秀で聡明な人であることがわかりました。

彼女の両親もとても親切で優しい人で、かつ敬虔なムスリムでした。イランはシーア派イスラームが国教で、基本的に改宗することはご法度です。生まれながらにみなムスリムなお国柄なわけです。(改宗する宗教次第では法律で死刑にもなりうるそうです。恐ろしや。)

しかし、イラン革命でイスラームという信仰を能動的に取り戻した歴史を肌で知らない今のイランの若者世代にとって、イスラームとは押し付けられる信仰でしかありません。

もちろん信仰深い若者にも会いました。しかし多くの若者はイスラームという信仰への関心が薄く、インターネットから見る世界と自分たちの周りにいる大人を比べて、イスラームという信仰を相対化しています。

礼拝や断食という行いも平気で無視します。僕がイランに行ったのはラマダーン(断食)の月でしたが、若い世代は平気で日中食事をしていました。飲食店の営業は禁止されているので大っぴらに空いている店がなく、旅行者でイスラーム教徒でもない僕はもちろん日中にも食事をしたいので最初の数日は困りました。

しかしじきに慣れてくると、閉まっているような店でも半開きのシャッターをくぐると中では普通に営業していることがわかり、店を見つけるのにも慣れてきました。コンビニのような商店でもお菓子や飲み物を普通に売ってくれます。

このとき出会ったシェイーダも、多くの若者と同じくイスラーム教徒であることを嫌がり、ばかばかしいとさえ思っている様子でした。

この家族と話していてわかったことなのですが、シェイーダの両親はかなり敬虔なムスリムで、シェイーダが信仰に興味がないことをずいぶん残念がっているようでした。

実のところ、シェイーダというのは彼女の本当の名前ではなく、自分で付け直した名前なんだそう。その理由は、彼女の本当の名前がファーティマだからです。

ファーティマだって素敵な名前じゃないかと思えるかもしれませんが、問題はこれがもともとはムハンマドの娘の名前であり、イスラーム圏ではド定番のゴリゴリイスラーム全面推しの名前ということ。それが嫌で彼女は自ら名前を変えたのです。

彼女の両親がどれだけ信仰深く、彼女がそれをそれだけ嫌がっているかがよくわかるエピソードでした。ちなみにシェイーダとはいうのはペルシア語の古文で「星」という意味だそうです。古来から詩や文学の世界で世界に誇る芸術を生み出してきたペルシア語の古文から取るとは、なかなか粋で素敵ですよね。

ただ彼女の両親との関係は全く悪いわけではなく、きっと多くの話し合いがあったのでしょう、今はお互いに理解はしあえなくても、否定せず尊重しあおうという雰囲気を感じました。

彼女のイスラームに対する苛立ちもなかなかでしたが、それ以上に彼女を悩ませているのがアメリカによる経済制裁です。これは他に会ったイラン人も口を揃えて言っていたことです。

最初にファビアナのところで書いた難民問題と同様、この問題も僕たちがニュースで流し聞いている「経済制裁」や「石油禁輸」などという言葉と、実際にそれに巻き込まれている市民レベルの現実はまるで異なります。

僕がイランに行ったのは2019年5月ですが、そのときで、数年前と比べてイラン・リアルの通貨価値は5分の1に下がったといいます。トランプがアメリカ大統領になってからそれはさらにひどくなったとか。

イラン国民も皆が皆イラン政府を支持しているわけではありません。むしろ僕が出会った若者の多くは政府を憎んでさえいました。

結局は革命をリードして指導者となったホメイニ、そしてそれを引き継いだハメネイの事実上の王国なのです。政教一致の国家体制です。国民は選挙で大統領は選べても最高指導者を選ぶことは出来ないのですから。

そうなるとここでも、シーア派イスラームを信じる上の世代と、ポスト宗教時代の現代的感覚で生きている若い世代の間にはギャップがあるように感じます

ともあれこんな状況ですので、シェイーダを含む若い世代の多くは、宗教も政治も現在の権力者には同調しないわけですから、別にそれが他の国から叩かれようがどうぞやっちゃってくださいよという話です。

ところがこれが制裁となると割を食うのは国民です。経済制裁が長引くほどイランの経済は苦しくなるわけですが、ここで苦しくなるのは、制裁主導者であるアメリカが本当になんとかしたいイランの支配層ではありません。国民です。

支配層は気にせず安定した良い生活を続けるだけです。このときにもし、その支配層に国民を想う気持ちが欠如していたら?

