持論や考え

サルトルとマルクスの共通点から見る現代日本における自己欺瞞と責任放棄

大学3年の時にフランス哲学の授業で書いたレポートを掘り起こして読んだら面白かったのでブログに乗せておこうかなと。

この時期の僕はとにかく熱心に人文科学を勉強し、自分の周囲や社会全体にある矛盾と精神的に戦っていた。

まだそれから3年しかたっていないけど、いろいろな経験を経て、今は当時よりも器用になってしまった気がする。
良くも悪くも、ね。

今の自分のことが当時の自分と比べて嫌いなわけではないけれど、当時の自分には、今の自分が失ってしまった魅力があった。そしてそれを今でも取り戻したいと思っている。それでたとえ今よりも生きにくくなったとしても。

サルトルとマルクスの共通点から見る現代日本における自己欺瞞と責任放棄

ジャン=ポール・サルトルは、人間は自由の刑に処せられている、といった。ここでは、このような彼の自由に対する見地に基づいて、カール・マルクス的な歴史観と労働についての分析を援用しつつ、現代日本における人間の自由とそれに伴う自己責任から、職業ごとに即自化される人間存在とそこに潜む甘えからくる責任放棄までを考察する。現代日本で見られる報道や労働への姿勢には、資本主義社会の成立や人権という概念の一般化などから保障され、サルトルのいうような逃れられない刑罰ともいえる性質をもって人間を包み込んでいる自由からの逃亡という側面が見受けられる気がしてならない。以上のような哲学的な人間認識や歴史分析をもとに現代日本を再見し、両者の繋がりを明らかにすることがこの論文の目的である。

 サルトルは人間は絶対的に自由であると説いた。人間は自らの意識をもつ意識存在であり、状況によって常に選択を迫られるからである。一方、意識を持たない存在を即自存在と分類し、即自存在はその存在それだけで十全であるとした。その両者が偶然にただそこに存在するというのが、サルトルの存在論の基本概念である。しかし、意識存在の自由は同様に自由なほかの意識存在のまなざしによって妨げられる。他者のまなざしは「私」を即自化し固定することで「私」から自由を奪う。しかしサルトルは、他者のまなざしによって固定化されていることを認めなかったり、それにしがみついて生きたりすることを自己欺瞞として批判し、常に即自化された自分を受け入れたうえでそれを乗り越えていくのがあるべき自由な人間の姿であるとした。

 ここでサルトルのいう自己欺瞞が現代日本には溢れるように存在し、その結果として昨今の報道の在り方や社会問題の形成があると私は考えるのだが、その前にマルクスが唱えた自己欺瞞に拍車をかけるような社会構造を明らかにしている歴史分析とその社会構造における労働の性質をみていきたい。

  マルクスは、人類の歴史とは階級闘争の歴史であるとし、階級システムが革命を通して変動することで歴史が流れてきたと主張した。そしてその階級システムの形成と構造は、その時代の主要な産業、生産過程に依存しているという唯物的な分析をみせた。具体的には、狩猟採集と原始的共産主義、酪農・園芸・農業と奴隷制・封建主義、工業と資本主義という並列的な流れがある。産業革命やフランス革命が起きたころに、封建的な身分制度の崩壊と産業の工業化が進み、現代の資本主義への歴史的転換をみせたことから、この分析には一定以上の妥当性があることが伺える。ここで注目したいのは、資本主義への転換以前の階級は奴隷所有者と奴隷、土地所有者と小作人など、特別な法改正な例外的な権利の譲渡などを除けば極めて固定化され、生まれついた階級から抜け出ることはほとんど不可能だったという点だ。ここではサルトルのいう自由は、現実的な生存条件を加味すれば、他者のまなざしというよりむしろ社会構造によって妨げられていたように思える。一方で、資本主義の階級はブルジョワジーとプロレタリアートに二分されるが、資本主義が円熟し、産業が複雑化・情報化された現在では特に、個人レベルでの階級の移動はそう珍しいことではない。ここではサルトルの言う自由を妨げる他者のまなざしやそこからくる自己欺瞞は、それ以外の妨害的要素が考えにくいということから、より強い妥当性を持つ。

