2016年のアカデミー賞作品賞『スポットライト 世紀のスクープ』を観ました。
最近は『パラサイト』『ゴッドファーザーPart2』『カサブランカ』などアカデミー作品賞受賞作ばかり観ているような…。
Contents
あらすじ
『スポットライト』はどうやら実話に基づく話の模様。
カトリック教会は世界規模で聖職者による児童への性的虐待を隠ぺいしてきました。関係者や政治機関も含めて、触らぬ神と化した教会の悪事にうすうす気が付きつつも、誰もが黙認してきた様子。
人の信仰心を利用した卑劣なやり口です。また、児童への性的虐待も信仰心が厚いうえに、家庭に問題があり寡黙な子どもを狙うという実に卑怯下劣な方法。
舞台であるボストンは基本的にプロテスタントの国家であるアメリカにして、カトリック信者が多い地域。さまざまな癒着があります。
そんな中、ボストンの地元紙であるボストン・グローブは新しい局長を迎え、彼の指示でこの協会による児童虐待とその隠ぺいについて調査を始めます。
グローブのメンバーは休みを返上で調査に奔走。
過去の虐待の被害者や、事件に関わった弁護士にコンタクトをとり、あらゆる情報を集めにかかります。さらに教会の聖職者人事異動記録をすべて精査し、教会の隠ぺいパターンをつかんでいきます。
情報が集まるにつれて、この事件の規模が想像を絶して巨大であることが明らかになっていきます。
この記事の目的は、単にセンセーショナルなスクープをあげて売り上げをあげることでも、悪事を槍玉にあげることでもなく、巨大な教会のシステムの問題を白日の下にさらし、構造からの変革を起こすこと。
メンバーはスクープを手にした高揚と教会の悪事への失望や義憤を感じながらも、システムを根幹から揺さぶる深い情報が集まるまでスクープを報じるのをグッとこらえます。
満を持してスクープを掲載した号を発刊すると、ボストン・グローブには鳴りやまない量の電話が殺到。そのほとんどが聖職者による児童への性的虐待の被害者からでした。
このスクープにより、10,000件以上の新たな被害情報が寄せられ、世界の何十もの都市で同様の虐待と隠ぺいが行われていたことが明らかになりました。
ペンによる権威・権力の瓦解
民主国家におけるメディアの役割の一つと言えば、権威や権力を批判的に追求し、野党的な立ち位置で権威・権力の固定化や暴走を防止することです。
そしてメディアという言葉の意味は「媒介」
内容を媒介して伝える「文字」や「映像」によって既得権力にメスを入れ、社会のバランスをとるわけです。
その中でも特に重要なことが、「弱者の声を拾うこと」
発言力のない人の意見や、権力などのしがらみに揉み消されそうな声を、丹念に取材をすることで拾い上げ、彼らの代わりに報道するのです。
そうすることで大衆の注意もそちらに傾き、社会全体が権力への監視の目を光らせるようにうながせます。
近年は広告ベースの資本主義システムにメディアが組み込まれ、単純にセンセーショナルで視聴率や発行部数に繋がりやすそうな、本質的ではない報道が増え、マスコミは大衆の信頼を著しく損なっています。
しかし『スポットライト』で描かれるのは真のジャーナリズムの在り方。
彼らも他の紙にスクープを先取りされたくないので、早く公開したいし、今でも被害にあっている人がいるのだから早い方がいいという気持ちが高まり、仲間の中で口論が起きるシーンもあります。
それでもグローブは最後まで教会のシステムを変えるという絶対的な目的を見失いませんでした。
この話は実話がベースになっているので、事件が明るみになった2002年当時は日本でも大きく報道されたそうです。僕はそのころまだ小学校低学年でしたので全然覚えていませんが。
権力は必ず腐敗する
既得権益にメスを入れる。そしてその相手が教会である。
こんな話を聞くとついつい思い出されるのがマルティン・ルターの宗教改革です。
キリスト教徒の信仰心を利用した贖宥状の販売によりあげた利益を、教会はサンピエトロ大聖堂の修築資金などに充てていたのです。
さらにキリスト教信仰の土台である聖書は教会が独占。個人が神への信仰を捧げるのには教会を通すことが不可欠でした。
しかしルターは教会のやっていることの正当性は聖書のどこにも求められないと批判。聖書を一般信者が読めるドイツ語に翻訳し、個人が神と直接つながる個人主義の時代を切り開きました。
そしてそのドイツ語聖書が広まったのは当時発明されたばかりの技術だった活版印刷による書籍の大量発行が可能になっていたからでした。
『スポットライト』で教会の悪事を暴くための調査を続けるメンバーの姿は、まさにヴァルトブルク上の一室で聖書のドイツ語訳を進めたルターの姿のようです。
真実と正義のための、権力との静かな戦い。
それはやはり印刷物という媒体になって民衆に広まりました。
物語の最後では、隠ぺいの主犯格で会った枢機卿が、バチカンに栄転したというメッセージが入れられていました。
やはり教会という巨大組織の体質を一新することは難しかったようです。。。
カトリック教会といえば、歴史を見ても十字軍や新教徒の迫害、異端審問、贖宥状の販売など悪名高いことをさんざんやっています。
これは一神教という排他的な宗教思想の特性上の理由もあるのでしょうが、やはり信仰は政治的に利用されてきた部分が大いにあるというのも否めません。(そもそも古代ローマで迫害されていたキリスト教が最終的に国教にまでなったのも、支配に便利に使えそうという理由も大きい。)
とはいえ、カトリック教会が悪の権化というわけではなく
「権力は必ず腐敗する」という原則から、カトリック教会も逃れることができていないということだと思います。
そして腐敗には、メディアが事実をすっぱ抜いて大衆の目を開くということがやはり必要なのか。
アメリカのベトナム戦争開始のきっかけとなったトンキン湾事件が、実はアメリカの自作自演だったとニューヨーク・タイムズが暴露したのが1971年。これによりベトナム反戦運動の流れが加速したことが思い出されます・・・
人間には何かを敬い畏れたいという自然の欲求がありますから、ひとたび信仰を抱いてしまうと、それに対して客観的な批判の目を向けることが難しくなってしまいます。
さらに階層型の権力構造が浸透してくると、相互監視が起き、それをひっくり返したり、批判の声をあげるのがどんどん難しくなる。
大日本帝国やナチスドイツの暴走にもこのような権力批判の封殺が背景にあったのだと思います。
まとめ
『スポットライト 世紀のスクープ』はジャーナリズムや報道の真の役割を示してくれる映画です。
実話に基づいているというのも本当に勇気づけられますよね。
グローブメンバー役の方々はもちろん、虐待の被害者や弁護士の役の方々も演技が素晴らしい映画でもあります。
派手な演出はなく、淡々と進む映画にも関わらず、緊迫感に見入ってしまうのは彼らの演技の力だと思います。
アカデミー賞の作品賞はなんだかんだでいい作品が多いなあと感じますね、ミーハーなのかな。
皆さんも、『スポットライト』を観て、報道やジャーナリズムとは何かについて考えてみてください。
消費者にも消費行動を変えると手段を通して出来ることがあります。
消費は、生産者の vote なのです。
最後まで読んでくれてありがとうございました。