持論や考え

「レッテル貼り」と「無視される内部分裂」

今回はちょっと抽象的なテーマについて。

「レッテル貼り」と「無視される内部分裂」についてです。

結論からいうと

「レッテル貼り」は物事をわかりやすくするうえでとても便利な道具ではあるが、性質上同じレッテルを貼られた集団のなかにも当然ある差異や多様性を無視してしまうことになる

ということです。

そしてその内部の差異や多様性は、無視してはいけないもののときが極めて多いです。それを理解せずに「レッテル貼り」という便利グッズの楽な面ばかりみて味を占めていると、頓珍漢なことになってしまうということです。 

まるで目の前の便利さばかりに目がくらみ、大気汚染や資源の枯渇に全く気を配らない我々人類のようにね。(お??)

これは大変基本的なことではあるのですが、まったくもってどうにもこうにも、いくら気をつけても忘れてしまいがちなことでもあります。

自分への戒めの意を込めて、ここは一筆まとめておきたいと思います。

レッテル貼りの例

まずは僕たちが日ごろお世話になっているレッテル貼り用いた表現の例を考えてみます

  • ドイツ人は規律に厳しい
  • おじさんは頑固だ
  • イスラム教徒は怖い
  • ゲイは女々しい
  • フェミニストは感情的だ
  • 動物好きは優しい
  • 日本人は勤勉だ
  • 芸人は変わっている

ちょっと際どく聞こえる例もあるかな・・・

ですがこれは実際に僕が聞いたことのある表現ばかり。こういうレッテル張りは意見を固めてそれを説明したり、全体的な傾向を示したりするときにはとても便利です。

そして有効な場合も多いです。国民性や男女の恋愛観を比べて語るときはどうしても、国民や性別という集団をひとくくりにして語らないと話にならないの、仕方のない部分もありますし、そういう話題はなんだかんだ言っても楽しいんですよね。

レッテル張りのメリットとデメリット

人間のコミュニケーションに欠かすことのできないレッテル貼りですが、これにはもちろんメリットとデメリットがあります。まとめてみます。

メリット

  • 物事がわかりやすくなる
    簡単に結論できるので楽
    レッテルから想起される印象を利用できる

レッテル張りによって物事がわかりやすくなるのは間違いありません。

僕の考えでは、レッテル貼りとは分類の一種で、分類の中でも科学的な根拠に乏しい分類わけで、それに個人あるいは集団的な経験から得られた判断を加えたものです。

「ドイツ人」「フェミニスト」「芸人」という分類は、自然科学的な人間の種類ではなく、社会的な種類です。

ドイツ人はオーストラア人と人種も話す言語も同じなのにオーストリア人ではありません。これは国家というのものがそもそもフィクションだからです。

フェミニストは主義信条だから、そうだと主張してしまえば「そうだね」というしかないわけで、「芸人」など職業は現在の社会の需要にマッチしているから存在しているだけの枠組みです。

これらは「単子葉植物」とか「ハロゲン」とかいう自然科学的な分類とは種類が違いますよね。

これに人が勝手に判断を加えたものがレッテルです。動物好きな人は優しく見えるし、日本人の労働時間やモノづくりの実績をみえば、他の国民よりもいくらか勤勉というのもいいでしょう。

しかしそれは科学的な・客観的な真実では全然ないですよね。これがレッテルです。

レッテルを使うと、ドイツ人が全員規律を重んじるか調べなくてもそう結論できるし、もっと言えばひとりの目立つフェミニストが感情的な性格であればそう決めつけることができます。

レッテルは貼られた瞬間に思考を止めます。思考のセーブポイントのようなものだと思います。

それは悪いことのようですが、そういう機能が必要な時だってありますよね。

また、「動物好きなんだよね~」「スピッツ好きなんだよね~」というとなんとなく良い人感を演出できたりしますが、これはレッテル(こういうのはレッテルとは言わんだろという気もするけど)から想起される印象には利用価値もあるという例です。

子供服のモデルがなぜか外国人だったりするのもそれですね。

デメリット

  • 思考が止まってしまう
  • 思い込みや差別に発展しうる
  • 貼り換えが難しい
  • 同じレッテルを貼られたグループ内のものをすべて同一視してしまう

説明しせずとも言いたいことは伝わると思いますが

メリットと正反対で、一度貼られたレッテルをはがすのは困難で、それはつまりレッテルの貼った対象についての思考がずっと止まってしまうということです。

「ユダヤ人」「新興宗教」「犯罪者」などというレッテルには強烈なパワーがあります。信仰上ユダヤ人であることや前科歴があることは事実でもそこから想起されるイメージはやはりレッテルです。