 マルクスが主張したもうひとつの概念として、労働の疎外化がある。これは、資本主義と産業の工業化・機械化のもと、ブルジョワジーのもつ生産手段のもとでその一部として働く労働者に起こるもので、マルクスは労働者が見舞われる疎外化として以下の4つを挙げた。まず、労働によって生まれる製品からの疎外化。これは、労働者がだれであれ、それが製品に反映されることなく完全に同じ製品が、そこからは特定不能な同じ顔を持った労働者によって無限に生産され続けることをいっている。次に、生産行動からの疎外化。労働者が生産過程で演じる行動は彼自身ではなく、雇い主である生産手段のオーナーによる間接的な行動である。3つ目に、種としての人間からの疎外化。人間は意識的存在であり、自由意思に基づいた行動こそが人間を人間たらしめるという前提において、そのような労働環境では人間は非人間化される。最後に、他者からの疎外化。労働者はその環境において、他者から一人の人間としてというよりむしろ、ある役割を埋める存在、機械やシステムの一部のような存在として認識される。

  このようなマルクスの労働の疎外化という主張と、サルトルいう自由とまなざしによる固定化は多くの共通点を持っている。ここでは、サルトルが『存在と無』で挙げたキャフェのボーイの例を使ってそれらをみていく。「彼のあらゆる行為は、われわれにはまるで遊戯のように見える。」「彼の表情や声までがメカニズムのように思われる。」「彼は演じている。彼は戯れている。しかし一体何を演じているのであろうか?(中略)彼はキャフェのボーイであることを演じているのである。」「キャフェのボーイは自己の身分をもてあそぶことによってその身分を実現する。(中略)彼らの身分はすべて儀式的なものである。」(ジャン=ポール・サルトル『存在と無』pp.177)以上はすべて同書からの引用である。マルクスは労働者を搾取の対象となっている被害者的な位置において論を進める一方、サルトルはそれを自己の責任に対する欺瞞という形で批判的に見ているという違いはあるものの、起きている現象自体についての両者の分析は一致しているように思える。まず、人間とは自由意志をもとに行動するはずの意識的存在であるという点でサルトルとマルクスの見解は共通している。ボーイの表情や声がそういうメカニズムのように見えたり、すべての行動が儀式的であったりすることは、マルクスのいう生産行動からの疎外化や種としての人間からの疎外化の示す内容とほとんど一致するし、キャフェのボーイをそのように観察している主体は明らかにボーイを他者目線から疎外化している。これはサルトルのディスコースでいうところの他者のまなざしによる意識存在の即自化とここでは同義である。

 以上のサルトルとマルクスの共通認識と、マルクスの歴史分析を合わせて考えると、サルトルの言う自己欺瞞的な行為は、資本主義が成立し、自由が社会構造から解放された現代以降にそれまでとは比較にならない深刻さで氾濫したと考えられる。また、この自己欺瞞的な行為には突然に与えられた自由に伴う自己責任からの逃避という性質が多分に含まれている。現代では、職業選択の自由や居住の自由などが公的に保障されているにも関わらず多くに人が自分の思うように生きられない不自由さを感じており、それらは間違いなく経済的な状況とそれに大きく左右される社会的地位に要因がある。現代日本においては経済的に安定した職業につかなければならない、他人から見た社会的地位をある程度の水準に維持しなければならない、こういう仕事についているのだから仕方がない、などという集合的な他者のまなざしによって形成された社会的抑圧が極めて強力に人々を支配している。そして彼らのほとんどは、絶対的に与えられている自由を認めずに、自らの判断とそれに伴う結果や状況を半分は社会的に押し付けられたものとして、その仕事や立場を演じ、自己責任から逃れようとするという自己欺瞞に陥っている。本来は自己判断に基づく行動に付随するネガの結果や状況も、自由な判断から生まれる自己責任の範囲に含まれるべきであるが、この自己欺瞞によってそれを他者のまなざし、つまり周囲の期待や社会の風潮・システムに責任を押し付ける傾向が生まれているといえる。自由を乗りこなすことを放棄した自己欺瞞的な人間の逃げ場である。

