ポルノグラフィティの『ジョバイロ』を初めて聴いてからゆうに10年以上たっているけれども、何度立ち返っても歌詞が凄いので、ここらでいったん記しておこう。
歌詞のついての記事も増やしていきたい今日この頃。
記事にすると読みの精度が上がるから新しい発見もあるのよね。
Contents
基本情報
- リリース:2005年11月16日
- 形式:シングル(『DON’T CALL ME CRAZY』と両A面)
- 作詞:新藤晴一
- 作曲:ak.homma, 新藤晴一
- 収録アルバム:『m-CABI』『PORNO GRAFFITTI BEST JOKER』『PORNOGRAFFITTI 15th Anniversary “ALL TIME SINGLES”』
ええ・・・こんな昔の曲なのか・・・。
僕がポルノを好きになったのが確か2008年くらいだったはずなので、ぶっちゃけ未だにベスト盤の『RED』『BLUE』に収録されているものが「初期の曲」で、『ACE』『JOKER』に収録されているものは「最近の曲」というイメージを引きずっている・・・。
『Go Steady Go!』が2002年日韓W杯でNHKのテーマソングになっていたはずなので、それと3年しか変わらないのか・・・衝撃だ。『Go Steady Go!』が初収録されたのはシングルの『Mugen』のはず。『Mugen』なんて初期中も初期の代表曲じゃん。
僕はまだ世間的には若者の部類だろうが、年を取っているな・・・。
作詞:新藤晴一
さて、基本情報で大切なのは作詞の担当がGt. 新藤晴一だということ。
彼は作詞家であるに加えて、エッセイ集『自宅にて』や小説『時の尾』『ルールズ』を出版しています。
クリープハイプ尾崎世界観のように小説として評価されているような話は聞きませんが、それでも小説を連載しませんかという話を打診したくなるくらい、作詞を通して言葉を操るが認められているということは言えるはず。
歌詞を書く能力と、物語を作る能力は別物だし、
歌詞で効果的な表現と、文学で求められる表現は異なる。
個人的には晴一さんの言葉は、歌詞で活きるのだろうと思います。
晴一さんの作詞には、「悲しみ・エロスを小綺麗な表現で包んで、哀愁・妖艶に落とし込む」という特徴があるように思います。
(昭仁さんはもう少しストレートでポジティブな感じが多い傾向かな。)
その作詞能力が存分に表れた『ジョバイロ』
見ていきますか。
ジョバイロの意味
タイトルの「ジョバイロ」は「Yo bailo.」
スペイン語で「私は踊る」という意味です。
「Yo」が一人称主格で「私」
「bailo」は「踊る」を意味する動詞「bailar」の一人称単数現在形の活用。
つまり「Yo」は言わなくても「Bailo.」だけで同じ意味です。
スペインに数か月滞在して一端にスペイン語を話していたことがありますが、わざわざ主語は言わないことが多い気がしますね。
「誰が」を強調するときはいうのでしょうが。
晴一さんがスペイン語を学習した経験があるかは知らないけど、たぶん英語の「I dance.」を置き換えたのだと思います。
だがここは果敢に「主語を強調するためにあえて「Yo bailo.」にしたのだ」と言い張って解釈していきましょうか(笑)
なんでここでスペイン語のタイトルをつけたかといえばもちろん、初期のポルノが纏っていた「ラテン色」を出したかったからでしょう。
ポルノには『サウダージ』『アゲハ蝶』『オー!リバル』などのラテン調のヒット曲が多く、これは、日本で大衆的にウケているロックバンドの中ではユニークな点です。
で、『サウダージ』はポルトガル語「saudade」で「哀愁」の意味だし、
『オー!リバル』はスペイン語「rival」で『ライバル』の意味です。
どちらも作詞は新藤晴一。
ということで『ジョバイロ』ももちろんこの例に当てはまります。
ジョバイロの物語
ジョバイロはラブソングです。
ラブソングの中でも失恋ソングです。
それも純愛が破れた失恋ソングではなく、ワンナイトか浮気か不倫か、そういう類の刹那的な関係の中で主人公が抱える孤独を歌った失恋ソングです。
正直テーマやメッセージはそれほど唸るようなものではありません。
晴一さんの世界観がバッチリ押し出されていますが、晴一さんの歌詞を知っている人なら、「ああ、晴一さんらしいな」という感じ。
しかし、新藤晴一の歌詞の神髄はテーマやメッセージ性ではなく、言葉選びや表現力にあります。まあ、それはあとで見ていくとして、
『ジョバイロ』では主人公の性別が男性です。
一か所だけ一人称が「僕」と出てくるので、うがって見方をしなければ男性でOK。
が、歌詞の雰囲気から女性目線と読みたくなる。。。
『サウダージ』をはじめとして女性目線の歌詞が結構あって、昭仁さんのボーカルを女性の声として聴くのにも慣れているというのもありますね。
二人称が「あなた」なのも女性的にきこえる原因か。
「君」や「お前」なら男性視点の曲という感じがするし。
で、主人公が想う相手は女性です。
