持論や考え

信仰は、意志と感情が結びついて生まれ、体験の裏付けによって固定化する

こんにちは。

みなさんに信じているものはありますか??

今回は「信仰」をテーマにした記事ですが、これは宗教的な信仰に限った話ではありません。

信じる、という意志か行為か感情か、そういうものを一般に信仰という言葉で書いています。信頼や信用と書き換えても全く問題ありません。

しかし人間がモノを信じる時に、それが純然たる理性的な判断や、合理的な根拠に基づいていることはほとんどないので「信仰」という仰々しい言葉をあえて選んでいます。

自分のことを信じていますか?

恋人のことを信じていますか?

自分の夢や人生を信じていますか?

民主主義を信じていますか?日本を信じていますか?

進化論を、環境問題を、ユニクロの品質を、スピルバーグの実力を、ブッダの言をを、Radwimpsを、サンドウィッチマンを、電車の時刻表を、ユーロの価値を、朝井リョウを、ラコステを、加法定理を、ロングブレスダイエットを、パンテーンを、羽生結弦を、アッラーを、憲法第9条を、アインシュタインを、天気予想を、ハリソンフォードを、ロックンロールを、オーガニック食品を、レアル・マドリードを、

信じていますか?

信じているものがあるなら(ない人はいないでしょうが)、どうしてそれを信じて、価値を置くようになったのでしょうか。

僕は信仰は、何かを信じるという意志が、時間や回数を経て感情と結びつき、それを裏打ちする体験によって固定化することで形成されるものだと考えます。

つまり最初は意志の力で信じていたものが、徐々に感情に絡みとられ(信じたという事実に情が移る)、偶発な実体験がそれにたまたま矛盾しない形で起こると、いよいよ僕たちは「理性的に」それを正しい信仰だと判断するようになる、ということです。

言い換えても分かりにくいので例を出しますね。

大学受験を例にとり、ある生徒が東京大学を目指すとします。

高校1年の終わり頃、地域随一の進学校に通っていた彼女は、周囲が大学受験を意識し始めるのを見て、東京大学を目指そうと決めます。親に頼んで通い始めた予備校ではもちろん東大コース。部活を超えて家に帰っても毎日教科書や参考書と向き合う日々が始まります。

この段階で彼女を突き動かしているのは、意志の力です。東京大学に合格するために一生懸命勉強しようという意志です。

そんな生活も2年が過ぎ、いよいよ受験間近。毎日5時間、休日は15時間にも及んだ勉強時間によって彼女の意志は、信仰に変わり始めています。勉強や東大の価値を信じないことは、彼女の努力を否定することになりかねないからです。

また、勉強のモチベーションを保つために彼女は東大のことを調べあげてきました。すると東大の卒業生には世界的は発見をしている素晴らしい偉人がたくさんいることに気がつき、東大の学生たちはただのガリ勉ではなく個性的で魅力のある人が特に集まっているように思え、東大の2次試験は他大学の試験とは一線を画す知性の本質を問うている良問だと考えるようになります。もうこれは絶対合格するしかありません。

惜しくも現役で合格することは叶わなかった彼女ですが、この信仰のおかげでもあってか、1浪ののち無事に東大に合格しました。丸3年に及ぶ努力がついに実ったのです。

入学後は東大生の定番である家庭教師のバイトを始めました。文理問わずトップレベルの水準で指導できる最高学府の家庭教師には引く手あまたです。ほかの学生が時給1000円のコンビニバイトをしているなか、彼女は1コマ60分で3000円の稼ぎ口を見つけました。効率的に稼ぐことで自由な時間が増えるため、学生時代にしかできない経験に多くの時間を費やすことができました。

これが彼女の「信仰に適合する実際の経験」です。

勉強や東大に価値を置く彼女の信仰が、実際に体験として彼女を助けています。こうなると彼女の信仰は固定化します。学歴が全てではないけれど、やはり東大に価値はある。そういう信仰が彼女の軸のひとつになるのです。

学生時代は家庭教師として生徒に勉強の面白いさや大切さを説き、就職してからも自分がしてきた努力に感謝し母になってからも子どもには勉強をしてほしいと望みます。

彼女は、自分がした努力が実を結び、そのおかげで今があると考えるので彼女にとって勉強や東大への想いは信仰ではなく、理性的な判断だと感じられると思います。

この例では、ある女性が東大合格を通して、勉強や学歴への信仰を抱くようになったという展開でしたが、同じ筋書きから「東進ハイスクール」や「努力」「高校の先生」「父の言葉」などを信仰するような人物像を描くこともできるでしょう。

そのでも結局は意志×感情×実体験=強い信仰という図式がなりたつと思います

次に恋人を信じる気持ちを例にとりましょう。

人間よく知らない人のことを信じるわけにはいきませんから、好きになるタイミングがいつであれ、恋人を信じるようになる最初のステップは「信じよう」という意志なはずです。

ある男性は社内の違う部署の女性に恋しました。よく社内でやり取りをしているうちに気になってきて、だんだんとプライベートでも合うようになりました。

それから2ヶ月ほどで付き合うようになった2人ですが、彼は彼女をこれまでの男性遍歴を知り、少し不安になります。ここで彼が彼女を信じているのは意志の力です。気持ちとしては疑いたい部分があってもそれをグッと押し殺して、信じる決意をしたのです。

それから1年、2人の間に大きな問題起きず、順風満帆な関係が続きました。彼の彼女に対する信仰は、感情をまとったものに変容しました。信じようとして信じているのではなく、信じるという感情が湧いているのです。

それに、実際彼女にはこの1年疑わしいところは一切ありませんでした。この実体験が彼の信仰を裏打ちする形で固定化しています。

もちろん好きだから信じるとか、感動したから信じるとか意志ではなく感情主導型の信仰もあり得ると思います。しかしこの場合も、感情的に信じたくなるような事態が起きても、信じるという意志が働くことがあります。

例えば好きなサッカーチームが良い選手を放出や怪我で失い、今シーズンはもう優勝は難しいとしか思えないような時でも、最後の望みをかけて試合の応援に行ったりとか。

こうなるとやはり信仰の構造には、意志と感情の両方があるように思えます。

今回の内容は特に結論があるわけではありませんが

こういう信仰の捉え方を踏まえて自分の価値観や信じている人やものについて考えてみることはそれらを見直したり捉え直したりする良い機会にはなると思います。

それでは。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。