 こうした他者のまなざしにしがみついた儀式的な自己実現の行く末として、現代日本での報道や社会問題にその性質が大きく反映されているように思える。最も、こうした逃れがたいまなざし自体の性格を変えようと、ジェンダースダディースや人種差別撤廃などのリベラルな運動が起こってきたことはその前文の限りではないが、過労自殺やモンスターペアレントなどの社会問題はそれらとは分けて考えるべき問題として残る。まなざしの性格自体にも別種の責任があることは決して否定できないが、まなざしにしがみついた形での自己実現しか見えないあまりに陥った精神的・肉体的な苦痛が過労自殺という結果に繋がるという側面は実際にある。また、自己責任の意識が弱まるにつれて、変わりに生まれる人間関係の在り方に「甘やかし」と「甘ったれ」がある。この二つの人間同士の感情的相互関係は甘えという概念を中心においた日本人論で著名な精神科医、土井健朗が後年に現代日本の病理として強調した言葉だ。これらの概念は、資本主義・合理的な生産の円熟と共に氾濫した自己欺瞞的な行為などと時を同じくして日本人の親しみの基盤のひとつであった「甘え」から堕落して生まれたものだ。自己欺瞞と同じく無責任さを孕むという点で、両者は無関係ではないように思える。それが目に見える形として現れた問題のひとつとしてモンスターペアレンツがあげられるだろう。

 こうした自らの自由を否定し、責任を何か別のもの押し付けるという風潮から一続きの心理状態の先に、近年の過剰な悪者叩きの報道姿勢がある気がしてならない。サルトル的に言えば、職業などのレッテル貼りを通して自分たちを即自化し続ける集合的他者(=社会)がつくりだす集団表象の中で、その社会の一部がわかりやすく具体化されたもの、すなわち公人や準公人を悪として即自化することで、その集団表象内での自己欺瞞的な自己実現を正当化する行為である。サルトルは「公衆は彼らがその身分を一つの儀式として実現することを要求している。」(同書.pp177)という。近年では、この儀式的に決められたダンスから外れたことをした者を過剰に取り上げるという報道が溢れている。暴言を吐いた政治家、出家した女優、不倫したタレントなど枚挙に暇はない。中にはこれといって法に触れないものまで含まれている。しかし、こうした報道に煽情されることで、公衆は自らの即自化された自己欺瞞的な行為を正当化、それを促す他者のまなざしを内面化して自ら強めることで、労働における自由を否定し、それに伴う責任を放棄する。

 以上、ここまでで最初に挙げた考察範囲を終えたことになる。個人の責任能力にかなりの期待を載せるような論調になってしまったが、途中リベラル的な活動に軽く触れた通り、まなざしの在り方や社会システム自体に問題があることにも疑いはなく、それらは個人の責任問題と分かちがたい問題として、天秤の反対側にかけられている。しかし、それらに甘えて自己欺瞞に陥ったり自己責任を放棄したりという事態が資本主義や工業化に基づく合理化、マスメディアなどによって、私たちの自己認識のより広範囲へ、より深く根を張り続けようとしていることにも同様に疑いはない。そのような現代日本において、以上見てきたような人間認識の視点や、歴史観、(集団的)他者からのまなざしの繋がりを意識存在として意識することは、自主性と自己に対する責任感をもつより良い人間として生きるための一助になるだろう。

ABOUT ME
ささ
25歳。 副業で家庭教師をやっているので教材代わりのまとめや、世界50か国以上旅をしてきて感じたこと・伝えるべきだと思ったこと、ただの持論(空論)、本や映画や音楽の感想記録、自作の詩や小説の公開など。 言葉は無力で強力であることを常に痛感し、それでも言葉を吐いて生きている。 ときどき記事を読んでTwitterから連絡をくれる方がいることをとても嬉しく思っています。何かあればお気軽に。