明記されてはいないものの、相手が「銀の髪飾り」を落としていくシーンが描かれるので、こちらも素直に読めば女性でしょう。
ということで
『ジョバイロ』は異性愛における不倫のような関係を、男性の視点から描いた失恋ソングである。
ですね。
ジョバイロの歌詞を解釈しよう
では本題、歌詞の凄さを見ていきましょう。
歌詞の全文はここででも見てくだせえ。
胸に挿した一輪の薔薇が赤い蜥蜴に変わる夜
冷たく濡れた舌に探りあてられた孤独に慣れた心
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
ここは唸る。たった2行に込められた情報量たるや。
主人公の刹那的な心情の変化、恒常的な空虚感、時間や場面の描写が巧みに表現されています。
「胸に挿した一輪の薔薇」は純愛の象徴。
それは「赤い蜥蜴」に変わる。「赤い蜥蜴」は性的衝動の象徴。
つまりこの最初の1行は、
「ロマンス」が「エロス」に変わるという意味だと解釈できます。
薔薇はいいとして、「赤い蜥蜴」がなぜエロスかというと次の行。
「冷たく濡れた舌に探りあてられた」
があるからです。「冷たく濡れた舌に」は「赤い蜥蜴」に比喩できます。
そして「冷たく濡れた舌に探りあてられ」るわけですから、これが官能表現でしょう。
もちろん普通に読めばオーラルセックスのことを言っているとわかりますから、官能表現はこれで必要十分。
逆にこれ以上書くと生々しくなって歌詞全体の雰囲気が損なわれます。
あくまでこの曲の主眼は身体性ではなく精神性にあるわけで、精神的エロスの領域に表現は留めておかなければなりません。
(ちなみに、似たような雰囲気で「身体的エロス」に主眼が置かれている曲は『まはろば○△』があります。)
では、「舌に探りあてられた」の後に余った目的語のポジションに何が置かれるのか。
「孤独慣れた心」
いや、100点やないかい!
こうしてエロスの描写はきちんと、精神的領域に回収されるのです。
さらに「孤独な心」ではなく「孤独に慣れた心」ということで、主人公が日常的に抱える虚無感が表現され、オーラルセックスという身体的な行為で精神が発見されるという肉体と精神の交錯構造があるせいで、主人公が孤独を紛らわせるために倒錯した(自己破滅的な?)行動を取っていることもわかります。
まさに完璧出だしだ!
舞台の真ん中に躍り出るほどの
役どころじゃないと自分がわかっている
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
このBメロで、この恋が正当なものではなくということがハッキリしますね。
ここで「舞台」という表現を使っているのは、サビで出てくる「Yo bailo.」(ジョバイロ)という部分のために準備です。
あなたが気づかせた恋が あなたなしで育っていく
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
悲しい花つける前に 小さな芽を摘んでほしい
闇に浮かんだ篝火に照らされたら ジョバイロ ジョバイロ
それでも夜が優しいのは見て見ぬ振りしてくれるから
切ないですね・・・
あなたがいないときにあなたへの想いが募っていくという・・・
まさに大事にされない側の感情の一人歩き感・・・
さて、ここで出てくるタイトルの「ジョバイロ」
「私は踊る」というわけです。
ここで躍らせるためにBメロで「舞台の真ん中に躍り出るほどの役どころじゃない」と言っていたわけですね。
舞台という場面セッティングをリスナーに差し込んでおいて、サビで回収している。
それも舞台の真ん中の「スポットライト」の下ではなく、すぐに燃え尽きて消えてしまう「篝火」に照らされたときにだけ、 Yo bailo, yo bailo. なのです。
悲しみのダンス。
この表現には普遍的な力があります。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークのダンスや、『ジョーカー』のホアキン・フェニックスの公衆トイレでのダンスのシーンなんかが想起される。
もちろん『ジョバイロ』で踊ってしまっているのは「愚かな恋心/肉欲」でしょう。
刹那的な関係と知りながらも、まんまと踊ってしまう自分へのやるせなさを感じます。
さらに凄いのは、この曲の最初の歌詞で以下のように「燃える」表現への布石を打ってあることです。
人は誰も哀れな星 瞬いては流れていく
燃え尽きると知りながらも 誰かに気付いてほしかった
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
曲の最初に結論が出ていましたね。
これがこの曲のすべてでしょう。
銀の髪飾り 落としていったのは この胸貫く刃の代わりか
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
折れかけのペンで物語を少し
変えようとしたら歪な喜劇になった
2番に入ります。