最悪国民皆の生活が立ち行かなくなるまで経済制裁が続こうが知ったこっちゃないということにもなりかねません。(実際は国としても軍事力をはじめとする国力を維持したいわけだからそこまで耐えるはずもないのだけど。)

実際にシェイーダは「この国の政府は私たちのことなど、本当に、本当に気にしていない」と言っていました。ひとりの国民の声のみでイラン政府をジャッジするのは不適切なので、イラン政府に関して良い悪いの話は控えますが。

しかし経済制裁がつづくという現状で、シェイーダのような優秀で本来は明るい未来を手に入れるはずであろう学生の目の前に暗雲が立ち込めているのは本当にやるせないです。

ここまで紹介してきた人たちの時もそうですが、僕は出会った人とある程度仲良くなったら一歩踏みこんだ質問をします。そのほうが学ぶことも多いし、なにより仲良くなれます。表面的なことではなく、その人の価値観に触れる話題に突っ込むということです。(嫌がられない雰囲気だったら、ですけど。)

シェイーダには宗教観のことや家族のこと、経済制裁が起きてからどんな影響を感じるかなど、本当に丁寧に教えてもらいました。

そして彼女は、彼女の将来とイランの現状について話した時に「希望がない。」と言いました。僕たちがテレビで見ているニュースの現場では、このような心があるということを知りました。

そう言った時、彼女の目からは涙が流れていました。

国際関係上アメリカへの同調を迫られる日本もイラン原油禁輸には関わっています。シェイーダのこの涙は、僕たちと全然関係がないことではありません。

普段ガソリンスタンドに電光表示される価格を見て一喜一憂するだけの僕たちですが、その裏には本当の人生のストーリーがあるということを想起して、生きてけるようになりたいと思います。

まとめ

旅の魅力を聞かれると、それはもちろんいろいろあるのですが

ひとつ挙げろと言われれば「出会い」に尽きます。

僕は歴史も言語も料理も大好きですから、旅をして楽しいことはたくさんあります。

しかしそのすべてをまとめて天秤にかけても、まだ出会いに傾くと断言できます。

人生というものは、出会いで成り立ち、出会いで決まるものだと思います。

旅では毎日新しい人、それも国・言語・宗教・文化・年齢・性別・職業・経験・経済状況などすべて異なる人たちとごった返して出会うチャンスがあるのが旅です。

今回は数多あった出会いの中でも、僕の価値観に特に影響を与えたもの、その「人」ベースで6つ紹介しました。

「なぜ」価値観が揺れたのか、「なぜ」それが重要で特別なのか、ということを説明するために、出会った本人とは関係がない歴史や社会の現状などについても記述が長くなり、記事自体の長さも結構なものになってしまいました。

本当に出会ってくれたみんなには感謝しかないです。

今回紹介した人以外にも

映画の脚本家になるために引き込もって脚本を書いていたり、それを実際に撮影するためにホームレスにキャストになってくれと声をかけたりしているスペイン人の青年とか

世界中を8年間旅しながら世界平和のためにフリーハグ活動をされている日本人の方とか

素敵な方との出会いに恵まれているので、そちらもまた何か機会があれば紹介できればなあと思ってます。

ここまで読んでくれてる人はいるのかな・・・?(笑)

旅の魅力が少しでも伝わっていたら嬉しいです。

あと、旅に行く前は勉強したほうがいいってことも。僕の意見では、無知のまま旅に行くのも悪くないけど、それはサッカー少年がメッシに会えるのに聞きたい質問全然考えていかないくらいもったいない。

それでは今回はここまで。

読んでくれてありがとうございます。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。