知覚動詞(see, hearとかね)はSVOC、つまり第5文型をとります。
そしてSVOCのときのCにはVingや動詞の原形がきます。
Cに動詞の原形をとれる動詞は限られた数しかありません。
知覚動詞はそのひとつ。『I Shall Be Released』のサビで使われているので見てみましょう。
今回はさらにテーマをもうひとつ。
「自動詞の倒置」です。
これ、結構頻繁に起きるのにあまり学校英語でも受験英語でも英会話でも強調されていない気がします。
こちらも歌詞のなかに好例が出てくるのでみてみます。
まあ、そんなことより『I Shall Be Released』はどうかしてるレベルの神曲なので
味わい尽くすためにも英語を英語として読めたら震えますから。本当。
ギター持ちたくなりますよ、聴くたびに。
Contents
「I Shall be Released」における知覚動詞のSVOC
I see my light come shining
サビの入りです。
my lightが 知覚動詞 see の目的語です。
その後にある come は see の C です。(ややこしい)
「O→C」、ここでは「my light → come」、は see の持ち物と考えてください。
「OがCするのを見る」だから 「私の光が来るのを見る」ですね。(ド直訳!)
ちなみにその後の shining は come が形成する SVC の C だと思ってOKです。
SVCはbe動詞ベースの文型ですが、意味的に無色なbeの代わりにニュアンスや動きを意味に加えるため、be以外の自動詞が使われることがよくあります。
この場合は、my light is shining 「私の光が輝いている」をベースに
my light come shining 「私の光が輝き降り注いでいる」が生まれてきます。
(もちろん本当にディランがこういう文変形をしているわけじゃないですよ。こう考えるとわかりやすいって話ね。)
まあこれは結構深い話なので、深入りはしません。(ん?)
(ここでいう is が come になる感覚というのは、受動態で be の代わりに get が使われることがあるのとまったく同じ感覚です。)
知覚動詞のSVOCについての文法的な話
知覚動詞のSVOCの文法的なポイントと余談をまとめておきます。
- 知覚動詞はSVOCをとり、CにはVing・Vp.p.・動詞の原形などが入る
(それ以外に何が入るかは動詞によって違う) - 知覚動詞といえばこの人たち↓
see, hear, watch, listen to, look at, feel, smell, notice, perceive… - 知覚動詞以外でSVOCのCに動詞の原形をとれる動詞↓
make, let, have, help (覚えましょう。)
知覚動詞について詳しくは下記の基本動詞の文型シリーズでチェックできます。
「I Shall be Released」における自動詞の倒置
Standing next to me in this lonely crowd is a man who swears he’s not to blame.
「この孤独な群衆のなかで僕の隣に立っている男、彼は『俺は悪くない』と誓って言うんだ。」
次のテーマは自動詞の倒置です。
この文の文型正しく取れますか?(倒置だって書いちゃってるけど。)
以下のように書き換えれば一目瞭然。
A man who swears he’s not to blame is standing next to me in this lonely crowd.
「『俺は悪くないんだ』と誓って言う男は、この孤独な群衆の中で僕の隣に立っている。」
A manが全体の主語で、blameまでが全部 A man を修飾するwhoの形容詞節(主格の関係代名詞)ですね。
全体の動詞は is standing で進行形。
残りは全部副詞です。
え?訳が変わってるじゃないか?
当たり前じゃないですか違う順番で書かれてるんだから!
この文章、倒置になっている理由は2つあります。
そしてその両方が英語の言語として一般的な性質が関係しています。
①英語では、長いものを後ろに持ってくる
②英語では、強調したいものを後ろに持ってくる
今回は主語の A man に who節という「長いもの」が引っ付いています。
通常の語順どおり A man を文頭におくと、動詞の is standing までが長くて嫌なのです。(別に普通にそう書くときもあるけど。)
また、強調したいものを後ろに、というのは日本語でも同じですね。
二つの日本語訳を比べてください、
「この孤独な群衆のなかで僕の隣に立っている男、彼は『俺は悪くない』と誓って言うんだ。」
「『俺は悪くないんだ』と誓って言う男は、この孤独な群衆の中で僕の隣に立っている。」
やっぱり後ろにあるものを結論だと思ってしまうのが人間です。
ここでディランが伝えたいのは「男が隣にいること」ではなく「彼が『俺は悪くない』と言っていること」です。
ここをより強く描写したいからこのような語順をとらせているのです。
自動詞の倒置についての文法的な話
自動詞の倒置の文法的なポイントと余談をまとめておきます。
- 実は There is/are ~ 構文もこれと同じことが起きている。
- The Beatlesの『Here comes the sun』(名曲。大好き。)
このタイトルも同じく自動詞の倒置。
ゆえに僕の普段の英語の授業では自動詞が倒置される構文は
「Here comes the sun構文」と呼ばれる。 - On the small green hill is a pretty wooden house.
「小さな緑の丘の上に可愛い木のお家があります。」
みたいな、前置詞句が前に出る倒置もある。
倒置しない場合のニュアンスの違いを確認しましょう。
A pretty wooden house is on the small green hill.
