持論や考え

【受験生へ】古文を勉強する理由から語る、受験勉強の意義

こんにちは。

普段は家庭教師として英語を指導しており、世界史も一応指導可能という感じでやらせてもらっているわけですが、古文については門外漢です。

自分が受験生の時に一応勉強はしましたが、センターでさえお粗末な点数しか取れていないほど古典派ダメダメでした。

しかしこの度、我が親愛なる生徒が古典を勉強するということで、なんとか助けになれないか、最悪でも並走して相談相手くらいにはなりたいものだ、と考え

6年ぶりに古文の勉強を始めました

まずそこで、古文という極めて使い道の少ない科目を、何故勉強するのか。

その勉強から何を学び取ればいいのか。

そういう疑問について語るところから始めることにしました。

以下、その疑問に答える拙文になりますが、古文の話題を超えて話が大きくなりましたので

せっかくだからシェアしておくことにしました。

受験勉強や学歴社会に疑問がある人は是非読んでみてね。

役に立たないのに古文を勉強する理由

古文は生きていくうえで何の役にも立たない知識です。(古文好きな方、古文の先生や研修者の方には失礼。)つまり古文は教養のために勉強する、ということに尽きるのでしょうか。

確かに世界を代表する文学作品である『源氏物語』を実際に読むことは、自国の歴史や文化のルーツを知る上でも為になるしょう。学校でかいつまんで習った有名な和歌や古文を深く理解したら思わぬ発見があり、面白いかもしれません。

しかし、他の科目と比べても、古文は実際的に役に立つ場面が極めて少ないというのは事実です。

英語は外国の人と話すときや仕事で大いに役立ちます。アクセスできる情報も日本語よりも英語の方が圧倒的に多く、義務教育に組み込まれたことで話題のプログラミング言語などやはり英語がベースになっています。

算数だって毎日の買い物で使いますし、将来仕事についてもデータの分析や利益計上などで多少の数的能力を問われる場面はあります。

歴史や理科もあまり役に立つ教科ではありませんが、歴史を知っていれば旅行が楽しいですし、物理や化学や生物などの発展なしでは現代の豊かさはあり得ませんでした。

一方、古文となると…なかなか「教養」という言い訳抜きでは勉強する目的を説明しにくい部分があります。

よく英語や数学に対して「私は日本で生きていくから英語はいらない。どうせもうすぐ自動翻訳が正確になる。」「数学なんて使わないからやらなくていい」などという人がいますが、この考え方は貧しいし、とてももったいないと同時に、この言葉の槍は何故比較的使い道のある英語や数学に向けられ、古文に向けられることが少ないのか疑問でもあります。この口撃が通用してしまったら、古文の先生は、英語や数学の先生に増して立つ瀬がない状況に追い込まれるでしょう。

では古文を勉強することに意味はないのか。

教養になるが役に立たない(知っていても役に立たない知識のことを教養といいます)古文の勉強から、何を学べばいいのか。

この問いの答えは、僕が普段から口を酸っぱくして繰り返している内容と同じです。

大学は歴史の年号を人より知っている学生や、英文法を正しく理解している学生や、『宇治拾遺物語』がすらすら読める学生を欲しがっているわけではありません。

大学は、勤勉で頭がよく、知性に溢れた学生を欲しがっているのです。この勤勉さ、頭の良さ、知性などを測るために、上にあげてきた科目を素材として使っているだけなのです。

ひとつの科目だけでは、その計算能力、知識活用能力、観察力、判断力、客観視の力、表現力などを、果たして学生たちが汎用的に使いこなせるのかわかりません。そこで、複数の領域を試験科目として課すことで、これらの能力を総合的に評価したいわけです。

(さらに大学は教育機関であると同時に研究機関であるので、将来的に研究に貢献しうる知識の土台や知的探求心がある学生が欲しいという思惑もあるでしょう。そして私立大学はビジネスでもあるので、自校の卒業生が社会的に認められる業績をあげれば、それは大学のブランドに繋がりますから、そういう意味で優秀な学生が欲しいという本音ももちろんアリアリでしょうね…)

さていつも通り話が膨らみすぎているようですが、話を古典に戻しますと、畢竟、古典もこのように学生の頭の良さや知性を測るための素材のひとつに過ぎません。古文単語を知っているかどうかで記憶力を、文法的な問いで論理的思考力や知識活用能力を、内容理解の質問で情報把握能力を、問うているだけです。これは英語でも数学でも同じことです。

ですから、古文を古文としてしか見ていないうちはどうしてもやる意味がないという風に思えてしまいますが、古文の奥にあるものをしっかりと見極めて学習するようにしましょう。

勉強する意味はありますし、そういう一般的で本質的な能力が高い人間は、仕事もできるでしょうし、話も面白いでしょう。仕事ができればいろいろな体験をするチャンスが与えられます。話が面白い人にはやはり面白い人が寄ってきます。こうして、経験や出会いを通じて能力の高い人間はどんどん価値あることを吸収し、人間的な魅力を高めていきます。

学歴社会という慣習には、偏見的な理由ももちろんありますが、今説明したようなカラクリが潜んでいるのです。こう考えると、「学歴がある人間が欲しい」という一見薄っぺらで表層的な表現の深部にある本質が見えるでしょう。すべては、学歴ではなく、科目試験を通して測られる、かくある能力たちによるのです。そしてその能力による僕たち人間の仕分けが、もっとも表面的に表れているのが、学歴なのです。(なんだか寂しいしつまらない気もしますが…)

そして今、受験勉強に取り組む瞬間が、その「優秀な人間はどんどん優秀に、無能な人間は無能なままに」という残酷なこの世の仕組みに、どう組み込まれていくのかを問われるスタート地点です。

もちろん人生遅すぎるということはありませんから、本人次第でどのタイミングでも社会の上昇気流にのることは出来るでしょう。しかし、それには大変な努力と自制が求められます。

周りの友達も同じ目標に向かって頑張っていて、それだけを考えていればよいという大学受験というタイミングは、比較的に楽に上昇気流に乗るためのラストチャンスです。(プレッシャーに感じないように。大学受験で人生が終わることはありません。自分次第です。ただ受験というのは結構頑張りやすいタイミングだよ、ということです。で、大学受験が大抵最後の受験でしょ?)

このようなことを理解したあなたはもう大丈夫。「古典なんかやる意味ないでしょ」なんて視野が狭く次元の低い文句を垂れることはもうないでしょう。何よりそういうことを言っても大学は受験科目を変えてはくれませんから、どうにもならないことに文句をいっていても時間の無駄ですよね。 

では、他の科目と同様、古文を通しても、がっつり人間力の土台となる力を身に着けていきましょう。

なんやかんやで一生懸命勉強して古文のことがわかってくる頃には、だんだん古文自体が好きになってきちゃったりしてね。

まとめ

まとめはないです。上の文章ですべてです。

読んでくれてありがとうございます。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。