先日こちらの本を読んでいたら「視声範囲」という概念に出くわしました。面白いので備忘録として書いておきます。
Contents
視声範囲とは?
視声範囲(eye voice span)とは
文章を音読しているときに、発声している語と、発声中に先行して注視している語の感覚のこと
だそうです。
↓日本語で出てくるほとんど唯一の定義を参考に。
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=12011704
認知プロセスとの関係
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4585246/
↑こちらの英語の文献、Abstractだけ斜め読みしましたが、どうも認知プロセスについて深く書いてあるようです。(ちゃんとは読んでないので気になる人は自分できちんと読んでみてください。)
音読は、書かれている文字を視覚で認識し、音に変換し、発声というアウトプットを実行するという、結構難易度の高い作業です。
しかも上手に音読しようとすれば書かれている内容をしっかりと理解したうえで、適切な抑揚や間の取り方を反映させなければなりません。
これが小説や詩などの音読となれば、登場人物や作者の感情を想像し、それを発生に落とし込むという工夫も必要となります。
このときに
「視覚によるインプット」→「脳での音への変換処理」→「発声器官でのアウトプット」
というプロセスに長い時間を取れれば取れるほど、質の高い音読が可能となります。
このプロセスの間隔を音読中に長くとれる状態というのが、すなわち視声範囲が広いということのようです。
「発声器官でのアウトプット」段階にある発声されている語からみて、「視覚によるインプット」段階にある語の先行が長ければ長いほど、「脳での音への変換処理」に長い時間をかけることができます。
長い処理時間を与えられた脳は、馴染みの薄い語彙の読み方を脳内の知識のデータベースから引っ張り出したり、内容や文に込められた感情を汲み取って発声方法に反映させたり、という活動をより高い質で行うことができます。
アナウンサーや役者、芸人、政治家など、人前で話すのがうまい人たちは、この視声範囲が一般の人よりも広いということが予測されます。
役者や芸人は正確には音読をしているわけではないですが、脳内に入っている台本を読んでいると考えればプロセスに共通点はありそうです。
特に漫才師などは、同じネタでの場の空気や笑いの量と持続時間にアドリブで適応して、発声のトーンや間の取り方を柔軟に適応させますから、インプットを行いながら何歩か先のアウトプットの準備を脳で行っているという点で、視声範囲を広く取っている人と類似した脳の機能を活用している気がします。
教育における音読では、視声範囲を意識させるといいかもしれない
小中高と、国語の時間、外国語の時間、道徳の時間などに音読をしたと思いますが、個人的には音読にはもっともっと力点が置かれて良いと思います。
文字をインプットしながら、脳で情報を処理し、発声というアウトプットをおこなう。実に難しい作業です。
しかも声には、文字には含まれない、膨大な非言語コミュニケーションの要素が含まれています。
声色、声のトーンと高さ、声量、抑揚、間、感情、などなど。
文字による意味的な情報のみからこれらの想像して、(それも視声範囲が与えるごく短時間で!!)発声に反映させていく。
高度の認知能力や想像力、短時間の素早いフィードバックループが求められます。
そもそも小説などでは
「~~~~」とお爺さんが言った。
などと来るので、「~~~~」を読み始める前の段階で後ろの「お爺さん」がチラリと見えていないと適切な声色の選択ができません。
声色の選択などの情報は、ただの音読では見過ごされがちですが、ここまで意識した本気の音読を教育現場ではさせるべきだと思います。
子どもたちは教室内では恥ずかしがって本気の音読はできないことが多いかもしれませんが、例えば家庭内で親子であれば恥ずかしがらずにできるのではないでしょうか?
読み聞かせで慣れ親しんだ作品をたまには親子で読んでみる。役を振り分けて演じながら。親が本気で音読していれば子どももそういうものかと思って楽しんで真似してくれるかもしれません。
上手に音読をしようと思えば、自然と「脳での音への変換処理」の時間が多く欲しくなってきます。そうすると次第に音読する文を先読みしたくなり、視声範囲は徐々に広がります。
また、視声範囲の広がりとともに、脳内での変換処理速度も上がってくるはずです。
発声を伴う音読がスムーズができるようになれば、発声しなくていい黙読の速度はより上がるでしょうし、音読のおかげで鍛えられた想像力などは黙読の世界にも受け継がれるはずです。
黙読のときの心の声
視声範囲という概念を知って考え事はこんなところですが、黙読のときの心の声についても考えてみました。
僕は小さいころから読書が好きで、何の本も読んでいない時期というのは人生であまり覚えていないくらいなのですが、本を読まない姉が言っていた面白い発言を覚えています。
「なんでそんなに早く読めるの?私、頭の中で音読しないと本が読めないんだよね。」
確かに、これはわからなくもない感覚です。
なぜなら僕が英語を読むときの感覚は割とこれに近いから。黙読でも英語は読めますが、日本語で本を読むときのように「行ごと読む」「段落ごと読む」ということができないのです。
日本語だと
「行や段落を半ば絵のように引きで見て、目に付くキーワードを拾って意味を脳内で再構築するという読み方」や
「脳内に情景を思い浮かべて、目に入った文字情報を直接それに足していくという読み方」ができます。
しかし、英語では僕はそれができません。
むしろ難しい文章ほど、前から順番に声に出して読んだほうがわかりやすく感じる。
視声範囲について考えるときに、まず心の声というフレーズが湧いてきました。
実際の発声とは、先に視線が掴んで読み始めている心の声をシャドーイングするようについてくるものなんだなあ、と。
輪唱のように後から追いかけてくる。
黙読のときには、もしかしたらこの音読に先行する心の声のみを使って文章を読んでいるのかもしれない。
一方で、上に書いたような僕が普段日本語を読むときにする「読み方」では、心の声が聞こえないのです。
おそらく文字という媒体に込められた意味をダイレクトに掴み取って再構築しているだけなので、「音」という媒体の介在がない。
ただこの読み方では、早く読めるとか物語の情景に没入できるとかいう利点がある一方で、心の声では多少補填されていた非言語的コミュニケーションの持つ膨大な情報がそぎ落とされてしまうというデメリットがあります。
要するに、文字情報から想像(創造?)される声色、声のトーンと高さ、声量、抑揚、間、感情などを無視しても読みを進めることができてしまうのです。
最近では新書や論文、ビジネス本、How to本など、内容がわかればそれでよく、非言語的コミュニケーションの情報などそぎ落として構わないものにはそれにあった読み方をして、
小説や絵本や詩など、十分な想像力を持って非言語的コミュニケーションを補填しながら味わうべきものにはそれにあった読み方、必要とあらば実際に音読するなど、
目的にあった読み方をするように心がけています。
いずれの読み方にしても、視声範囲の話に少し戻しますが、読み方によって視線の動き方はまるで違います。
読書という単純な作業にみえて、実は多様な読み方があり、目的によっても選ぶ余地がある。
同じ読みをするにしても、視声範囲を広げるなどのトレーニングと工夫で読みの質や、脳への影響には大きな違いが出てくる。
そんなことが面白いなあと思ったりしたわけです。
読みの種類が複数あるならば、それに応じて書きにも複数のアプローチがあるわけで。
書き手として意識できる余地はまだあるなあと思いました。