銀の髪飾りという彼女を想起させる忘れ物のおかげで、こっちは彼女を忘れられなくなるという辛さ。
別れの言葉が優しいと辛い、みたいな感じと似てますね。
さらに「銀の髪飾り」「刃」「折れかけのペン」など、銀色で鋭利な物体を示す名詞が立て続けに繰り出される。情景的な韻を踏むことで歌詞の雰囲気に統一感を出しています。
「物語を少し変えようと」というのは、「自分が篝火の下からスポットライトの下に躍り出ていけるのを期待する」ということでしょう。
「悲劇」を「歪な喜劇」と表現するところが文学的。
「悲劇」はこの世の苦しみをストレートに表現したものですが
「喜劇」にはこの世に存在する苦しみを「見ないふり」をして覆い隠してしまうという、ある種狂気を孕んだ性質がある気がします。
上で言及した映画『JOKER』でも、主人公は「人生は悲劇だ」と思っていましたが、狂気の世界に踏み入れた瞬間に彼の中で「人生は喜劇」に転じます。
「喜劇」という単語は、「舞台」という場面セッティングにしっかり符合するため、「歪な喜劇の隅っこで空しく踊るだけの主人公」という情景を描くことができます。
晴一さんの歌詞では、このようにひとつの大きな比喩の枠組みのなかで、小さな比喩が効果的に繰り出されるという手法がよく見られます。
これが「歌詞の世界観」を作る要因だと思います。
思いつきの比喩をやたらめったらとひとつの曲の歌詞に詰めて並べたような曲もたくさんありますが、ここが「執筆」の仕事がくるアーティストと、こないアーティストの差の一つなのでは。
宇宙の広さを記すとき人は何で測るのだろう?
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
この想いを伝えるとき僕はどんな言葉にしよう?
2番サビです。
この最初の2行は本当に唸ります。
並みの作詞なら「僕の想いは宇宙よりも広い」とか言っちゃいそうなところ。
宇宙の広さの測り方と同じくらいに、主人公の彼女へ想いを伝える方法も果てしない。
野暮なことをいえば、「宇宙の広さは星から出ている光のドップラー効果による赤方偏移を分析することで計算する」と本で読んだことがあります。
しかしこの歌詞は、最初にちゃんとこう言っている。
人は誰も哀れな星 瞬いては流れていく
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
それほど理路整然として比喩の繋がりは見られないものの、これも「舞台」のほかに「夜・宇宙」の場面セッティングというこの歌詞が持つもうひとつの枠組み内で動いている表現といえます。
あなたの隣にいる自分をうまく思い描けない
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
はぐれないよう絡めていたのは指じゃなく不安だった
ここでは「指」ではなく「不安」ということで
身体性よりも精神性に主眼があるということが再度明示されます。
思いつきや直感ではなく、きちんと構造から考えて書かれた歌詞であることがわかります。
それでも夜が優しいのは見て見ぬ振りしてくれるから
『ジョバイロ』- ポルノグラフィティ
サビの最後であり、曲の最後でもあるこの一節。
曲の最初でも「夜」の表現があります。
つまり「一輪の薔薇」が「赤い蜥蜴」に、
「ロマンス」が「エロス」に変わる夜のことです。
その夜が「優しい」のは「見て見ぬ振りしてくれるから」とは。
いったい何を?
それは「Yo bailo してしまう孤独に慣れた心」では?
本当は「誰かに気付いて欲しかった」のだけれど、気づかれたら「答え」が出てしまう。
だから恐ろしい「答え」を知ってしまうくらいなら、エロスの陰に隠れたロマンスなど、見ないふりをしてくれるほうが、ある種の「優しさ」に思える。(酷ですが。)
このような矛盾した心は恋愛沙汰では本当にありふれている。
だいたいの恋愛相談なんで当事者ではない側からしたら「じゃあそうしろよ」と言いたくなるようなものばかり。なぜそんなに煮え切らないのか理解できない。
しかし、当事者にとっては一大事ですよね。
「知りたいのに知りたくない」「伝えたいのに伝えたくない」なんて矛盾を平気の本気で思えてしまう。
『ジョバイロ』はこのような矛盾をバッチリ捉えて表現しています。
「見て見ぬ振り」をされたまま、刹那的に「孤独に慣れた心」を癒し、「不安を絡めて」なんとか繋ぎとめようとする、報われない恋の唄。
これが主人公の踊り、Yo bailo. なのです。
まとめ
これは晴一さんも「我が意を得たり。」という解釈なのでは!?
まあ違ったとしてもそれを面白がれる余地があるのが良い歌詞ですよね。
すでにずいぶん前から頭では持っていた解釈ですが、改めて文字に起こしたら、書いている最中に3回くらい鳥肌が立ちました。
ラテン調はポルノグラフィティというより ak.homma氏の得意技みたいになっている節がありますが、やっぱり晴一さんの歌詞があってこそだと思うなぁ。