「可愛い木のお家が小さな緑の丘の上にあります。」
話のトピックが丘の上のという場所にあるか、
木のお家というモノにあるか、という違いですかね。 - 「文中に出てくる前置詞がついていない最初の名詞が主語」という軸を忘れないで読めば、この手の倒置にはすぐに気づける。
その他、歌詞の中の英語について
So I remember ev’ry face of ev’ry man who put me here
everyのあとは単数形。
They say ev’ry man needs protection
everyがつく名詞は扱いも単数なので needs にも3単現のS。
He’s not to blame
文法的整合性を考えれば「He’s not to be blamed」になる部分。(それでも一応あってる)
けど、この表現については not to blame がより普通に使われるので注意。
このような例はあまり多くありません。
類例は This house is to let.とか。
この類の「態の中和」なる現象はこれ以外にも循環構文がらみでよくみられます。
(小難しいことをハイコンテキストは書き方で言ってるので無視してください。そのうちどこかできちんとまとめます。。。)
From the west unto the east
unto は to と同じです。
古い、または詩的な言い方。
どこで調べても<古>と出てきます。
最後に曲を褒める
たぶんディランの曲で僕がいちばん口ずさむことが多い曲です。
都内を自転車で20-30キロかっとぶ遊びをしたことがありますが、なぜかその間ずっとこの曲が頭で流れていた。
自然の中で頭に曲が流れてくることはありがちですが、情報量が世界一多い街と言っても過言ではない東京でも、頭に張り付いて離れなくなりました。別に都会的な雰囲気の曲ではないのに!
普通に読めばこれは謂れのない罪で捕まった男の話でしょう。
So I remember ev’ry face of ev’ry man who put me here
この行の here は刑務所だか拘留場だか。
Some place so high above this wall
壁ですね。牢獄かなにか。
a man who swears he’s not to blame
Crying out that he was framed
ここらへんはストレートですね。
frameには他動詞で「罪に陥れる」「濡れ衣を着せる」という意味があります。
そしてこういった状況からの、、、
I shall be released.
とくるわけです。
shallというのはよく「場の権力者の意志」さらには「神の意志」を表す助動詞と言われることがあります。
他の助動詞と比べて、自分の超えたもっと大きなもの意志が裏にあるため、運命的な、ドラマティックな響きを持たせるのに向いています。
Shall we dance? もそういう理由で素敵な感じ。
これが Will we dance? だと自分たちの意志なので一気に世俗感が出る気がする。なんかがめつい。
一方でプロポーズの Will you marry me? はプロポーズする側の愛しぬく自分の意志と覚悟を伝えないといけないので will がいい。
Shall you marry me? だとなんか。。。
ただの慣用的な言い回しと言えばそれまでですが、それだけではないと思うの。
そういえば『I Shall Be Released』と同様に Shall という単語が力強く使われている曲と言えばこちら。
『We Shall Overcome』
ディランの盟友でもあるジョーン・バエズのものが有名です。ベトナム反戦で歌われたのが印象的。
以来、紛争などが起きるたびによく引き合いに出される名曲。
コロナ禍の今でも人々の心に響きそうです。
さて、『I Shall Be Released』はディランの中でも最もよくカバーされている曲のひとつです。
この曲がこの冤罪を歌っただけの一義的な曲に留まっていたらここまでの名曲とはなっていないはずです。
この曲の真の魅力は、全く同じ歌詞を「精神の解放」や「社会の中で置かれた状況からの解放」などに置き換えて聞いても、なんおの遜色もなく感動的だというところにあります。
社会派なテーマを持たせて聴いても良し。
自分の心に寄り添う個人の精神の救済と聴いても良し。
具体的な出来事に投影して聴いても良し。
抽象論として染み渡らせるように聴いても良し。
具象と抽象の間でまさに完璧と言えるバランスをとった詩。
だからこの曲はあらゆる人の心を動かすのです。
どれが正しい解釈というのは、やんややんやというのが楽しいファンのおしゃべりテーマに留めておいて、自分が聴くときはそのときの自分の心に入ってくる形で聴くのが一番です。
『I Shall Be Released』の歌詞からタイトルをとった『Any Day Now』(邦題『チョコレート・ドーナツ』)という映画があります。
ゲイカップルが、薬物中毒のシングルマザーにネグレクトされているダウン症の少年を引き取って育てる話です。
決して社会問題やマイノリティを詰め込んだだけのお涙頂戴ものではなく、様々な立場で社会という枠に人々とはめられていく様子と、そこから外れてこぼれ落ちていく様子が丁寧に描かれています。
公開当時は界隈でかなり話題になった知る人ぞ知る名作というイメージ。
劇中のシーンで、シンガーでもある主人公が『I Shall Be Released』を歌います。(このカバーも好き。)
※ほぼラストシーンなのでまだ観ていない方はネタバレ注意です。特に映像から決定的なネタバレはありませんが、英語がわかる方はセリフが完全なるネタバレなので!
この映画では「社会に残る性志向や障がいに対する差別」や「薬物依存とその周囲の境遇」「司法制度の不完全さ」などがテーマになっており、 not to blame な登場人物たちが framed されます。
それでも前を向き、any day now 「いつか、いや今すぐにでも」
I shall be released 「きっと解放されるんだ」
というふうに『I Shall Be Released』が再解釈されています。
真の名曲たるもの、この懐の深さこそが、
何度味わっても尽きない魅力の源泉なのでしょう。
お気に入りのディランの詩集↓
余っているまとまったポイントなどがあればこれに使うべし。