レッテルの「スケール」と「無視される内部分裂」

ようやく話の本題ですが、ポイントは上に書いたレッテル貼りのデメリットのひとつである「同じレッテルを貼られたグループ内のものをすべて同一視してしまう」ということです。

ここでもうひとつ組み込まなくてはならない考え方に「スケール」があります。

自分がレッテルを使っているときに、それを一体どの「スケール」について適用しているのか意識することです。

「日本人は~」ならそのスケールは国民ですし、「私って~な人だから。」ならそのスケールは「個人」です。

そしてレッテルが国民のような大きなスケールに適用されるときはもちろん、個人のような一見最小単位にみえるものに適用されるときでも、レッテルの内部には分裂が起こりえます。

例えばですが

「規律を重んじるドイツ人」の中にも実際に規律を重んじるドイツ人と、規律を嫌うドイツ人の間に分裂があります。これは決して2つに分裂しているというわけではありません、実際にはグラデーションに近いは形だと思いますが、ここれはわかりやすく分裂と言っています。

「女々しいゲイ」の中にも実際に女性らしさを求めるゲイの方と、たくましく男らしいゲイの方がいます。

「奥手は私」の中にも、実際に控えめで前に出られない私と、ときに大胆な私が分裂して存在します。

どんなレッテルを貼って何かを捉えようとしても、積極それは、本当は多面的な性質をもつそれの一面を映す鏡でしかないのです。

内部分裂を意識したきっかけ

僕がこの記事を書こうと思ったのは、歴史を勉強しているときでした。

中国でもヨーロッパでもインドでも日本でも、歴史はどこでもそうなのですが、さっきまで同盟していた組織や国が次のページでは交戦していたり、国が変わるときに何故か負けた側の主義主張が通った新しい国づくりが始まったりと、ただ年号と出来事を覚えても理解できないことが多いです。

しかしこれは僕たちが何かを理解するときに、それは単一均質の存在であって内部に分裂などがあろうとは想定していないからこそ抱く疑問でした。

イギリス革命やフランス革命くらい重要な事件だと、高校レベルでも王政派と議会派のさらにその中の派閥分裂まで学習しますが、実際にはさらにその派閥の中でも分裂はあったはずです。

僕たちが習うオスマン帝国も、コミンテルンも、シーア派も、アル=カイーダも、一枚岩の組織ではなかったわけです。

日本だって第二次大戦前に、日米開戦に反対していた人なんてたくさんいたわけです。

それでは現在の北朝鮮はどうでしょうか。

狂った独裁国家というのは僕たちが(というかメディアが?メディアを通さず北朝鮮を知っている人なんていますか?そう考えると恐ろしい…)貼ったレッテルです。しかしその中には必ず内部分裂があります。もちろん国民はまったく金家が持つ価値感とは異なる考えや望みを持っているでしょう、

最近だとグレタさんの活躍もそう。彼女の突出は間違いなく世界的に環境問題にへの関心を高めていますが、彼女を見て初めて環境問題について考えた若い人たちは、環境保護活動を「飛び恥」や怒り(How dare you!)との連想で考えるようになるかもしれません。

しかし実際には彼女やその他目立って活躍している環境系NGOなどの消極的活動(汚すのをやめようという方向性の活動)をしている団体が多くある一方で、テクノロジーによって今の生活を保ったまま人類が生き延びる道を模索するしかないと信じている人たちによる積極的活動(汚すようなことをしても大丈夫なシステムを作ろうという方向性)もあります。(極論宇宙に脱出して数千年後地球が復活したら戻ればいいじゃんというWALL・E的な発想も含めてね。)

同じ環境活動家でも主義主張や、やり方については分裂があるのです。

ベジタリアンだって環境保護目的の人もいれば、宗教的理由の人もいるし、博愛精神からくる動物愛護派の人もいて、単に健康のためという人もいます。これはよくベジタリアンが動物愛護と結びつけられるものだから、それが肉食の人よりも道徳的に高尚なようなふるまいのように見えて鼻につくという理由で叩かれるときに忘れられている分裂です。

まとめ

「悪のレッテルを貼られる」などとマイナスのイメージで使われることがほとんどな「レッテル貼り」ということについて考えてみました。

まとまらないまま書いているので、中途半端な内容で申し訳ありません。

ただレッテル貼りというのはその特性と利用法を把握していれば、決して毛嫌いするべきものでもないと思います。

特に「レッテル貼り」対象スケールと、その中で起きうる内部分裂を考慮に入れるというころが大切なのではないかなと考え、書き連ねてみました。

読んでくれてありがとうございます。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。